30 Days Kick and Snare Challenge

“30 Days Kick and Snare Challenge”とは

リズムリテラシー向上のために、毎日1曲ずつ、ヒップホップ・クラシックスのキックとスネアのタイム感を完コピしていくという訓練。課題曲は全部で30曲。ひと月分。
なぜ課題曲がヒップホップなのかといえば、単純にループだから。以下、課題曲のリスト。

課題曲リスト

  1. Award Tour – A Tribe Called Quest – Midnight Marauders
  2. Shook Ones Pt. II – Mobb Deep – The Infamous
  3. Gin & Juice – Snoop Dogg – Doggystyle
  4. Regulate – Warren G – Regulate…G Funk Era
  5. Can I Kick It? – A Tribe Called Quest – People’s Instinctive Travels And Paths Of Rhythm
  6. Slow Down – Brand Nubian – One For All
  7. Aint No Half Steppin – Big Daddy Kane – Long Live The Kane
  8. Mass Appeal – Gang Starr – Hard To Earn
  9. Halftime – Nas – Illmatic
  10. Juicy – The Notorious B.I.G. – Ready To Die
  11. C.R.E.A.M. – Wu-Tang Clan – Enter The Wu-Tang (36 Chambers)
  12. Drop – The Pharcyde – Labcabincalifornia
  13. Luchini (A.K.A. This Is It) – Camp Lo – Uptown Saturday Night
  14. Ice Cream – Raekwon – Only Built 4 Cuban Linx
  15. California Love – 2Pac Feat. Dr. Dre & Roger Troutman – Greatest Hits
  16. ATLiens – Outkast – ATLiens
  17. Ambitionz Az A Ridah – 2Pac – All Eyez On Me [Disc 1]
  18. How I Could Just Kill A Man – Cypress Hill – Cypress Hill
  19. It Was a Good Day – Ice Cube -The Predator
  20. I Used to Love H.E.R. – Common – Resurrection
  21. N.Y. State Of Mind – Nas – Illmatic
  22. The Choice Is Yours (Revisited) – Black Sheep – A Wolf in Sheep’s Clothing
  23. They Reminisce Over You (T.R.O.Y.) – Pete Rock & C.L. Smooth – Mecca & The Soul Brother
  24. Scenario – A Tribe Called Quest – The Low End Theory
  25. In Da Club – 50 Cent – Get Rich Or Die Tryin’
  26. Paid In Full – Eric B. & Rakim – Paid In Full
  27. Still D.R.E. – Dr. Dre – 2001
  28. Southernplayalisticadillacmuzik – Outkast – Southernplayalisticadillacmuzik
  29. The Light – Common – Like Water for Chocolate
  30. Ms. Fat Booty – Mos Def – Black on Both Sides

やり方について

キックは右手、スネアは左手で、それぞれのタイミングに合わせて太ももを叩く。その際、佐久間正英方式(『直伝指導! 実力派プレイヤーへの指標 How to be a professional player?』を参考にされたい)に則り、太ももを叩く瞬間以外、手はギリギリまで動かさないようにする。また自分と音源のタイミングがきちんとシンクロしているかどうか厳しくチェックするために、太ももを叩く音はなるべく鳴らさないようにする。太ももにサンプラーのパッドが付いていると思い、指先でパッドを押した瞬間に課題曲の音源のキックやスネアが鳴るようにタイミングを調整していく。
主眼はあくまでキックとスネアのタイム感を完コピすること。ブレイクやオカズなどは良きように取り計らう。
精度は上げても上げすぎるということはない。寸分の狂いもないように完コピする。
これを1曲につき最低でも3回ずつ行うことにする。
1回目
パターンを覚える
2回目
音源と自分のタイミングを一致させる
3回目
音源と自分のタイム感を同期させつつキックとスネア以外の楽器に気を配り、他の楽器とどのように絡んでいるか意識してみる
4回目以降
可能な限り精度を高めていく

狙い

右手本位のリズム感から脱却するため。3点の主役はあくまでキックとスネアということを改めて体感する。主役にも関わらず、甘くなりがちなキックとスネアのタイミングの精度を高めるため。これが一番重要かもしれないが、音楽に同期する感覚を養うためでもある。
ドラム以外の楽器を演奏する者あっても、ドラムに対するアプローチをより正確なものにするための手助けになると思われる。

