トリリンの『日々是ハピネス!』

▪️前回までのあらすじ

「不明なアーティスト」に出演した際に、学生時代に通い詰めた在りしの日の部室を思い出し、懐古の念を強くする鳥居であった…

角川シネマにて『ミスター・ダイナマイト:ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』鑑賞。
印象に残ったのは、メイシオ・パーカー、メルヴィン・パーカー、ピー・ウィー・エリス、フレッド・ウェズリー、クライド・スタブルフィールド、ジョン・ジャボ・スタークス、ブーツィー・コリンズといったミュージシャンたちのJBへの思いが皆一様にビターということ。もちろんギャラの未払い問題などで、態度に現金なところがあるのもやむ無しとは思うが、変に美談に持って行ったりせず、長いキャリアの中の仕事のひとつとして振り返る姿がドライでとてもクールだった。
美談というものは活動に潤いを与えることもあるが、同時に湿気らせもするし、もっと行き過ぎれば液状化させもする。活動する側が美談ありきの湿っぽい活動を続けた場合、その活動はグダグダでビチョビチョなものになりがちだ。昨今はSNSなどを通じて長い長い梅雨のように美談がしとしとしとしと降り続くので、どうしてもアン・ピーブルズのような心持ちになってしまう。
ヒップホップのブレイクの大定番「ファンキー・ドラマー」を演奏したクライドご本人によれば、「全然好きじゃない。あんなもんはやっつけ仕事だ」とのことだ。これを聞いて思ったのは「スタンダード」を作るのはやはり聴く側ないし受け取る側の方であるということ。ここでまた「”わたしゃ富山の押し売り男”の受け売り男」の登場だが、大滝詠一は「ポップス”普動説”」の中で以下のように語っている。
「歌は世につれ、というのは、ヒットは聞く人が作る、という意味なんだよ。ここを作る側がよく間違えるけど。過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことなんてないんだ。作る側はあくまで”作品”を作ったのであって”ヒット曲”は聞く人が作った。」
『ミスター・ダイナマイト』に登場したミュージシャンたち、加えて『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』に登場した名うてのスタジオミュージシャンたちも、業界の酸いも甘いも味わいきったような風情があり、なんてことのない様子で語る姿がまた渋いというかクールだと感じた。また眼光から放たれるミュージシャンとしての矜持にすこしクラクラした。
ところで、プロモーションの一環で行われるインタビューで「おもしろい!」と思えるものって相当稀ではなかろうか。特にネットのコンテンツ。あれって誰のために作られているものなんだろう。「CDTVをご覧の皆様!」みたいなお約束的なものか。受ける方も受ける方でプロモーション故に無下にはできず、渋々やって、やっつけ程度に適当に流すのがマナーみたいな風になっているが、そんなもん読んでもねぇ。読むほうも無料だしこんなもんかと思って読んでいるのだろうか。「何か書いてあったな」程度のものがネットでは良い湯加減なのかもしれない。でも本当はレコミンツのHPでやってたミンツバーとか、ああいうのが読みたいですよ、こちらとしては!そういえばインタビューのお金の流れってどうなっているんだろう。どっちがどっちにお金払っているのだろうか。
はなしかわって(映画は未見)。「ずっと居心地の良い所にいてはダメだ」みたいな考え方ってあると思う。居心地の良い場所に留まっていると、そこに埋没してしまい、その結果、魂が淀んで腐ってしまうから良くない、というような。
既に「在りし日の部室」という表現を使ったが、これは自分にとって居心地が良いものの象徴だ。もはや失われてしまったものではあるが。
