脳内バンド

友人がやっているバンドのライブを観に行った際、その日の対バンがライブ中に告知をしていた。今後のライブ予定をひと通り述べた後、それぞれのメンバーが別で活動しているバンドの告知も行っていた。キーボードの男性だけ特に他では活動をしていないようで、メンバーが「君は何かあったっけ?」とないことを知ったうえで一応聞いてみると、その人は「僕は脳内バンドの活動が…」と答えた。一緒に観に来ていた友だちが「暗ぇよ」と小声でつっこんでいた。

確かに暗いかもしれないが、誰でも一度は脳内バンドを組んで活動したことがあるはずだ。中にはポール・マッカートニーよろしく俺が4人いたらなあと考えたことがある人もいるかもしれない。

10代の頃は理想のスーパーバンドをよく妄想した。ボンゾ、エディ・ヴァン・ヘイレン、ジャコパス、ジョンレノンみたいな。さすがにこれは芸がなさすぎるが。しかし、年を取るとこういう遊びをしなくなるからいけない。

脳内バンドに比べて実際にバンドを組むということは非常に骨の折れることだ。まずメンバーが見つからない。メンバーを見つけようとした場合、まずネット上のメンボを覗くことが多い。

しかし、メンボを見てもまあ趣味の合いそうな人は皆無に近い。これは、と思うものがあったとしても、連絡するかといえばそうでもない。やはり躊躇してしまう。勇気を出して連絡したところで返事がないこともある。結局は見て終わりということが多い。

ところでメンボには本来の使い方以外にも楽しい活用法があることを知っているだろうか?まずギターを手にしてメンボサイトを閲覧する。これはと思うものがあれば、目指す音楽性の欄などを参考にして、こういう趣味の人たちならこういうギターが合うだろうと勝手にギターを弾いていく。言わば脳内セッションだ。飽きたら次のメンボ、といった具合に進めていく。時間を忘れて楽しめること請け合いだ。引き出しの数が試されるから学ぶことも多い。

話は戻って脳内バンドのこと。現在、”テニサーヒルズ”というバンドを構想中である。とりあえずバンド名だけ思いついた。

最近はバブル前夜あたりのリゾート感覚というか、ラグジュアリーな雰囲気が流行っているようだ。街を行く人の格好を見ていてもそう思う。山口智子を使ったサントリーオールフリーの広告もそういった類のものだ。自分は昭和62年生まれだからまだ生まれる前のことだが、その残り香のようなもの物心のつく前のことではあるにしても記憶にある。

遊び方を心得た大人達のハイカラな趣味の後に来るものはおそらく成金趣味だろうと思った。土着性に後ろ髪引かれつつ富裕層に憧れる中流のための音楽。それがテニサーヒルズの目指すところである。ただ具体的な音楽のイメージは全く湧いてこない。

そういったことを無視すれば、近頃”Gloria”や”You’re Gonna Miss Me”、”All Day And All Of The Night”といった曲をベロンベロンになってラフに演奏したいという意欲があるので、そこにテニサーよろしくコールを加えて演奏すればいいのではないかと考えている。メンバーが全員潰れたところでライブ終了。当方飲みに自信あり。

 

慣性の法則により放置

エアコンが壊れた。

実際の話、昨年の夏より壊れていたといえば壊れていた。冷房をつけると水が漏れるようになったのだ。今夏はティッシュペーパーを3枚程丸めたものをエアコンと壁の隙間に挟み込み、水をティッシュに吸収させた後、重力に従って落ちてくる所を2リットルのペットボトルで受け止めるという対処法を取っていた。26度に設定した場合、2時間程でペットボトルは一杯となる。赤ん坊のオムツを変えてやるつもりでこまめに水を捨てた。

しかし、なぜだかこれがうまくいかないようになり壁伝いに水が垂れて床が水浸しになるという事態が再び発生するようになった。そこで抜本的な問題解決の必要が生まれた。水が漏れるようになった原因は排水ホースに穴が開いているからである。排水ホースは壁に埋め込まれたパイプに接続されており、排水ホースの穴の空いた箇所はパイプの口に触れる部分であったため、ここにビニール傘から焼き海苔大に切り取ったビニール部分をあてがって水がパイプに流れ込むようにした。完全に水漏れがなくなったわけではないが、これでかなり改善されたのであった。しかしそれも束の間のことであった。ピーピーという微かな電子音が聞こえてくるので、耳を澄ますとエアコンがそれを発しているのがわかった。見るとエアコンは動いていなかった。リモコンの電源ボタンを何度押して反応することなく、本体のほうでオン・オフを繰り返してもうんともすんともいわずであった。素人考えを述べれば、おそらくビニールを雑にあてがったため排水が上手く行われずエアコン内に溜まった水が電気系統に触れてしまったためではないかと思っている。

