2015年ベストアルバム

今年購入したアルバムのうちいわゆる新譜というものの枚数を数えたら13枚しかなかったので、これを羅列したらそのまま年間ベストが出来上がってしまうという体たらくで何とも情けない。とは言ったものの微塵も情けないなどと感じていないのが正直なところで、そもそもの話、2015年という年にあまり興味がないし、年末のせいか今は2015年という年がトレンドみたいだけど、年が明けたらすぐに2016年が流行り出すに決まっているし、2016年なんてさらにどうでも良いし、もっと言えばこんな頓知が利いている風でその実何の意味もないことを書いていても何の意味もないし、こういうのをトートロジーと言って、日本語で言えば同語反復っていうんですか、とまあそんなことはどうでも良いけど、このトートロジーという単語を教えてくれたのは大学時代のサークルの先輩で、ここでこの人の逸話を紹介したいと思います。
その先輩は入学してからの4年間、どこのサークルにも属することなく過ごし、留年が決まった年に開き直ってサークルに入ることを決意し、予てから目をつけていた趣味の合いそうな音楽サークルの部室の前まで来て逡巡を振り切るとドアをノックしたそうな。部室にいた者に自己紹介やら身の上話やらしていく中で「今まで一人で何してたんですか?」と聞かれたので、先輩は「歌は孤独なもんだと思ってました」と返答したとのこと。
この言葉を聞いてから、折に触れて「ああ、歌は孤独なものだよなあ」としみじみ感じることがある。「無人島レコード」という定番の企画に対して、持っていくも何もここが無人島だよ、寄る辺なんかあるものかよ、と思うこともある。
「歌は孤独なもの」というのは「歌は個人のもの」と言い換えることができるかもしれない。今ここで、余計なものなどないよね、と同意を求められたらNOと言わざるを得ない。いくらSAY YES〜♩と言われようと。チャゲ、アスカ問わず。世の中には個人とは何ら関係のない余計なこと・ものが溢れている。例えば他所の年間ベスト。そんなものは我々の営為とは何ら関係がないと端からわかりきっていることなので放っておけば良い。しかし目の前にあるとついつい手にとって覗いてしまうのは悲しき性か心の弱さか。馬鹿なのでやはり見てしまう。SNSで回ってくるような共感とブーイングの二枚刃構成でどっちに転んでも結果ビュー数は稼げるというのがコンセプトのとても品のないマイルド文化人が時事ネタで放談したような安手の記事を視界に入れないようにする能力は今年かなりついた。buzzって虫の翅が発する音のことだそうですよ。一体どの虫なんだ!
だからもうはなっから埒外だって思っていたほうが良い。自分が参加していない飲み会で自分の話題が出たかどうか気にするようなもので、それはとってもみっともないことです。自分さえちゃんとしていれば良いじゃないですか。
ところで今話題のスターウォーズを観に行った。ここ一月ぐらい宣伝がものすごいことになっていたので、スニッカーズに衣をつけて油で揚げたお菓子を1日に4、5本ほど無理やり食わされているような気持ちになっており、その結果食傷気味になり、儲けなくてはならないにしろいくらなんでも品位を落としすぎではなかろうかと感じていた。水道水に広告が入る日も近い、なんて思ったものだが、しかしよくよく考えてみたら宣伝というものはそもそもくどいものなのかもしれない。景気の良い頃に思わず「いいよなぁ」とつぶやしてしまうような気の利いた広告がウケていただけであって。
例えばビラ配りのバイトをしている際に、通行人の迷惑にならないように慎ましく配ろうとしても監督役の者からもっと積極的に配りなさいと注意を受けること必至だ。たまたま自分がSWという花粉に対してアレルギーを持っていたために妙に意識してしまっただけで宣伝はいたるところにあるものなのだろう。ヨーダが言うところのForceのように。明日試しに視界に宣伝が入る度に指差し確認して我々がどれだけ宣伝に囲まれて生きているのか実感してみたいと思う。しないけど。