大学生活の終わりごろから、話が合う人と日常的に接するということがなくなり、ある種の欲求不満のようなものに苛まれて、こんなようでは先が思いやられるぞと危機感を覚えることがあった。それほどまでにサークルにおける人間関係を内面化していたということか。
そういう危機感もあったし、「ずっと居心地の良い所にいてはダメだ」みたいな考え方が自分の中にも少なからずあったのに加え、よく人文系の偉い人が「他者と出会う」みたいことを言うので、それを真に受けて、いささか自分本位の身勝手な言い草ではあるが、いまいち話が合わなかったり、大前提となるような感覚が共有できそうもないことが端からわかっている環境に身を置く場合でも、何かしらの刺激になるだろうと思ってしぶとく居座ることもあった。
これが果たして「他者と出会う」といえるのか、といった疑問が頭をもたげつつも、結局状況におし流されて、ただただ時間だけ過ぎていく、というパターンをあまりにも多く繰り返しすぎた。常日頃から共感なんぞ傍ら痛いなんて考えているつもりであっても、自分以外の者が全く同意できないことに対して「わかる」「そうなんだよ」「なっ!」なんて言い合っているのがごく当たり前の環境にいるとさすがに心細くもなる。「やっぱり雨降って地固まるよな」「そうなんだよ」「結局ね」「今地固まってんのも雨が降ったからなんだよね」「わかる」こんな会話を素面で聞いていられるものか。
ふと我に返ると自分は一体何がしたいんだろうと考え込んでしまう。このまま十年一日のごとくこんなことを続けていくことに何か意義があるのかと考えてしまう時間が日に日に増えているような気もする。年に数回、短期的に居心地の良い環境に身を置いて何かに取り組むことができる機会があるので、日常が尚惨めに感じられてしまうというところもきっとあるだろう。結局、自分で「出会い」にまで昇華できていないだけの話だろという指摘もあるだろうが、今は捨て置くとする。
小さい頃、ケガをしたりして痛がっていると、祖母が「生きてる証拠」と気休めの言葉をかけてくれた。居心地が良くない環境は基本的に摩擦係数が大きく、不和やもどかしさが常にあるから、心に負荷がかかり、ストレスという形で「生きてる証拠」のようなものを与えてくれる。しかし、その気休めの言葉をとっかかりにして事態を受け入れたとしても、さすがに荒涼としすぎているというか、サバイバルが過ぎるというか、寄る辺なさにもほどがあるのでは、と考えてしまう。そもそもの話、こんなものは無益な我慢でしかなく、消極的に嵐が過ぎ去るのをただひたすらじっとして待っているだけではないのか。
そのような自分を対象化し「タフな状況でも常にファイティングポーズを取り続ける男」といったセルフイメージを抱き、ヒロイズムに酔いしれるという方法もあることにはあるだろうが、そんなものは馬鹿馬鹿しいと感じてしまうので採用は難しい。どう考えたって間抜けだろう。
それでもやはり、似たような格好をして似たような考え方をする者どもが寄り集まり、互いに目配せして「どうよ?」「最高」とやっているところに、また似たような格好をして似たような考え方をする者どもがどこかしらから集まってきて「いいね」などとやっているのを傍から見ていると、消化されつつあるものが胃からこみ上げてきて吐き出しそうになるし、つまり反吐が出るということだが、さらに言えばそんな輩どもには血反吐を浴びせかけて回りたい衝動に駆られるし、賞賛のロンダリングしては恍惚とした表情を浮かべ悦びのあまり涎を垂らしてプルプル震えているような集団の一員になるぐらいなら、決して居心地が良いとは言えない環境でこめかみに青筋を立てて一人でプルプル震えていたほうがまだましではないかと考えてしまう。そんなふうに考えてしまうのは負け犬根性が染み付いてしまっているからだろう。
こっちは6年ぐらい前から「混血」というテーマがオブセッションになっているので、そういう純血野郎共とは相容れるわけがない。しかし、相容れないという理由で排除するのであれば「混血」というテーマから外れてしまうのではという懸念もある。それでもやはり四六時中血反吐を吐いているわけにもいかないので嫌いなものは嫌いと言う他ない。明日には好きかも。