大体こういうのは放っておけば直るものだという楽観性の下、数時間放った後、再び電源を入れようとするがやはりピーピーというだけである。

気休めに”エアコンなし 夏”というワードを検索にかけてみたりもしたが、黙ってエアコンつけろという意見が大多数であった。また、就寝中に起こったエアコンの故障が原因で熱中症になった人の記事などがヒットし、いよいよ暗い気持ちになってきた。 まだ残暑もあるというのに。気が重い。泣きたい。

しかしそのうちに、なきゃないでいいやという気持ちも生まれてきた。私は運命を受け入れる覚悟した。

いや、業者呼べよとか、不動産屋に連絡しろよと言う賢い方もおられることだろう。しかし私はもう覚悟を決めてしまったのだ。一度決めた覚悟を取り下げるというのは誠に面倒なのだ。例えば、何かしらの危機に見舞わされた人類の命運を背負って立ち、自己犠牲も辞さないと覚悟を決めたウィル・スミスあたりに、「あー、やっぱりあの話なしでお願いしますー!もう大丈夫らしいんで^^」と言ったらどうなるか。大変がっかりすると思うよ。

人間も慣性の法則に従って生きているに過ぎないと言った友人がいた。まったくもってその通りだ。何事も最初のひと押しが肝心である。

ちょっと待った。この先には冬が控えているではないか。絶句。

 

我がお師匠さん

極希ではあるけれど、おまえのギターは何を手本にしているのかと尋ねられることがある。これは聞かれて嬉しい質問であると同時に答えに窮する質問でもある。回答に窮する理由について述べようと思ったが底なし沼に嵌っていきそうだったので思い切って省略する。それでもやはり容易に答えられる質問でもない。今後いつ訊かれてもいいようにある程度の筋道は立てておきたい。

と、思ったがやはり面倒なことは一切捨て置いて、ここは勢いだけで好きなギタリストを挙げていこう。

ウィルコ・ジョンソン Wilko Johnson

右の手首の力を抜いた状態でピックアップに対しやや垂直気味に人差し指中指薬指の爪を弦にぶつける。6弦を弾く場合はテンションが高いブリッジ寄りをコンコンと叩く。こう弾くと小気味の良い締まった音になる。

「君、指で弾くんだね?ピックアップにもピークというものがあって下手くそが力んで弾けばやはり音は汚くなる。指で弾けばいい塩梅の音量になるからピックで弾くよりも良い音がするんだよ。」学生時代、ドクター・フィールグッドのコピーバンドをやった際にある先輩より言われたことだ。そういうもんなんでしょうか。

ウィルコ・ジョンソンのブラッシングの音はシュコシュコシュコシュコと聴こえるから、聴いていて悩ましいに気持ちになる。

右手のタイミングには揺れがある。“She Does It Right”のリズム・パターンはセカンドラインに近く、少しばかりシャッフル気味に弾いているような気がする。ブリッジ側からネック側へ行ったり来たりしながらストロークするためか。

女の子が生まれたら「ウィル子」と名づけたいと思っている。男の子だったら「ブリ郎」。

デヴィッド・T・ウォーカー David T. Walker

世の中にはエレガントなエロがあることを教えてくれた。 ニック・デカロ『イタリアン・グラフィティ』収録の”Under The Jamaican Moon”の前奏、間奏及び後奏における手練の技。大人の余裕を見せていたかと思えば急に少年のような茶目っ気も見せるから 尚恐ろしい。初めて聴いたその日から今日に至るまで抜かれた骨の数夥し。

エイモス・ギャレット Amos Garret

不可解なのはボビー・チャールズのアルバムにおけるその抑えに抑えた激渋の演奏だ。ロビー・ロバートソン抜きのザ・バンドにエイモス・ギャレットという堪らない顔ぶれによる演奏も渋すぎやしないかと感じてしまう。そう思ってしまうのはおそらく私が素人だからだろう。想像するにきっとボビー・チャールズも含め彼らは檜風呂のようなグルーヴを生み出そうとしたのだろう。なんてかっこ良い人たちなんだろうか。