それで劇場に行ってスクリーンに例の黄色いロゴが出て瞬間、あ!関係ない!と思いましたね。宣伝とSWは何の関係もないと。深酒した翌日、夕方頃に二日酔いの症状がフェードアウトして丹田が温かくなり、その熱が体中に巡っていくときのあの快感のようなものが感じられたし、分厚い雲が割れてそこから光が差して地上を照らすといった図が脳裏に浮かぶほどの感動もあった。だから結局体験っていうのは個人のものでしかないということなのだろう。そして宣伝は個人のものにはならないという話。現象なんてもうどうでも良い。本当に、心から。だから、今むしろ「関係がない」ということはとても良いことだと思う。「関係がない」という関係のあり方。「放っておく・放っておかれる」と言い換えても良いかもしれない。「いっちょかみ」という関西方面の言葉があるけど、これがなかなかに地獄だ。
ええ、なんて無茶なことを言っておりますが、というさりげない逃げ口上を挟みつつ、少し話題を変えよう。「最近何聞いてんの?」っていう質問って良いと思いませんか。かしこまって「どんな音楽が好きなんですか?」と聞かれるとこっちもかしこまってうまく答えられないし、そこで「ひとつ選ぶの難しくないですか?」なんてことをいうと「たくさん聴いてる」という自惚れっぽく受け取られるのが常だし、まあ、相対的には聴いてるほうだけど、相対的には全然聴けてないもんね。CDの山見てしみじみとこれものにできてんのか?ええ?って思う夜もある。「ひとつ選ぶの難しくないですか?」というのが自惚れに聞こえる人はそのへんのことがよくわからないのだろうね。
だから年間ベストとかより「最近何聴いてんの?」のが全然良い。無人島からイカダ出して近所の島に出かけてくみたいで素敵じゃないか。今年はたぶんトータルで5回ぐらいしか聞かれてないけど。それが多いのか少ないのかはわからない。年々減っていることだけは確実。自分もあまり人に聞かないし。地殻変動が起こっちゃってる。そんな世間話を交わした人たちも今や散り散り。パンゲアの頃が懐かしいな!

 

マヌカンハウス刊『リュダクリス』No.812 特集「やっぱり遅刻。」

「餅は餅屋」なんてことを言いますが、遅刻についてもやっぱり専門家に聞くのが一番!というわけで気鋭の遅刻家、今沖田寝坊(いまおきた・しんぼう)さんに詳しく語っていただきました。
遅刻の反対語って聞いたことがありますか?「早刻」といったところでしょうか。そんな言葉はありませんが、世の中には予定の時間よりも大幅に早く所定の場所へ着いてしまう人が少なからずいます。例えば試験会場などに一番乗りして最前席をキープするような人です。何となく要領が悪くて融通が利かないような印象を人から抱かれがちなタイプです。几帳面そうに見えるいっぽうで寝癖を気にしていなかったりと、どこか鈍感な面も見受けられる。学生の頃、授業中に頓珍漢な質問を繰り返しては教室を微妙な空気にさせたクチかもしれません。
こうした「早刻」にまつわるステレオタイプをものすごく単純に裏返してみます。すると「遅刻家は要領が良くて融通無碍である」ということになります。いわゆる「ハイスクールの人気者」タイプですね。教室に一番最後に現れて、一番後ろの席に座るようなタイプの人物です。そしてここぞというときにだけ能力を発揮して結果を残すような人物でもあります。
当然、現実はそれほどシンプルではありませんが、多くの人と同様に遅刻家もこのような融通無碍で天衣無縫な人物像をセルフ・イメージとして抱きがちです。
また、現代を生きる者にとってテレビに出ているお笑いタレントのようにおもしろい人間であろうと努めることは人生の優先事項となっていますが、遅刻家の場合、生活態度を改めて一切の遅刻を止めた途端ユーモアセンスを失ないつまらない人間になってしまうのでは、と不安に思う人が少なくないようです。世事に囚われない越境的な身振りと、杓子定規から程遠い大らかな性格が独自のユーモアセンスを形成していると考えているのです。「時間通りに行動する?お役所じゃねぇんだから!」といった具合に…
遅刻家にとって遅刻はもはやアイデンティティの一部となってしまっているので、いまさら引くに引けないという状況に嵌りがちです。漫画を読んでいると頬や目の周りなど顔の一部に傷跡が残るキャラクターが出てくることがありますよね。遅刻はああいった傷のようなもので、それが瑕疵であろうと当人のキャラクターを示す愛すべきトレードマークと認識されています。他人からすれば「ホクロ毛」のようなものかもしれないにも関わらず。遅刻家はステッカーを見ると思わず貼ってしまうタイプといえるかもしれません。近代以降を生きる自意識が肥大化しすぎた我々には特性になり得るものなら何でもペタペタと貼ってしまうという悲しい性があるのです。