一週間経過・・・・・・

一週間取り組んでみて、気をつけるべきポイントが見えてきたので共有したいと思います。

気をつけるべきポイント

1.アタックを芯で捉えられているか / 手の動きと音源がしっかりと同期できているか
2.キックだけ、またはスネアだけに意識が向いてしまっていないか
3.きちんと音源が聴けているか / 体の動きに気を取られていないか
4.ぎりぎりまで手を動かさないようにしているか
ひとつずつ見ていきます。

1.アタックを芯で捉えられているか / 手の動きと音源がしっかりと同期できているか

この課題の主眼はキックとスネアのタイミングを完コピすることです。パターンをただコピーすることではありません。完コピとは、音源と手の動きを寸分違わずに同期することをいいます。完コピができるということは、自ずと自分の思い通りのタイミングで演奏できるという状態です。
「アタックを芯で捉える」ことについては、言葉にしづらい感覚なのですが、手の動きと音源のタイミングが一致したときに受ける独特のインパクトのようなものがあります。音源のキックやスネアが骨に響く感じといいましょうか。それをぜひとも体感してもらいたいです。

2.キックだけ、またはスネアだけに意識が向いてしまっていないか

タイミングを細かく聴き取ろうとすると、キックだけ、またはスネアだけに意識が向いてしまいがちです。キックとスネアに等しく意識を向けるようにしましょう。さらにキックからスネア、スネアからキックへ至る過程とその「間」も意識していきます。

3.きちんと音源が聴けているか / 体の動きに気を取られていないか

自分の体の動き、または動かし方にばかり意識していると、やはり音への注意力が散漫となります。この課題の裏テーマは「耳を鍛えることです」。注意の割合としては、耳が8割、体が2割というバランスで取り組んでみてください。体を意識しすぎないほうがかえって体が思うように動くものです。

4.ぎりぎりまで手を動かさないようにできているか

体の癖で音を出さないようにするためにぎりぎりまで手を動かさないようにします。さらに打面をヒットするときのスピードを上げるためでもあります。

2週目以降のメニューは?

2週目はもう少し難易度を高くしようと思います。
1回目
パターンを覚える
2回目
音源と自分のタイミングを一致させる
3回目
拍のオモテに合わせて顎を前方に突き出し、ウラに合わせて首をすくめて頭を後方に引っ張るという動きを維持する。そのうえで、両手でキックとスネアのパターンをトレースしていく。その際、頭の前後運動でハットの8分刻みをトレースするような意識をもつ。これを整理すると・・・・キックが右手、スネアが左手、ハットが頭となる。
4回目以降
うまくできなかった部分がなくなるまで繰り返し取り組む

狙い

拍という枠の中にキックスネアの位置をマッピングすることにより、キックがウラなのかオモテなのか、または16分刻みなのかはっきりさせるため。またシンコペーションにつられて拍が取れなくなるという事態を防ぐため。要素を増やすことで、右手だけ、左手だけに集中することがないようにするためでもある。

30日経過・・・・・

本日からセカンドシーズンが始まります。一周目よりも難易度を挙げたいと思おいます。
1回目
“One and Two and Three and Four and”と唱えながら、頭でリズムを取って行きます。オモテで顎を前方へ突き出し、ウラで頭を後方へ引っ込めます。オモテは弛緩、ウラは緊張ということを意識して動かしてください。オモテはパー、ウラはグーです。最初はなかなかスムーズに動かず違和感があるでしょうが、続けているうちに心地よくなってくるはずです。これは独自のリズムの取り方ではなく、黒人音楽ファンの間ではよく知られたリズムの取り方です。黒人音楽は根本的に脱力でリズムを刻んでいます。
2回目
右足で4分を刻みつつ、右手と左手でタイム感を完コピしていきます。その際に、右足の刻みに合わせて”One and Two and Three and Four and”と口で唱えてください。
注意すべきは”Three”を発音するタイミング。英語の発音では”Three”は1シラブルです。ちなみにシラブルとは音節のことです。日本語式の発音だと「スリー」の場合は、「ス」と「リー」で2シラブル。「スリー」以外の「ワン」、「トゥー」、「フォー」はそれぞれ1シラブルなのに対して、「スリー」のみ2シラブルです。
2シラブルの何が問題かというと、オモテのタイミングで「ス」と言ってしまう人と「リー」と言ってしまう人の2パターン発生してしまうことです。
キックスネアチャレンジで扱う曲のキックは2拍目4つめの16分で鳴らされることが多いです。これにつられて、そのタイミングで「ス」と言ってしまいがちです。
ですので、オモテに入ってから、つまり左足が床を踏むタイミングで「ス」というようにしてください。
3回目
右足の刻みを倍にして8分で刻んでいきます。口でカウントを刻むのはなんとなくで良いです。それよりも音源としっかりシンクロしているかということに意識をしっかりと向けてください。
8分で刻むことで、キック及びスネアが1小節を16分割したグリッド上のどこに位置するかしっかりと認識するという狙いがあります。
またおろそかになりがちな8分のパルスをアンサンブル上の縦でしっかりと揃える訓練をするという意図もあります。
4回目以降
おそらくスムーズにはいかないでしょうから、仕上げのつもりでもう一度行ってください。