気の置けない仲間たちと内輪でワイワイやることの楽しさはわかっている。一方でウディ・アレンが紹介したことで有名なグルーチョ・マルクスのジョーク、「私を会員にするようなクラブには入りたくない。」みたいこともあるから、何をしていても”100% FUN”というのはなかなかに難しいことと思われる。
「他者と出会う」とはつまり「個人と個人が出会う」ということで、それは決して「個人がある集団に溶け込む」ということではないはずだ。しかし、被害妄想の気があるだけかもしれないが、どこに行ったって少なからず「同化」を求めてくる人というのはいるし、それがあたかも「大人の作法」であるというような聞こえの良いすり替えを行う人もいる。自分が特定の集団を代表しているかのように居丈高に振る舞う、パーソナルな領域とパブリックな領域がグダグダになっているような人だ。自分では自分のことをただぬるいだけの付和雷同タイプの人間だとしか思わないが、こういう人物が目の前に現れると絶対にそちらに合わせてたまるものかよとついつい身構えて対応してしまう。
もう何年も前の話だが、当時付き合っていた彼女と喧嘩をして彼女を泣かせてしまったときのこと。しきりに謝りつつも「でもそんな泣くほどのことだろうか。明日友達に話して意見を聞いてみよう」などとぼんやり考えていたら、落ち着きを取り戻した彼女に「どうせ俺の彼女こんなことで泣くんだよって友達に話すんでしょ」とズバリ指摘されてしまい冷や汗をかくということがあった。取り繕いながらもその鋭さに感心して思わずハイタッチしたくなった。
しかし、よくよく考えてみると、我が身においても彼女のように感じてしまうような状況は今までに何度もあった。人は一対一の関係に社会的な要素を持ち込まれると案外すぐに感づくもので、例えば、自分がちょっと変なことを言ってしまったときなど、相手の目線の外し方と口元の緩みから、「これ後から別のところでなんか言われるな」と何となく察することができる。自分でも身に覚えがあるからこそ痛感するのだが、こういった行いは対人関係におけるマナー違反であると同時に、一対一できちんと相手に向き合えない自分の心の弱さをやり過ごすためのズルでもある。
端から社会ないし特定のコミュニティを背負って接してくる人もいる。先述の「自分が特定の集団を代表しているかのように居丈高に振る舞う、パーソナルな領域とパブリックな領域がグダグダになっているような人」のことだ。鉄砲玉気質というか、実行犯気質というか、十字軍モードになりやすいタイプというか。こういったミッションに駆られがちな性格の人物と無理なく親睦を深めていくにはどうしたら良いのか皆目検討がつかない。
実験的にそのような人物が一人きりで過ごしているところを想像してみることにしよう。真冬に夜の住宅街を歩いている。手が悴むので、彼は自販機で温かい缶コーヒーを買ってホッカイロの代わりにしようと考える。取り出し口の缶コーヒーを掴むと思いの外熱く咄嗟に手を離してしまい、缶を地面に落としてしまう。地面を転がる缶。そんな場面を想像してみるとなんだか物悲しくなってしまい憐れみの心がふっと湧いてくる。
換気が不十分で息苦しい社会と呼ぶべきものに空気の抜け道を作るのは一人きりのすこぶる地味な時間であろう。常に満員電車を担いで生きているような人にも一人きりの地味な時間があると考えればなんとなく取っ掛かりを持てるような気もする。しかし「おれは一人の時間なんていらない!」と強く宣言した人も身近にいる。彼の場合はやや反動的なきらいもなかったとは言い切れないが、別に一人きりの地味な時間なんて人生に必要なしという人も案外いることだろう。