人間が社会に参加して生きていこうとすると磁石のように二つ極が発生すると私は考えています。二つの極はそれぞれ「他人から受け入れられたい」という極と「他人を受け入れたくない」という極です。
まず「他人から受け入れられたい」という極についてですが、この態度が世に擦れて屈折したりすると他人にとって迷惑な行為となって現れる場合があります。例えば、くしゃみや咳をするときに口を覆わなかったり、人前でゲップしたり、密室で放屁したり、クチャクチャと咀嚼の音を立てながら食事したり、電車の座席で幅を広く取って座ったりといった行為です。これらの行為は迷惑であることが前提であり、そのうえで他人に我慢を強いることないし受け入れさせることでその行為がある種のコミニュケーションとして成り立っています。簡単に言えば子供のぐずりみたいなものです。文化人がいうところの日本人特有の「甘え」なんてものかもしれない。
私はこのような性質を帯びた極を「オジサン極」と呼んでいます。先に挙げた「オジサン極」による迷惑な行いは「空間に対して働きかける迷惑行為」であるといえるでしょう。そして遅刻については、それほどの生理的嫌悪感はないにしろ、その行為を他人に受け入れさせるという点で「オジサン極」に含むことができると考えています。さらにいえば、遅刻は「オジサン極」に由来する「時間に対して働きかける迷惑行為」だと云えます。パブリックな時間の取り分を人よりたくさん頂いているわけですから。
「食い意地を張る」なんて言葉がありますが、遅刻は「時間意地を張る」と言い換えることができるかもしれません。公の時間に対して一切の遠慮がないわけです。フロイトが云うところの肛門期に我慢を覚えられなかった人ですよね。
さて、もう一方の「他人を受け入れたくない」という極についてです。世の中には「オジサン極」的行為を絶対に受け入れたくない、全くもって許せないという人も当然います。所謂「嫌煙家」なんてのはそういう人たちです。他人の許しがたい行為に対して嫌悪感を露骨に態度で表していくタイプの人もいるし、それが度を越せば「オジサン極」的行為に限らずあらゆることに言いがかりをつけるクレーマーと呼ばれる人物になっていきます。これを「オジサン極」に対置するためにわかりやすく「オバサン極」とでも呼びましょうか。
まぁ、クレーマーなどはほとんど「オジサン極」の属性と言えてしまうので、そこが難しいところではあります。彼らの言い分は「私を特別扱いしろ」ということですから。どちらの極についてもその根っこには「私を特別扱いしろ」という思惑があるような気がします。
これらの極は通常、誰の中にも並列に存在しているものです。環境によってそのどちらが強く現れるかということでしかありません。
例えば遅刻家を100人集めて会社を作ったとする。そうするとそれぞれの遅刻の度合に濃淡ができますよね。遅刻家のなかでも軽度の人なんかはそういった環境では基本的に待たされることが増えるわけですから、自ずと「オバサン極」の表出が強くなっていくと考えられます。そして段々と他人の遅刻に苛立ちを覚えるようになるでしょう。最終的に全く遅刻をしない非遅刻家に転向してしまうかもしれません。
だから、身近に許しがたい遅刻家がいるのなら、自らがよりシリアスな遅刻家になることですね。とにかくその人を待たすようにすれば良いのです。平気で一時間遅刻する人がいたとしたら、そこからさらに一時間遅刻するようにする。都合二時間の遅刻です。これはかなり深刻な遅刻ですよ。ぞくぞくしますね。
しかし、不思議なことに、このような場合においてもお互いに張り合って遅刻競争が起こるなんてことはほとんどありません。なぜか遅刻家に遅刻家をぶつけるとぶつけられたほうは必ず「オバサン極」が強くなるのです。遅刻家の口から「あいつおっせぇな…」なんて言葉が聞けるかもしれません。「どの口が!」という指摘は言うだけ野暮でしょう。
「遅刻とは何か?」と尋ねられたら「弛まぬ思考停止の集積」であると身も蓋もなく答えています。
