『邦ロックから遠く離れて』開催に寄せて

邦ロックから遠く離れて

タイトルについて

最初は「米ポップの現在 ― 邦ロックから遠く離れて」とするつもりだったが、シンプルに「邦ロックから遠く離れて」にしたほうが馬鹿馬鹿しさが強まるのではということで、このようなタイトルになった。
最初に、「邦ロック」って単語があるのなら「米ポップ」って単語があっても良いよなあ、そして俺が好きなのってまごうかたなき「米ポップ」だよなあ、と思い、「米ポップの現在」というタイトルにしようとしたが、結局「米ポップ」は消えてしまった。「邦ロックから遠く離れて」というタイトルでアメリカのヒットチャートを扱うとなると意味が通らないといえば通らないが、そんなことはいちいち気にしていられない。
イベントの内容とはやや離れるが、音楽産業の末端にいる身として念のため表明しておくと、「邦ロック」という名のコンペティション、いわゆる「ゲーム」に参加しているつもりはない(ロックやヒップホップなどと違って「俺こそがリアル邦ロックだ」と自ら申告する人もいないだろうが・・・)。そういう意味でいえば「邦ロックから遠く離れて」というタイトルはある種のステイトメントと言えるが、やはりこのイベントの内容とは関係ない。
いやいや、ちょっと待て、と。それなら『ジャパレゲから遠く離れて』でも良いじゃないか、という考えもあろう。しかし、バンドをやっていると自ずとロックにカテゴライズされるという現実がある。そういうことを踏まえて邦ロックを選んだ。というか邦ロックが最も近くて遠いジャンルだと思っている。本当は邦ロックなんて単語を口にするのもキーボードで入力するのも嫌だったのだけれど、一度解禁してしまうと段々と気にならなくなるので不思議。

狂騒と倦怠のフードコート

人と飲んでいて盛り上がり、2軒目に移動してからしばらく経って終電も近いとなった段に誰かがカラオケ行きたいと言い出してカラオケ店に移動し、そのまま始発を待つことがある。アルコールの作用による狂騒と倦怠が入り混じった状況で、狂騒よりも倦怠が強く現れるとモニターにDAMチャンネルが映される。ただ単に誰も歌の予約を入れてないとDAMチャンネルが自動的に流れるというだけの話だが。
このDAMチャンネルというプロモーションのためのコンテンツが放つ耐え難いまでの白々しさは、音楽産業というあり方そのものの白々しさを象徴しているかのように感じてしまう。飲み過ぎによる倦怠感も相まって、あれを見ているとなんだか惨めな気分になってくる。英語話者であれば思わず”DAMN”と言ってしまう場面だ。
ショッピングモールのフードコートにもDAMチャンネルと同種の白々しさを感じる。いつでも人で賑わっており活気はあるのだが、個々の要素を細かく見ていくと倦怠をまとっているように感じられる。その倦怠はある種の生活感といっても良い。商業施設の白々しい照明のせいで、そこに落とされる影も自ずと濃くなる。実際のところがどうあれ、そこにいる人がひどくくたびれているように見えてしまう。生きることのすべてが消費活動に結びついていることへの倦怠感と、経済それ自体の狂騒がないまぜになった空間がショッピングモールのフードコートである、と言い切ってしまうのはためらわれるが、とにかくあの場所にいると消費活動にまつわるシステムに対する無力感を強く覚える。大量の客を捌くために効率化された飲食チェーンの出店が並ぶフードコートで食事することは妥協以外の何ものでもない。資本主義のなかでなんとかやっていくしかないといううんざりする現実のひとつの象徴である。
狂騒と倦怠を分離することに例外的に成功している商業施設がある。浦安にある「夢と魔法の王国」だ。我々は帰路につくまでの間、倦怠をゲートの外に置いておくことになる。かの施設への厚い信頼は、やはりその非妥協的な姿勢に拠る。人を愉しませるために、ものごとを徹底することの重要さについて「夢と魔法の王国」から今一度学ぶ必要があるだろう。
物分りの良いリアリストを装う者たちがシニシズムから、それが少なからず不本意であろうと、ただひたすら現状を追認していくという状況はゆるやかな地獄でしかない。種々の文化が経済活動に組み込まれるときに現れるあの白々しさから逃避するために、我々は非妥協的でなくてはならない。