「同調圧力」なんていうどうでも良い感じのネットスラングがあるけれど、そのような圧がかかっていることに安らぎを覚えるという人たちもいるだろうし、反対に、同調圧力をてこにして自分を成り立たせている人たちもいるだろうから、「同調圧力」が悪であると一方的に断罪するのは何だか違うような気もする。
それでもやはり悪でしかないと思う。しかし、それを頑なに拒むことは、「アンチ巨人」「アンチApple」みたいなもので、考え方の根本的な部分としてはほとんど同化することと変わりはなく、そういったものを他山の石としてもっと柔軟かつ虚心坦懐に考えてみても良いとは思うが、最終的には、嫌いなものは嫌いという結論に落ち着く。明日には好きかも。
「どや、わてらの飲み会おもろいやろ?」というような飲み会に来てしまったとき、「わちゃあ」と心の中で嘆かずにはいられない。
「どや」と関西弁で言ってしまうと誤解を生みかねないので言い方を変えたほうが良いかもしれない。文化の東西問わず、出身地がどこであれ、「どや」感覚一般が大嫌いという人もいるだろう。そういう自分も「どや」感覚一般が苦手だ。
「どうよ、俺らの飲み会最高っしょ!」というような飲み会に来てしまったとき、「わちゃあ」と心の中で嘆かずにはいられない。そのような飲み会とは言わば「サービス精神」の皮を被った「アテンション集めたがり精神」と「和を以って貴しと成す」もとい「赤信号皆で渡れば…」精神の地獄のハイブリッドだ。スポーティーな内輪ノリの馬鹿騒ぎには見られない独特の後ろ暗さが通奏低音として聴こえてくるようなところがある。パフォーマンスっぽいというか、誰かに見られていないと達することができない感じというか。「ヘイ・ユー、今からオージー・パーティーをやるんだけど、その様子を見ててくれるかい?見られてると思うとたまらなく興奮するんだ!」みたいな感じか。満員電車で彼女のことを守ろうとする男のスタンドプレーに巻き込まれてイライラする感覚に近いかもしれない。
「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損」なんて標語があるが、どうも”OBEY”だとか”CONFORM”と言っているように聞こえてしまう。こんなのは個人の受け取り方でしかないのだが、それでもやはり「どうよ・どや飲み会」は各人のユーモアのあり方を矯正する非常にポリティカルなイベントだとしか思えない。もっと言えばユーモアのネットワークビジネスないしマルチ商法だ。既得権益を守ろうとすることは別に当たり前の話ではあるが、自ら進んでその枠組に組み込まれる必要もなかろう。少しはおこぼれにあずかれるかもしれないが。
自惚れや自画自賛自体は別に悪いものじゃないし、時と場合によってむしろ良いものとさえ思う。しかし、「どうよ・どや」から滲み出るあの嫌らしさは一体何なのか。「どうよ・どや」よりもむしろ「俺ら最高だよな」という目配せに反吐が出るのだろうか。「どうよ?」「最高!」というやりとりに予定調和を感じてうんざりしまうのか。「最高っしょ!」と聞かれたら「別に…」だとか「特に無いです」と返すのが人情というものではないのか。それとも「俺ら」という人称のパブリックとパーソナルの領域がグダグダなところに気持ち悪さを感じるのか。やはり満員電車で彼女のことを守ろうとする男のパフォーマンスに対する苛立ちに一番近いか。中学生の頃、放課後に昇降口を出たところで野郎どもとたむろして、女子が通る度に「おい、おまえマジふざけんなよ!」などと仲間同士でふざけてるふりをしたり、後ろ向きに自転車に乗って注目を引こうとしていた日々を思い出して恥ずかしくなってしまうからだろうか。年齢が30前後だとまだ中学高校といった空間を再現したがる人は多いが自分には無理だ。枕の臭いを嗅ぐ度に我に返らざるを得ない。
ベッキーは5人以上の食事会には参加しないそうだ。たしかに5人以上の飲み会などは参加しても、弾丸状の大声が何発も頭蓋骨を貫通していき最終的に頭が穴だらけになるだけというパターンが多い。頭部がKornの”Freak On a Leash”のPVみたいな状態になってしまう。頭の中にKornのメンバーがいたりしたら少しは心強いのだが。