思考停止というのはとどのつまり物事を言語化するのを一切やめてしまうことですよね。遅刻しないように約束の時間と場所に到着するためには、そこから逆算してどういうタイムテーブルに則って行動すれば良いか考える必要があります。慣れない場所へ行かなくてはいけない場合は、電車の乗り換えだかと所要時間を調べたりしなくてはいけません。地図で道筋を確認することも必要です。つまり遅刻しないためには、行動を分節化してそのひとつひとつを言葉や数字に変換していかなくてはならない。まあ、そういったことは誰にとってもめんどうなものなわけです。だから人によっては、全て棚上げして寝てしまえとか、そういうアプローチが生まれてくるわけです。
寝るなんて最高の棚上げですよね。これこそ極上の思考停止です。プレミアム思考停止ですよ。そこに寝坊なんておまけがついて来た日にはもう堪りません。多くの遅刻家が「寝坊は天災」と考えていますが、私に言わせれば甘い。私は寝坊のことを「戦略的思考停止」と読んでいます。寝坊はより高次元の思考停止であるといえるでしょう。
喉元過ぎれば云々ということわざがありますが、遅刻も一緒で、到着していの一番に「すいません!」と謝ればそれでもう一件落着となってしまいます。これはなぜか。
大勢の前で遅刻した人物を咎めると「被害者-加害者関係」が逆転してしまいがちです。傍観者からすると叱られているほうが可哀想になってくる。遅刻した者のほうが周りの同情を買うわけです。だから待たされたほうもなかなか怒るに怒れないというところがあります。「おまえは官僚的だ」なんてレッテルを貼られてしまうかもしれない。そんな悪役を買って出るような人はかなり奇特であるといえるでしょう。
このような理由から遅刻は謝ってしまいさえすれば済んでしまうので、なぜ遅刻したのかということを言語化する必要はありません。そうすると失敗から教訓などは得られないし、経験が次に生きてこないのです。全てが場当たり的なのです。こういうことからも遅刻は「弛まぬ思考停止の集積」であると云えるでしょう。
遅刻癖が治りにくいのには他にも理由があります。例えば、遅刻で誰かを怒らせてしまったとします。それで反省して、次から遅刻しないように気をつければ済む話なのですが、人は誰でも自分の非を素直を受け入れることがなかなかできません。ですので、相手が怒ってしまったのはその日たまたま虫の居所が悪かっただけなんだと遅刻家は考えてしまいがちです。いつもだったら、この程度の遅刻に対して「まったくオマエってやつは」と半ばあきれながら笑って許してくれる。今日はきっと間が悪かっただけなんだ。そう考えると、それを証明したくなってくる。つまり、再度遅刻して相手の反応を確かめたくなってくるのです。それで実際に遅刻してみるとまた怒られるわけです。それでも遅刻家は今回もたまたま間が悪かっただけなどと考えて、再び遅刻してみて様子を見る。しかし当然注意を受ける。この堂々巡りです。ある種の反復行為ですね。許してもらえるまで遅刻家は遅刻を続けるのです。厄介なのは、許してもらうことができたら今度はもう一度許されたい安心したいと考えて結局遅刻してしまうことです。どう転んでも遅刻家は遅刻家なのです。
最後に、これはとても大事なポイントなのですが、遅刻は謝り上手でなくてはできない芸当ということです。
謝り方のコツは相手の「器」に謝罪をドバドバ注ぐことです。これを受けきれず溢れさせてしまえば相手は「器」が小さいということになりますから、決してケチらずにありったけの謝罪を注ぎ込むことです。溢れさせたらもうこちらの勝ちです。先輩の遅刻家で「遅刻は器のチキンレース」なんて名言を残した人もいます。ちなみに私は「遅刻は和解の物語」とよく言うのですが、これはあまりヒットしていませんね。話が逸れましたが、何が言いたいかというと遅刻家は謝罪家でもあるということです。反対に謝ることができない遅刻家は遅刻家失格といえます。
待たされたほうも、それだけではただの待たされ損にしかならないので、この機会を「器」の大きさをアピールするチャンスだと思って存分に活かしていただきたいですね。
いや、本日はご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした!