素面の恥ずかしさ

最近、飲んで酔っ払う機会が多くて弱っている。というのは、記憶が曖昧になって困るということだ。あれは夢だったのか、飲みの席の話だったのか、それがわからなくなって、なんだか不安になってしまう。

近頃見る夢といえば、バンドのために作った曲の断片を最近対バンしたばかりの女の子に全然良くないよとダメだしされたり、バンドメンバーに生活態度について説教されたりする妙にリアリティのある夢ばかりだからますます判断に困ってしまう。

この間、寝る前にSound Wayというレーベルが出しているナイジェリアのコンピCDを聴いているときに飲み会での自分の発言が蘇ってきてしまって恥ずかしくなってしまった。

おそらく「最近はどんなの聴いているんですか?」という質問をされたからだと思うのだけれど、自分はアフリカの音楽について語りだしたのだった。

「最近はアフリカ音楽聴いててね。フェラ・クティって人が一番有名なんだけど。Afro-Rockってコンピが良くてさあ。あとStrutっていうレーベルから色々出てんだけどねぇ、ドンシャリというかコンプで潰したような音であまり好きじゃないんだよなあ。似たようなレーベルにSoul Jazzってのがあるんだけど、そっちのほうが好きだな!」

こういう具合に口からデマカセを吐いてしまっていたのだった。何をイッチョマエに語っているのだろうか。だから酔っ払うのはイヤなんだ。

Strutというレーベルはコンパス・ポイントで録音された曲を集めたものや、オーガスト・ダーネルがらみのシングル集などを出してて、素敵なレーベルなのだが、音が棘々しくって、実際の話、聴いていて疲れるというのはある。

また、Afro-Rockというコンピが素晴らしいのはウソではない。特に一曲目Jingoというアーティストの“Fever”という曲は本当に格好良い。ドラムのリズムはハチロクなんだろうけれど、途中で頭がどこかわからなくなる。こういうのをポリリズムっていうのだろうか。

Kelisというネプチューンズの肝入で2000年頃にデビューしたR&Bシンガーがいて、彼女が最近発表したシングルのトラック“Fever”を下敷きにしていてびっくりした。気になる人は是非聴き比べてみてください。

Kelisに関していえば、何よりスモーキーな声が好きで、ネプチューンズではなくてダラス・オースティンという人がプロデュースした“Trick Me”という曲が好きだったりする。ダラス・オースティンといえば、日本では安室奈美恵をプロデュースしたことでも有名だ。親戚のオバちゃんがその頃のアムロちゃんを「演歌っぽくなったね」と言っていたことが印象に残っている。

アフリカ音楽のCDが一番充実しているのは、自分の知る限りでは、ディスクユニオン新宿本館のラテンフロアだ。ここを物色する際にしゃがみこんで隅々まで見るのだが、立ったときに毎回立ちくらみでフラフラしてしまう。貧血気味なんだろうか。お店の人に迷惑はかけたくないので、なるべく倒れたりはしたくない。

取り留めのないことばかり言っているのは、今日もアルコールが入っているからで、明日には後悔するのだろうけど、後悔するから良いのだと思う、お酒は。

 