“30 Days Kick and Snare Challenge”から遠く離れて

巷でディラがどうしただのポリリズムがどうしただのと言われて久しいが、それにに比べて自分のやっていることはなんと泥臭いのだろうと考え込んでしまう。どうしたらリズムキープができるのか。どうしたらクリックに合わせて演奏できるのか。初歩中の初歩だが、これを抜きにして何か新たな試みをしたところで、それはゼロに数字を掛けるようなものだから、どうにもならない。そこからやっていくしかない。
久方ぶりに”30 Days Kick and Snare Challenge”に取り組むにあたり作成したプレイリストの曲を聴いてみるとキックとスネアのタイミングを先取りしつつ自然と頭を前後させてしまう。小学生の頃、テレビで放映された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作をビデオテープに録画し毎日繰り返し観ていた。たしかマーティーが織田裕二、ドクが三宅裕司のフジテレビ版だったはず。気づくと吹き替えのセリフを諳んじていて自然と声に出して観るようになっていた。これと似たようなことが”30 Days Kick and Snare Challenge”にも起こっている。セリフを諳んじてビデオ見ながら発生によって上書きすることも、キックとスネアを諳んじたうえで音源と体の動きを同期させることも共に身体的な快楽を伴う行為といえよう。そして、自転車の乗り方と同様に忘れようにも忘れられない感覚ではなかろうか。一度その味を覚えてしまったらもう後戻りはできない。リズムの快楽は永遠です。

 