邦に開いて洋を閉ざす/洋に開いて邦を閉ざす

個人的にはオープンな姿勢で音楽に取り組みたいと常々思っている。閉じられたコミュニティに向けて何かをすることに価値があるとは思えない。内輪に向けてウインクなどしようものなら、いつ誰に目潰しを喰らうかわからない。そんな緊張感を持って物事に取り組むべきではないか。そう意識して活動していても周りからしてみたらマニアックで聴く人を選ぶ音楽を細々と追求しているように見えてしまう。なぜなら需要に見合ったものを提供していないから。悲しき矛盾。なんとかならないのか。
世界史分の日本史(日本史/世界史)を意識するという立場で活動に取りくんでいきたいと考えているが、やはり容易に世界史対日本史という構図の中に取り込まれてしまう。海外ドラマを褒めているつもりが、いつの間にか日本人の文化的成熟度の低さを嘆いていたというSNSで見られがちな事象は他山の石とし、<日本史/世界史>という立場から自分のやるべきことを見極めて実践していく他あるまい。

自意識の国

アメリカは強い自意識を持っているように感じる。どう考えても天然の国ではない。保守的だろうと進歩的だろうと、国家としてのプライドを国民が内面化しているように見える。「アメリカ合衆国かくあるべし」ということの最適解を常に考えており、加えて<アメリカ史/世界史>ないし<アメリカ史/人類史>という意識、むしろ<世界史/アメリカ史>ないし<人類史/アメリカ史>という意識すら持っているように見える。その尊大といえないこともない自意識をテコにして、アメリカという国のあり方それ自体を娯楽にし、商品として流通させ、そのチャームを世界中に振りまいている。
売れっ子脚本家であり、先日『モリーズ・ゲーム』で監督デビューを果たしたアーロン・ソーキンがクリエイター(海外ドラマの総監督的な意味合いの肩書か?)を務めたHBO制作のドラマ『ニュースルーム』の冒頭の場面が強く記憶に残っている。こちらを紹介したい。
主役のジェフ・ダニエルズ演じるニュース番組のアンカーパーソン、マカヴォイは大学で開催された討論会に参加している。参加者は他にリベラルと保守がそれぞれ一人ずつ。ちなみに主人公は共和党支持者。なんだか落ち着かない様子で二人の意見を聞いている主人公。なかなか口を開かないので司会が話を振るが核心に触れず、冗談を言ってただはぐらかすのみ。
討論会の終わり際、質疑応答のコーナーでマイクを握った女子大生がこんな質問をした。「アメリカが世界で一番偉大な国である理由はなんだと思いますか?」
リベラル側も保守側もアメリカが世界一偉大な国である理由をそれらしく答えてみせる。ジョークでかわそうとしたマカヴォイだったが、司会に煽られて火が付いてしまう。
「『アメリカが世界で一番偉大な国である理由はなんだと思いますか?』だあ?ぜんぜん偉大な国じゃねえから!」リベラル、保守双方をけちょんけちょんにこき下ろしつつ、呑気な質問をした女子大生に対して「アメリカが世界で最も偉大な国」ではない理由を列挙する。しまいにはFワードまで飛び出してしまう。立て板に水。ギャラリーはドン引き。携帯で撮影を始める者も現れる。マカヴォイはしばし沈黙し、トーンを落としてこう続けた。
「かつてはそうだった。正義のために戦い、法律の制定や廃止をモラルに基づいて行い、貧しい人とではなく貧困と戦った。己を犠牲にし、隣人を気にかけ、口先だけではなく行動し、常に理性的だった。巨大なものを作り上げ、飛躍的な技術の進歩をとげ、宇宙を探検し、病気を治して世界一の芸術と経済を育てた。より高みをめざし、人間味があり、知性を求めることは恥ずかしいことではなかった。選挙で誰に投票したかで自分を分類したりせず、たやすく動じなかった。それができたのは我々が情報を与えられていたからだ。尊敬できる者たちによって。問題解決の第一歩は問題を認識すること。アメリカはもはや世界一の国ではない。」
「これで答えになったかな」と言って締めくくる。結局この演説がネットにアップされて「マカヴォイご乱心。アメリカは偉大な国ではないと発言」という切り取られ方をして炎上してしまう。これが『ニュースルーム』が冒頭のシーンだ。
ここで突然話は変わるのだが、ランディ・ニューマンというとてもクレバーなシンガー・ソングライターがいる。”Political Science”と題された曲では、アメリカがセルフイメージの一つとして抱いているヒロイズムとその孤立について皮肉をたっぷり込めて歌っている。『ニュースルーム』の演説と併せてこちらも紹介したい。他所の国の歌ではあるが、自国の気の抜けた愛国歌よりもよっぽど胸に響く。人類はランディ・ニューマンという知性を持ち得たことを誇りに思うべきだ。