ベース好き

実にどうでもいいことだがベースが好きだ。ギターよりも好きかもしれない。
18才頃まで楽器の上手い下手というのは難しいフレーズが弾けるかどうかで決まるものだと考える節があった。例えばルート弾きだったら下手くそ、ルイズルイズ加部よろしく弾きまくってたら上手、というように。ずっと音楽を「縦方向」に聴いていたためだ。
大学生になって軽音サークルに所属し、色んな人の演奏を目にする機会が増えた。例えば同じルート弾きをしていても弾く人によって、ベタッとしていて退屈に感じられたり、活きが良くて思わず動きたくなったりすることに気がついた。音楽は横に伸び縮みすることを知った。
はっぴいえんどの「はいからはくち」を初めて聴いたとき、ベースに対して何なんだ?と思った。Aメロ部のベースは1フレーズごとにシンコペーションの位置が変わる。聴いていてとても可笑しく感じた。
件のベースを弾いているのを誰かと申せば、細野晴臣御大であり、昔ローソンのCMで森高千里の旦那役を演じていたあのオジサンだ。当時、件のCMを観る度にこのオジサン何なの?と思っていた。そうしたら母がこの人すごい人なんだよと教えてくれた。その凄さを知ったのはそれから10年後のことだ。
細野晴臣のベースで好きなのは「花いちもんめ」「風来坊」「薔薇と野獣」「泰安洋行」「体操」「流星都市」「びんぼう」「生まれた街で」「返事はいらない」「Exotica Lullaby」「楽しい夜更かし」あたり。『公的抑圧』の「東風」における間奏には毎回ハッとさせられる。「LOVE SPACE」や「都会」の洒脱なベースにはどこか危ういところがあるが、それがとぼけた味わいになるんだからやはり名人だと思う。
ベーシスト細野晴臣のファンになったことで、音楽の聴き方が変わり好きな自ずとベーシストも増えた。需要がないことはわかっていますが、好きなベーシストを発表させてください。

トミー・コグビル Tommy Cogbill

メンフィスのアメリカン・サウンド・スタジオのお抱えバンド=メンフィスボーイズの一員として多くの名演を残したコグビル氏。アメリカ南部のボトムを支えたベーシスト三英傑の一人。(残る二人は言わずもがなドナルド・ダック・ダンとデヴィッド・フッド)
アレサのマッスル・ショールズがらみのアルバムを聴いてまずベースに反応した。ベースを弾いているのはデヴィッド・フッドかと思えばさにあらず。どっこい当時まだ腕に自信のなかったフッド氏に代わってメンフィスから呼び出されたコグビル氏であった。
コグビル氏のベースは恰幅が良い。キング・カーティスの“Memphis Soul Stew”をジェリー・ジェモットの弾くフィルモア・ウェスト版と比べると、ジェモット氏の方は小回りが利く印象を受け、一方、コグビル氏はどっしり構えていて四輪駆動の車のようだ。そこで、トミー”ミスタータンクローリー”コグビル氏のどでかいベースラインベスト3。
“Funky Broadway” Wilson pickett
“Wearin’ That Loved On Look” Elvis Presley
“Chain Of Fools” Aretha Franklin 

チャック・レイニー Chuck Rainy

弦はゴム製のものを使っているのか?と思うほどのものすごい躍動感に、音にも運動エネルギーってあるんだなあとしみじみ思う。16分音符で敷き詰めたベースラインは体育館に大量のスーパーボールを天井から落としたようなもの。ゴムっぽいといえば、ザ・バンドのリック・ダンコのベースにはとてもラバー感がある。彼らのような素敵なベーシストは空間が伸縮する様を音で描くことができる。
ベーシストが苦心することの一つにキックのアタックといかにしてタイミングを合わせるかということが挙げられると思うが、レイニー氏はそれのとても良いお手本になるだろう。盟友バーナード・パーディーとのコンビによる“Rock Steady”なんかはバスドラとベースが一つの音の塊のように聴こえる。レコーディングの技術もあるのだろうが。
レイニー氏の演奏でお気に入りは、アレサの歌ったバカラック/デヴィッドのペンによるゴージャスな“April Fools”での演奏。リズムアレンジの下敷きはおそらく“Tighten Up (Part.2)”の特にフェードアウトする部分ではないかと思う。いや違う、インプレッションズの“We’re a Winner”のNY流16ビート的解釈ではないか。それにしても素晴らしい演奏。
基本的にはダンディな物腰のレイニー氏だが、興が乗れば「いつもより余計回しています」ということもある。そんなわけでハイテンションのレイニー氏ベスト3。
“Cold Sweat” Phil Upchurch
“Proud Mary” The Voices Of East Harlem
“Get Back” Shurley Scott & The Soul Saxes