元気なワンちゃん、Don’t Kill My Vibe

あるとき知人と飲んでいて、「鳥居くんのモチベーションはどこにあるの?」と聞かれた。音楽活動に関する質問だ。なんと答えたのか忘れたけど、改めてその質問について考えると、モチベーションなどどこにもないという答えが浮かんでくる。果たして他の人にはモチベーションを維持すための何かがあるのだろうか。何が楽しくてやっているのか。聞いて回りたい。
小室哲哉が引退会見で「僕は芸能人になりたかったわけではなく、音楽家になりたかった。ヒット曲を作りたかったのではなく、好きな音楽を作りたいと思っていた」と言っていて、ほろりときてしまった。小室哲哉にこんなことを言われたら敵わない。音楽がやりたいという理由で音楽をやったって良いよね別に、と改めて思った。
ただし、音楽がやりたいという理由で音楽をやることにはネックもある。自分がやっていることが音楽であると確信を持てなくなる度に巨大な虚無に包まれてしまうという点だ。こうしている間も暗雲はじわりじわりと迫って来ている。決して視界から消えてなくなることはない。
音楽がやりたいから音楽をやっていると宣言したところで下衆な心の持ち主はなかなか納得してくれないだろう。しかし、色んな女性と関係を持ったり、お金持ちになったり、セレブになったり、他のセレブとお近づきになったりしたいという理由で音楽活動に取り組むという発想は持ち合わせていない。そういう欲求がないのかと尋ねられたら、もちろんそんなことはないのだが、そうした欲求が音楽活動と有機的に結びつくことはない。まずそのようなリアリティが持てない。他人からしてみればわかりやすく俗っぽいほうが経済的で扱いやすいのだろうが、周囲のプロップスを得るために目配せしながら敢えて俗っぽく振る舞うことほど寒々しいことはない。俗っぽくあれという誰かの要求に応える必要などまるでなし。そうしたことを要求してくるコミュニケーションへの帰属意識など害悪でしかないから捨ててしまったほうが良い。捨てられるのであれば。
こういうことを言っていると「鳥居の野郎ときたら、随分と気取ってるネエッ!」と感じる人がいるかもしれない。けれども、気取ることの何が問題なのか。むしろ気取りは良いことだし、居直りのほうが気取りの何倍も情けない。例えば、お洒落なんてどうでも良い、いや、むしろそんなものは気に食わないと嘯いて、ユーモアに溢れたTシャツを着たりするのはあまりにも安直な露悪趣味でしかないし、質の悪い居直りだ。スタバでMacBookを開いて作業をしている人物なんかよりもよっぽど他人の視線を意識して生きている。自意識だの承認欲求だの他人の内面には煩い一方で、自身の内面からは目をそらし続ける。下心など持っていないピュアな心の持ち主のように振る舞う。姿見に自らを映すことは決してしない。そんないい加減でいいのか。
けれども、もうすべてがどうでも良い。面倒臭い。人生得しようが損しようが知ったこっちゃない。結局何をしたって茶番でしかない。茶番を前にすれば、求道的だとか禁欲的だとかいった態度は何も意味しない。そもそもそんなもの有り難いと思っていないし、自らわかりやすい特徴付けをしたり、ヒロイズムに浸ることなど恥以外の何物でもないからしたくない。そこまで面の皮は厚くないと思いたい。
このご時世に真面目な態度で暮らして良いことなど何ひとつとしてなさそうだが、あまりの馬鹿馬鹿しさに悠長に笑っていられなくなれば、自ずと真面目にならざるをえない。すべてが茶番だからといって居直りたくないし、安っぽいシニシズムから現状追認することだけは避けたい。いかにもサブカルっぽい露悪的なユーモアでなんとなくいけすかないものを腐すなんてのはもってのほかだ。「なんとなく腐してる」とでもいうような。ああいうしょうもないルサンチマンを裏返しただけの引きつり笑いは人を無力にする。この先の未来に持っていく必要は全くない。そうした悪貨のようなユーモアに対し、我々は砂漠を湖に変えてしまうほどの唾を吐きかけてやらねばなるまい。さらに言うまでもないが、実情がどうであれ、世の中が悪い、時代が悪いなどといって自己批判の機会を放棄することはかき氷に熱湯をかけて召し上がること以上に間抜けである。この種のくだらないことは平成とともに終わらせてしまうのが吉。
茶番茶番と言いながらも、今取り組んでいることが、ひょっとすると茶番じゃないかもしれないという微かな希望は捨てずにいたいと思う。情熱を掠め取る罠がそこら中に仕組まれていて、意志を貫き通すことはとても困難だ。水は低きに流れるというが、ときに流れに逆らう必要がある。その姿は傍から見れば随分と滑稽に映るだろうが、もうそんなことにかまっていられない。不本意なことを梃子にし、状況を変えるためにただひたすら行動するほかない。例えその取り組みが徒労に終わろうとも。
なんていうことを書き散らして自らを鼓舞しなければやっていけないほどに、モチベーションを高める何かを長いこと見つけることができないまま、無為な毎日を過ごしてしまっている。果たして他の人にはモチベーションを維持すための何かがあるのだろうか。何が楽しくてやっているのか。聞いて回りたい。
日頃からどんなに些細なことでも「わあい!」とか「やったあ!」とか「嬉しいなあ!」とか「本当にありがとう!」と口に出して反応したほうが良いのかもしれない。表情は感情に先立つなんて話もあるが、言葉も感情に先立つものだといえよう。こうなってくるともはや自己啓発だが。スマイル!ハッピー!サンシャイン!地球に感謝!野心を持とう!ランボルギーニ!モエ・エ・シャンドン!タワマン最上階!ワオ!

 

最近観た映画2

もはやせっせとブログなんてものを書いている人などこの世に存在しないのではないか。そんなことをたまに考えたりする。この健気さは傍から見ても随分と滑稽に映るだろう。
「お腹減った」と呟いただけでいいねが1万以上つくようなセレブでない限りインターネットにおいて何かを発信して誰かに届けることなどもはや不可能!こんなことを言うと、中には「いやいやいや、そんなことないっしょ~」と仰る方もいるだろう。そんな人にはこう言いたい。そうだね。