5という数字はたしかに分水嶺といえよう。20歳以上の人間が5人以上集まって街中でウロウロしているのを見ると、申し訳ない話だが、反射的に「あ、田舎者だ」と思ってしまう。これは別に出身地や住んでる場所のことを言っているわけではない、念のため。松屋の4人がけのテーブル席に大学1年と思しき女子6人組が無理矢理座って話し込んでいるのを見たときは思わず「わちゃあ」と嘆かずにはいられなかった。それと、これは偏見でしかないのだが、そういう5人以上の女子の集団には必ず小ぶりの麦わら帽みたいなのを被っている人がいて、その人はその集団のイニシアティブを取りがちだという気がする。あとデニムのジャケット。
「淀みに嵌って魂が腐るから居心地の良い所に長居していてはダメだ」といった考え方があるとは既に書いた。居心地という場所ないし環境について我ながらこれは酷いと思いつつも他罰的かつ独善的な物言いでネチネチネチネチずっと書いてきたが、どちらかというと場所や環境よりも時間という要因が重要なのではないかということに今更ながら感づいてしまった。魂を淀ませたり腐らせたりするのは環境もあるだろうがむしろ時間の経過であろう。
居酒屋で管を巻いて愚痴をこぼしながらも、結局問題を棚上げにして、日々の繰り返しの作業に戻っていくというようなことはよく見られる光景だ。住めば都ではないが、ゴチャゴチャ文句を言いながらも惰性で物事を続けてしまいがちなのも、やはりそこに慣れというある種の居心地の良さがあるからだろう。いくら淀みが凄まじい腐臭を放っていようと一度その臭いに馴れてしまえば、むしろ心を落ち着かせてくれる馴染みのある臭いとなる可能性すらある。
だから、居心地が良かろうと悪かろうと時間の過ごし方次第では淀みに嵌るように罠が設置されているということだ。
もし脱出への一縷の望みがあったとしても、その望みが打ち砕かれたときのことを考えると、足が竦んでしまう。ゾンビ映画でよく観られる、やっとの思いでたどり着いた島に上陸してみると、木の茂みからゾンビの一群が飛び出してくる、といったエンディングのような絶望が待っているのだとしたら、可能性を可能性のままにして取っておきたいという気持ちもどこかで芽生える。「やらない後悔よりやって後悔」という考え方が共感を呼ぶことがあるが、個人的には、可能性を純粋培養して妄想逞しく無時間的に暮らしていたほうが心の平静を保っていられるような気がする。「もしかしてあの子、俺に気があるのでは?」という予感と高揚を真空状態で保存しておきたいというようなものだ。何か積極的な行動を起こすと決まって裏目に出るというほぼ思い込みでしかない経験則も影響していることだろう。同時にここで思い出してしまうのは「卒業」のラストシーンでダスティン・ホフマンが見せるあの厳しい眼差し。彼が見てしまったものを想像すると気が遠くなる。
他人事であれば、淀みを抜け出して新しいことを始めようとする人を見ると素直に応援したくなるし、羨ましさすら感じる。それが誰からも「もったいないね」だとか「身の程知らずだね」だなんて言われてしまうような状況であろうと。しかしそれが自分のこととなれば、その判断はなかなかに難しいことである。
淀みから抜け出そうとしたときに、いきなり「ニューヨークに渡ってビッグになるんだ」みたいな解決策を想像しがちであるが、そんな突飛な取り組み方をしたってどうしようもない。今の自分の心象風景が「真冬のプール」なのでプールに喩えてみるが、淀みから抜け出すためには、プール開きの前に行われるプール掃除のように、枯れ葉を掬って、雑草を毟って、溜まった雨水を抜いて、デッキブラシで苔を落として、といった具合に、プール全体を自分の手に負えるサイズに分節して、それをひとつひとつ地道に綺麗していくほかない。たとえそこに少しの希望すら見い出せなかったとしても。