アール・ロドニー Earl Rodney

マイティ・スパロウのアルバム「Hot And Sparrow」でベースを弾いている人。本業はスティール・パン奏者で、またアレンジもこなす。マイティ・スパロウやロード・キチナーといったカリプソ歌手のバックバンドで監督役を務めていたそうだ。
ロドニー氏は縦と横のバランスが取れたベースラインを弾く。そういった意味でジェイムズ・ジェマーソン、ポール・マッカートニー、細野晴臣のようなタイプ。理想的なベーシストである。
Friends & Countrymenというスチールドラムアフロファンクといった趣のDopeなリーダー作もある。
“Sparrow Dead” Mighty Sparrow
“Strife in the Village” Earl Rodney

ティナ・ウェイマス Tina Weymouth

概ね「トーキング・ヘッズのかわいこちゃん」みたいな扱いだが、この人ほど丹念にベースを弾く人はいないんじゃないかと思う。YouTubeかなんかでちょろっと「ストップ・メイキング・センス」観て黒人のグルーヴが云々という知ったような口を利く輩はまず彼女の音価と休符を完コピして出なおして来いと言いたい。おまえは音価のコントロールで愛嬌を表現することができるのかと問いたい。トム・トム・クラブは永遠です。
“Wordy Rappinghood” Tom Tom Club
“Psycho Killer” Talking Heads
“Take Me To The River” Talking Heads

 

オチのない話

新宿駅での出来事。明大前で人と会う約束があったので、滅多に利用しない京王線の構内を歩いていた。家路に就こうとする人で構内は混んでいた。

改札を抜けてホームへ続く階段を降りていると、脛に何かがぶつかった。立ち止まって顔を上げると大学生風の若い男がこちらを見つめていた。この男が誤って何かをぶつけてしまい、それを詫びようとしているのかと思えた。しかし男は黙っている。うまく言葉が出てこないのだろう。

しばらくの間、見つめあいが続いた。よく見ると男の目は充血していた。無表情ではあったが、鼻息が荒くどうも興奮している様子だった。こちらが気付かないうちに男に何かしてしまい、それに怒った男が脛に蹴りをいれてきたのかとも考えられた。何か文句を言ってくるのかと思って、ずっと言葉が出てくるのを待っていたが何も言う様子がない。

埒が明かないので、状況が掴めないままホームに向かって歩きだした。すると、男も俺の横にぴったりついて歩き出した。立ち止まって男の顔を見ると、黙ってこちらを見つめ返してきた。無視して歩き出すと今度は後ろに回ってついてくる。また立ち止って振り返ると男も動きを止める。男の足は震えていた。

ホームへ降りると、また俺と男の見つめ合いが始まった。どう声をかけていいのかわからなかった。俺が「あ」と言いかけると、男は急に踵を返して何事もなかったかのように列に並び始めた。俺は男と距離をとって電車を待った。

ホームに電車が到着した。車内に男の姿を見つけることはできなかった。どんどん人が乗り込んできて、やがて身動きが取れなくなった。電車が走りだした。脛に鈍い痛みに残ったままだった。

話はここで終わりで、特に続きがあるわけではない。拍子抜けはこちらも一緒である。

これはいわゆるところの「オチのない話」だが、「オチをつけなかった話」とも言えるわけである。対処の仕方如何では、立派なオチがついたかもしれない。

「なんなんですかアナタ!人のことジロジロ見て!何か言いたいことがあるんですか!」なんて言えば、また違った結果になっていただろう。しかし、相手の出方を窺うばかりで、特に自分から働きかけることを避けた。

どうやらオチは自然につくものでないようだ。おそらく、自分で積極的に働きかけないことにはつかないものなのだ。話上手の人は普段から話にオチがつくように意識して行動しているのだろう。

そうか、オチをつけるのは作為だったのか。どうりで自分の身には「おもしろい出来事」が起こらないはずだ。今まで全然気付かなかった。ああ嫌だ嫌だ。

そう思うとオチオチしていられないね。