『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』

クレイグ・ガレスピー監督の作品。この監督の他の作品は未見。と思ったが『ザ・ブリザード』はDVDで鑑賞していた。クリス・パインはシャイな役柄のほうが良いと思ったことしか記憶にない。いや本当にシャイだったっけ?
ここ数年(10年、いや20年ぐらい?)、本当に実話ものハリウッド映画が多い。『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』も皆さんご存知の通り実話もので、実在の人物が主人公だ。主人公のトーニャ・ハーディングについて、ライバル選手に怪我を負わせたフィギュアスケート選手であることをぼんやりと知るのみだった。当時その事件についてニュースで見ていた可能性はあるが全く記憶にない。ついでにいうと映画の中でほんのすこし言及されるOJシンプソンが何者なのかいまだによく知らない。ハーディングがトリプルアクセルを成功させた最初のアメリカ人女性であるといったスポーツ選手としての実績について、この映画を観るまで知らなかった。
映画は登場人物たちのインタビューから始まる。もちろん本人へのインタビューではなく出演俳優による模擬インタビューだ。本人に似せて老けメイクを施したマーゴット・ロビー、セバスチャン・スタン、アリソン・ジャニー、ジュリアンヌ・ニコルソン、ポール・ウォルター・ハウザー、ボビー・カナヴェイルらが演じる主要な登場人物たちがインタビューに答えるところをいささか滑稽に演じている。ある種の出落ちといえよう。
キャプテン・アメリカシリーズのバッキー役でお馴染みセバスチャン・スタンはカツラをかぶり禿かかった頭を再現している。二枚目俳優が似合っていない滑稽なカツラをつけるということで思い出されるのはアダム・マッケイの『マネー・ショート 華麗なる大逆転』だ。これも実話ものの映画で、ライアン・ゴズリングがおかしなカツラをつけて登場する。これも出落ちといって良いだろう。さらにゴズリングはいわゆる第四の壁を破りカメラに向かって話かけるが、その手法は『アイ、トーニャ』においても採用されている。第四の壁という単語は『デッドプール』のプロモーションでよく目にしたが、おそらく『アイ、トーニャ』も『デッドプール』ないし『マネー・ショート』のような軽妙なユーモアでもってその悲喜劇を活写したかったのだろうと思われる。
ちなみに『マネー・ショート』にはマーゴット・ロビーが本人役で出演しており、ゴージャスでセクシーなブロンドの美女という鮮烈なイメージを身に纏い、泡風呂に浸りシャンパンを片手にサブプライムローンがいかにいい加減なものか解説するという洒落を披露している。そんなセクシーでゴージャズなマーゴット・ロビーが『アイ、トーニャ』においては芋っぽい田舎娘を演じるというのだからこれも出落ちといえよう。
第四の壁を破るという手法は歴史があるものだし、この世に存在するすべての映画を観たわけではないから、それらを羅列するわけにはいかない。最近の例を挙げると、こちらはドラマだが『ハウス・オブ・カード』も主人公を演じるケヴィン・スペイシーが視聴者に語りかけること度々。『ハウス・オブ・カード』のショーランナーであるフィンチャーの『ファイト・クラブ』もまたエドワート・ノートンやブラッド・ピットが観客に語りかけるシーンが挿入される映画だ。JBの伝記映画『ジェームス・ブラウン〜最高の魂を持つ男〜』でもJB役のチャドウィック・ボーズマンが観客に向かって語りかけていた。これもまた実在の犯罪者の話を元にした映画だが『バリー・シール アメリカをはめた男』ではビデオテープに収めた映像という体ではあったがトム・クルーズがカメラに向かって過去の出来事を語っていた。
マーゴット・ロビーの出世作となったのは、スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』だ。ディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートのゴージャスな妻役を演じている。この映画もまた主役のディカプリオが観客に向かって語りかける。『グッド・フェローズ』、『カジノ』など、ノンフィクションを扱った作品で回想形式のナレーションをつけるというのがスコセッシの得意技だ。
トーニャ・ハーディングはいわゆるプア・ホワイトで、アリソン・ジャニー演じる口がとても悪くときには手も出る母親に育てられる。またセバスチャン・スタン演じる無知蒙昧で暴力を振るう男と結婚し、顔に痣を作ったり銃を向けられたりもする。主人公が近親者に振り回されるスポーツ映画といえばデヴィッド・O・ラッセル監督の『ザ・ファイター』で、この映画もまた実話ものだ。『ザ・ファイター』の導入部分は『アイ、トーニャ』と同様、クリスチャン・ベールとマーク・ウォールバーグのインタビューから始まる。HBOがクリスチャン・ベール演じるディッキー・エクランドの映画を撮影しているという設定だ。
また『アイ、トーニャ』にはデヴィッド・O・ラッセル監督の『アメリカン・ハッスル』に通ずるところがある。例えば出演者たちの当時の風俗に基づいた今から観ると滑稽に見える衣装やメイク、髪型といった点だ。
『アイ、トーニャ』に登場する曲者たちの中で一番間抜けなのはポール・ウォルター・ハウザー演ずるショーン・エッカートという人物だろう。肩書はハーディングのボディガードとのことだが、とんでもないボンクラ野郎で、あまりのお粗末さに笑いを誘う。
オーストラリア人の監督によるいかにもアメリカ的な「気の利いた実話もののコメディ映画」の技術の粋を集めた『アイ、トーニャ』であったが、映画館ではあまり笑いが起きていなかった。笑いととも迎え入れるべき作品だろう。この映画は絶えずどうぞ笑ってくださいと我々に語りかけていたはずだ。

