毎年春から夏前にかけて気持ちが晴れない日々を過ごすのが定番となっている。体調は悪くないが、脳みそが皮脂のようにベタベタする膜で覆われているような感じがして頭がすこぶる冴えない。気晴らしに何かしたところで、気の抜けたぬるいコーラを飲んだときのような心持ちにしかならない。さらに、物理的に脳みそが圧迫されているような感じがする。頭蓋骨と脳みその間にある空気が膨張しているような感じといえばよいか。
昨年のこの時期に書いた日記を読み返してみたところ、やはりバイブスが死んでいる状態だった。いつもそんな調子だし、「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」という至言のとおり、物事に一生懸命取り組んだことの反動だと思っているので、あまり深刻になることはないが、それでもやはり暮らしていてつまらないといえばつまらない。
「はいはい、いつものあれね。」などと言い、ただの気分の問題としてやり過ごすこともできようが、それはそれで癪だ。因果関係を明らかにすることは難しいものの、バイブスが死ぬようなことが現に起きているではないか。バイブスを殺しにかかる諸問題に対策を講ずることなく、暗雲が過ぎ去り、陽が差すのを待っていればいいのか。そんな調子では無力感が増すばかりではないか。
とは言うものの、頭が冴えないので今は何をしたって無駄である。唯一できることといえば、積極的にやる気をなくしていくことぐらいだ。やる気というか何かに期待する気持ちをなくすといったほうが近いか。冷静になって考えてみると、何かに期待してがっかりするというルーティンに一抹の安らぎを感じてしまっているような気がしないでもない。例えば「揚げたての天ぷらは美味しい」「労働の後のビールは格別」「新垣結衣はやっぱり可愛い」というような世の理と、「何かに期待すると必ずがっかりする羽目になる」ということは同種のもので、それを反復することでままならない世の中にあっても、変わらないこと、または変わらないものがあるという事実が確認できるし、それは我々の心に平穏をもたらすであろう。けれども、がっかりしてばかりいると心が死ぬ。だからこの腐ったループから抜け出さなければならない。そのために何かに期待するのをまずやめてみようという算段だ。
実際にやる気をなくしてみてびっくりすることは、自分がやる気を出そうがなくそうが、現実とでも呼ぶべきものはそんなことを全く意に介さないということ。一度自走するシステムを作ってしまうとそれを止めることは難しい。自分、もしくは自分たちの意志で始めた何かを続けているうちに、人格を離れた新たな何かへと変容し、気がついたら主従関係が逆転しているというのはよくある話だ。例えるのならいまだにエイプリル・フールのおもしろ企画に取り組んで滑っている企業のようなもの。「いやぁ、おもしろいことしたいっすねえ」という一片の羞恥心もない一言からはじまった企画を惰性で続けているうちに企画それ自体が自律し始め、おもしろいことをやらされている状態になり、誰もおもしろいことなど求めていないし、また誰もおもしろいことなどやりたくないにも関わらず、おもしろいことが撒き散らされる事態となってしまう。
映画『マトリックス』では機械と人間の主従関係が逆転した未来で人間は主体性を取り戻すために反乱を起こすことを企てていたが、自分の場合はやる気をなくすという行為により主体性を取り戻そうとしていたのだが、うんともすんとも言わず、無駄な抵抗にしかならなかった。
「走ってんのか、走らされてんのか。一回そこをはっきりさせたい。そのために一回ペダル漕ぐのを止めまーす」
積極的にやる気をなくすとはこういうことなのだが、ペダルから足を離しても自転車が勝手に走っているものだから泡食ったという話。そして、崖から転落。チーン。