それはさておきエイモスさんのこと。エイモスさんの得意技に1音半チョークダウンというものがある。これをやられたら三半規管がイカれるのでたちまち酔ってしまう。きっと弾いている本人も酔っている。すっかり千鳥足なのだが、それはもう見事なステップの千鳥足だ。なぜそのタイミングで!という常人には理解しがたいタイミングでステップを踏んでいたかと思えば、体が段々と宙に浮き始めて昇天。エイモスさんはそういうギターを弾く。

来日公演を渋谷のクワトロまで観に行った。ステージに現れるとまず譜面台に置いてあった袋よりバンジョー用のピックを取り出し指に嵌めようとするのだが、手が震えてなかなか嵌められず、見ていておいおい大丈夫かよと思った。しかし弾き始めたら絶好調も絶好調。この日以上に音楽を聴いて心地よくなったことはない。しかるにライブの細かい所は一切覚えていない。終演後Tシャツを買ってサインしてもらった。間近で見るエイモスさんは恐ろしくチビリそうになった。

 

ロバート・クワイン Robert Quinn

マシュー・スイートとリチャード・ヘル、どちらも最高。久しぶりに聴いたらいかに自分がギターを弾けていないかということを痛感させられてヘコんだ。

ダニー・コーチマー Danny Kortchmar

オブリガートというものがこの世に存在することを教えてくれた。それは、世の中には良い曲というものがあって、同時に良い歌と良い演奏があるということを教えてくれたということでもある。この人の存在が裏方に目が向かせるキッカケにもなった。

ダニー・コーチマーに私淑していたと言っていいだろう。ギターというものは気持ちよく弾くものであるということ。粋な音、野暮な音があること。野暮な音は決して出さないこと。たまにはあえて外すことも忘れずに。そういったことを学んだ。

久々にJo Mamaを聴いていてダニー・コーチマーのような姿勢で音楽に接したいと改めて思った。それが自分にとって理想的なことのようにも思う。

https://www.youtube.com/watch?v=E5TxpJVKKQ8

鈴木茂

一時期どうしたら鈴木茂になれるかと思ってギターを弾いていた。「夏なんです」や「外はいい天気」のもわんとしたフレーズが心地よくて好き。

 

夢の話に遠慮は無用

今思い返すとあのときどうにかなっててもおかしくないよな、という話。

学生の頃、サークルの部室に皆で集まっていたときのことだ。誰に言うでもなく「あー、今日の夢やばかったなあ」と呟いた。目の前にいた友人が微塵も興味がなさそうだったものの親切心で「どんな夢だったの?」と尋ねてくれた。私はなぜか急に照れてしまいニヤニヤしながらやや間を置いて「ンフー、秘密!」と返した。友人は黙って私の顔を見つめていた。そのときの彼の眼は非常に恐ろしいものであった。

この世には目を覆ってしまいたくなるような邪悪なものが確かに存在する。そういったものと比べればまだ可愛いほうかもしれないが、それでもそのときの私は巨悪だったと思う。

今こうして思い出話のひとつとしてこれを話題にあげることができているのも、彼の器のでかさ及び忍耐力の強さのおかげだ。本当にありがとう。

夢の話ほど需要と供給が不釣合いなものはないかもしれない。内容がどうこう以前に、もう夢というだけでその話お断りという人もまま見受けられる。夢というのは大抵が荒唐無稽で脈絡がなくオチがないものだしそれを退屈だと感じるのも頷けることではある。しかし巨悪にしてみればそれがどうしたという話でしかない。もしも自分が独裁者だったらきっと新聞に「総統夢日記」というコーナーを作るだろう。想像しただけでゾクゾクする。

しかし、世の中には、どうでも良いことに対して「まじでどうでも良いわ」と宣言したいと思っている人が一定数存在する。確かに物事に対して「どうでも良い」と表明することにはカタルシスがある。私の「ンフー、秘密!」という一言に対して友人が怒りに打ち震えた理由には私が彼のカタルシスを阻害したことがそのひとつとして挙げられるだろう。そういった形で需要が存在するからこそ、どうでも良いことは日夜絶えることなく供給され続けなければいけない。そこら中で量産されている夢の話もそういったものの一つだ。

世界からどうでも良いことが一切なくなってしまったときのことを想像してみよう。全ての事物がどうでも良くないことになってしまうのだ。私が今ここで必死に左肘を舌で舐めようと奮闘していることが誰かにとってどうでも良くないことになってしまったら?私はその人のことが気の毒でしょうがない。誰がそんな世界を望むだろう。