 

最近観た映画

Filmarksという観た映画を記録するアプリをご存知だろうか。2015年からこのアプリを使用して劇場で観た映画の鑑賞記録をつけている。DVDやストリーミングで観た映画は鑑賞メーターというサイトで記録をつけているが、サイトの調子が悪くなることがたまにあり、こちらの記録はおざなりなっている。
Filmarksは5点満点で採点ができるようになっており、さらにレビューを添えることもできる。本来の使い方としては食べログのように個人の感想をシェアするものなのだろうが、そういう使い方はしていない。採点もせずレビューもせずにFilmarks上で「観た」ことだけをシェアしている。
食べ物を食べていて心から美味しいと思うことは稀である。一方で、あまり美味しくない、というか端的に不味いと感じることは多々ある。例えば自分が作った料理などはあまり美味しくないと感じる。
正直に言って美味しいということがよくわからない。わからないが、辛うじて美味しくない、すなわち不味いと感じることはできる。であれば、何かを食べてこれは決して不味くはないと感じたら美味しいと思ってしまえば良いとも思うが、それはそれでなんだか寂しい気もする。
食べ物に関して強く喚起されるのは「また食べたい」という欲求だ。食べたいという欲求を持ち、実際に食べてそれを満たすだけというサイクルの中にいるといって良いだろう。また食べたいと感じた料理のことを美味しいと言えば良いとも思う。けれども、また食べたいという感情は事後的に発生するものだ。我々が「美味しい」という言葉を聞くのは料理を食べている最中ではなかったか。
話を映画にうつすと、映画の場合はさらに進んで、観ていてもおもしろいとかつかまらないとか良いとか悪いといったことがよくわからない。皆がどういう基準で判断を下しているのか不明である。物語を咀嚼する力が乏しく、話の筋を追うのにも一苦労で、隠喩に気づくことなどほぼないといって過言ではない。撮影や編集といった技術的なことにも明るくない。人と話していて映画の話題になることがあるが、よほど趣味の近い人でない限り、言っていることにピンと来ないことが多い。そんなことを改めて考えてみると自分がなぜ映画を観ているのかわからないが、観たいという気持ちだけは現実的な手触りがある。なぜ映画を観るのかという問いに対しては、観たいからとしか答えようがない。でも娯楽と接するときの心なんて基本的にはそんなもんだよなあと改めて感じたりもする。
そんなことを言いつつ、Filmarksのレビューを書いてくださいと人から言われたので、軽い気持ちで「じゃあ書いてみよう」と思ったが、Filmarksに寸評を書きはじめると、作品ごとに文章の量が違ったり、レビューを書かない作品が出てきたりすると体裁が悪くなりそうだから、このブログ上で気ままに書いていくことにした。自分が映画について何か書けることなんてあるのだろうかという虚無と付き合っていくための訓練の場にしたい。なけりゃないで良い。というかたぶんない。そもそも対象がなんであれ書けることなんて何一つない。

