―ライブ中、なぜ動かないのですか?
動いていますよ。動かずにギターを弾くことは物理的に不可能です。事実、右手と左手は動いています。楽曲の中でギターの音色に変化をつける場合、足元のエフェクターを踏みます。その際に左右どちらかの足を動かしています。
―そんなことはわかっています。そういうことを聞いているんじゃありません。ではこうしましょう。他のギタリストに比べてステージアクションが少ないと思います。何か理由があってアクションを起こさないんですか?
特に理由はありませんが、強いて言えば動くと気が散るからです。
―演奏に集中している?
そうです。あなたは勉強中に動きまわりますか?そういうことです。
―演奏と勉強は違うものだと思いますが。正直、動かないことで逆に注目を浴びようと思っていませんか。
それは一切ありません。私は常々、長いシールドを楽屋までひっぱってそこで演奏したって良いと考えています。ステージにはマネキンでも置いておけば良い。パイナップルか何かにシールドを刺してアンプと繋いで置いておくなんて手もある。しかしそういう突飛なことをするほうがよっぽど目立ってしまうでしょう。
―お客さんへサービスしようという考えはないのですか?
もちろん考えてはいます。しかしサービスということだけを考えるのならギターを選びません。ギターではなくバルーンアートや手品を選びます。あるいはもっと即物的に肩たたきなんてのも良いかもしれない。ただ現状としてバンドにそれらのパートはありません。
―なるほど。しかし退屈そうに演奏していたらお客さんも退屈してしまうのではないでしょうか。
それはあると思います。私も笑顔で楽しそうに演奏している人を見ると嬉しい気持ちになります。そういったライブではステージと客席の間で楽しさを共有できていると言えるでしょう。多くの人が集まるライブだからこそ、そこに集まった人たちの間で何かを共有したいと思う。そう考えると退屈も共有できるのではないでしょうか。
―多くの人がそんなものを共有したいとは考えないでしょう。しかし不思議に思うのですが、自然と体が動いたりしないものなんですか?例えば頭でリズムを取ったりだとか。
あなたはその質問を電車内でイヤホンか何かで音楽を聴いている人に尋ねますか?
―質問に対して質問で返さないでください。もちろん尋ねません。電車内では周囲の目もあって行動にブレーキがかかる。しかしステージはそういうものではありません。通常、動いてしかるべき場所だと考えられています。だからこそ動かないことを疑問に思うのです。
わかります。しかし動いてしかるべき場所で動くことを主体的な行動と呼ぶことが出来ますか。周囲の期待によって動かされているとはいえませんかね?
―自分でも驚いています。そういった話にはまるで興味がない。再び先の質問を繰り返します。自然と体が動いたりしないものですか?
しないものです。
―そうですか。
そもそもステージ上に自然なんてものはありません。ステージ上での行為は全て作為と見なすべきです。感情の昂りからギターを破壊する人います。一方、これは野暮を承知で言いますが、家で一人のときに感極まってギターを破壊する人はいません。ステージの上と下ではきちんと線引きがされている。ただ、そういった作為をいかにも自然に見せるのがやはり名人なのだと思います。それは世阿弥の「風姿花伝」にも書いてありそうなことです。
―なるほど。しかしステージ上の行動が全て作為であるなら動かないのも作為でしょう。わざとやっているということですよね。
そうなります。
―わざとやっているのならやはり積極的な理由があるはずでしょう。
そうですね。あの、ちょっといいですか。
―なんでしょう?
先ほどから聴こえてくるこのグッドミュージック、なんだか踊りたくなってきません?
―はい?
動く動かないなんてそんな話どうでもいいじゃないですか。このグッドミュージックにあなたとぼく。今ここで踊らないという手はありますか?
―ははは、酔狂な人だ。いいですね。踊りましょう。
では、失礼して。