だから人間は毎晩夢を見るのだし、翌朝誰かにそれを話したくなるのだ。そういった営為によって世界の均衡は保たれている。 どうでも良いことはどうでも良いこととして存在しなければいけない。どうでも良いことがどうでも良くなくなってからどうでも良いことのどうでも良さを痛感したとしてもそれでは手遅れなのだ。だから夢の話をすることに遠慮など必要ないのである。というわけで以前twitter上で呟いたオールタイム・ベスト悪夢を結びに代えたいと思う。

悪夢を見た。田中邦衛の性欲処理のために開発された田中邦衛のクローン 人間。それが俺。感覚が同期されているので邦衛がいじると俺もムズムズする。「同じ人間なんだから仲良くしようぜ」と迫ってくる邦衛への恐怖と自分の宿命に対する絶望から川に投身するところで目が覚めた。

 

訪問販売に泣く

ネット契約の訪問販売が来た。ドアを開けるやいなやどこの者かもきちんと名乗らぬ内に回線がどうした値段がどうしたということを一方的にまくし立ててくる。昔学校で教わった自分がされて嫌だと思うことは人にやってはいけませんよという内容の故事成語に倣って、自分が話しているときに遮られたら嫌だし人の話は最後まで聞くということを実践していたら、あれよあれよという間に工事の予約を取り付けようとしてくるのでこれはナンパ物のAVなのかと思う。精神が蹂躙されているような心持ちになり情けなくなってくる。

以前、似たような場面に出くわした際はいっそのこと泣きだして相手を困らせてやろうかとも思った。結局は、うーん、いやあ、そうですねえ、という曖昧な相槌を打って相手が根負けするまで粘り撃退した。卓球でいうところのカットマンスタイルだ。

向こうはこちらの意志など関係なしにどんどん話を進めていく。時折「そちらはご了承いただけたらと思います」というような言葉が挟まれるが全く意味を成していない。そういう一方的な話の進め方をされると、戦略としてではなく実際に涙が出そうになる。

今回も最初は悲しみが勝っていたが、段々と怒りが湧いてきた。ひと通りの話は終わったようなので、そもそも契約する気はないと言うと、こんなにお得なのに何で切り替えないんですか?馬鹿なんですか?という態度を取ってくるし、浮いたお金で遊んだりできますよなどといらぬアドバイスまでよこしてくる。余計なお世話だ。

死角から鞄がちらちら見えていた。話している男の先輩がそこに立って様子を覗っているのだろう。男の話しぶりにはそいつに対するパフォーマンス的なところもあって更に腹が立つ。

何でダメなんですか。納得がいかないのならきちんと説明しますよと言うので、いきなり一方的に話されても困る、と答えた。そのときの私は炭酸飲料の入ったペットボトルで、ひとしきり揺さぶられた後、蓋を少しだけ開けた状態であった。感情が隙間からジュンジュンいいながら漏れてくる。F1の表彰式におけるシャンペンファイト、日本一の球団によるビールかけと比較すれば、微々たる感情の発露だ。しかし完全に開けてしまえば泣いてしまうだろうからこれ以上は開けられない。

そもそも急に来てこちらの時間の都合も聞かずに一方的にまくし立てられても困る。最初にそれを尋ねるのがマナーじゃないのか。そういった旨を顔面をプルプルさせながら伝えると、あー、忙しかった感じですか?今度は低姿勢で来るのでまたお願いします。と言って去っていった。

色々と納得のいかないところはある。こちらの内面のシュワシュワなど相手の知る所ではない。なるほど相手にしてみればこちらは顧客開拓のワンオブゼムに過ぎないかもしれない。それにしたってそんな軽い返しはあるか。だいたい低姿勢って何だ。俺はいわゆるめんどくさい人間なのか。

怒るのが下手だ。たまに怒りを表明するとキレてんの?と言われ洒落になってしまう。なんてださいんだろう。

きっと戦場に出たらマシンガンを見境なく撃ちまくって味方を困らすタイプだ。 一方で世の中には合気道の名人のような美しい怒り方をする人もいるはずだ。そういう人に私はなりたい。しかしそう願えば怒りがパフォーマンスじみてくることだろう。変に意識して照れ笑いしてしまいそうだ。恥じらいを顔に浮かべつつ涙を流し激昂してる奴がいたらそれはそれで怖い。