『レッド・スパロー』

主演のジェニファー・ローレンスは『世界にひとつのプレイブック』を観て以来ファン。といっても全ての出演作をフォローしているわけではないが。あの不機嫌そうな表情に惹かれる。
ジェニファー・ローレンスはロシアの女スパイ。女スパイといっても、ジェームス・ボンドやイーサン・ハント、ジェイソン・ボーンのように華麗なアクションを繰り広げるわけではなく、色気を駆使しベッドの上で要人や敵国の諜報部員から情報を聞き出すというのが彼女の仕事である。
主人公は元々バレリーナだったが怪我を負いバレリーナ人生を諦めることになる。同居する病気の母を世話しなくてはならないのだが、国からの支援を打ち切られることになり危機的状況に。そんな中、諜報機関で働く叔父の手配により、母を半ば人質に取られる形でスパイ養成所に入所することになる。この養成所というのがハニートラップ関する技を習得する場となっており、他の候補生と机を並べてハードな内容のポルノを見たり、人前で裸にさせられたり、さらには性交させられそうになったり、隠しカメラで撮影された自分の性交の様子を品評されたり、人としての尊厳を捨てるための訓練を徹底的に受けることになる。
とまあ、読んでおわかりの通り、漫画でいうところの大人向けの劇画的な内容なのだが、これを監督のフランシス・ローレンスが重厚に撮るものだから、かえってその荒唐無稽さが悪目立ちしてしまっているように感じた。脇を固める俳優たちも、ジェレミー・アイアンズ、シャーロット・ランプリング、キーラン・ハインズなど渋いところを揃えているから、シリアスな場面はよりシリアスにならざるをえない。しかし、それがかえって冗談のように見えてしまう。それは彼が数本監督を務めた『ハンガー・ゲーム』シリーズとも共通するところである。
暴力描写が度々挿入されるが、痛そうなシーンが苦手だから観ていて卒倒しそうになった。例えばスパイ映画で、敵に囚われたスパイが体を縛られ拷問を受けることになる場面で、物々しい拷問器具のコレクションがいかにもサイコパスでございという感じのニヤつきとともにスクリーンに映されることがよくある。この後の展開でありがちなのは、拷問シーンを直接見せることをせず、重たそうなドアをカメラが映し、叫び声だけを聞かせるというパターンだ。それが映画的な表現の基本といって良いだろうが、『レッド・スパロー』では拷問シーンをしつこく映す。本当にしつこい。クローネンバーグやレフンの暴力描写に触れたときのように「あなたお好きですねえ。いいですねえ。」と思うことも特にない。思うに監督は性描写や暴力描写が苦手なのではないか。苦手だからこそ逃げてはいけないと息巻いて取り組むから、いささか露悪的な表現になってしまうのではなかろうか。なんて指摘したところで下衆の勘繰りでしかない。クローネンバーグなんかは、そういう描写の取り扱いがものすごく冷淡で、それがむしろエロかったりもする。
しかし、ジェニファー・ローレンスが下衆な男どもに鉄槌を食らわしていく様は快感ではあった。欲を言えばもっと即物的なかかと落としでもくれてやればこちらの溜飲も下がったものだが。
映画は後半より、ジェニファー・ローレンスが一体何がしたいのかわからなくなる。それがサスペンスになっている。しかし情けないことに途中で寝てしまい終盤何が起こっているのかよくわからなかった。種明かしのために回想シーンが挿入されるが、これがどうも鈍臭く感じてしまった。
ジェニファー・ローレンスはいつも通り全力で仕事をしていたが、『パッセンジャー』と同様に、空回りしているようにも見えた。もちろん彼女にその責任はない。
スパイ残酷物語という点で、ジョン・マッデンの『ペイド・バック』が思い出された。これがなかなかに陰惨な話だった。暗くてジメジメしたスパイ映画だ。あの虫も登場する。同監督の最新作『女神の見えざる手』にも同じ虫が出てきたからよほど好きなのだろう。ひとたびあの虫が登場すると、オセロの白と黒が一気に入れ替わるかのように、その映画は虫の映画になってしまう。自分の中で。
また地味なスパイ映画という点から『誰よりも狙われた男』を思い出した。この作品の監督のアントン・コービンは過去にニルヴァーナの”Heart Shaped Box”のMVを撮影したこともあるMV畑の人なのだが、そんな出自を感じさせないようなひたすら地味で渋い映画を撮っていて好感が持てる。
寸評のつもりが長くなってしまったからこの一本にとどめておきたい。今後続けるかは不明。続けない気配が濃厚。でも文章にすることで映画が自分の手に負えるものではないと逆説的に顕在化するこの感じはハマりそうといえばハマりそう。