アメリカの民主的なあり方を過剰に美化しているきらいは否めない。いささかオプティミスティックな見方だし、部外者としてアメリカのサニーサイドを見ているに過ぎないだろう。隣の芝は青く見えるという話でしかない。創作物から感じた印象でしかないし、さらには、日本語に翻訳されているものには限りがある。群盲象を評すの喩えではないが、我々が見ているのはあくまで一面でしかない。そのことには常に留意する必要があるだろう。
しかし、アメリカのサニーサイドといえるピクサーの映画なんて観ていると本当に感動する。「馬鹿相手に商売やってまぁす!稼ぐが勝ちっしょ〜。ぶいぶい」という姿勢の対極にある。それこそ非妥協的な姿勢でものづくりに取りくんでいる。加えて誰が観ても感動するようなものを、一人の天才に寄りかかったりせず、制作に関わっている一人一人がきちんと自らの役割を果たして一つの作品を作りあげている。その仕事ぶりを実際に見たわけではないから想像でしかないが。さらに、きちんと利益を上げることへの姿勢がじめっとしてないように感じられる。どこぞZOの何某ではないが、金を稼ぐことへの後ろ暗さの反動でわざわざ露悪的な態度を取るなんてことは恥以外の何物でもない。
なんてことを言いつつ、アメリカがどうの日本がどうのといった俗に言う「でかい主語」の印象論は楽しいけれど与太話しかならないことは気に留めておこう。

今回の裏テーマ

ビルボードチャートにトップ10入りしているDrakeやChildish Gambinoの曲はそのMVの内容も含めて話題になっているものである。そこで念のため、100曲すべてYouTubeでチェックすることにした。一通りチェックして感じたことは、自分は何も知らないんだということ。知っているアーティストよりも知らないアーティストの数のほうが明らかに多いし、その曲のジャンルやスタイルをなんと呼べば良いのかわからないこともある。勉強不足だと改めて感じた。こういう結果になれば謙虚にならざるをえない。
加えて、前情報が乏しいまま100曲と直に向き合えば、SNSなどで話題になっている曲をつまみ食いしている状態に比べて、インプットされたものは自分の中で混沌としてくる。新宿駅で電車を降りて、紀伊国屋に行き、本を買ってまた新宿駅へ戻るが如くシンプルにはいかない。歌舞伎町、三丁目、二丁目、御苑前、西新宿などを含む新宿という街をいっぺんに相手にするようなものだから新参者は途方に暮れてしまうだろう。さらにネイティブでもなければTOEICすら受験したこともない日本在住モノリンガルが「洋楽」を聴くことの難しさたるや。(しかし、そもそも日本語だってきちんと使いこなせているとは決して言えないのだから、外国語を殊更わからないわからないといって騒ぎ立てる必要もなかろう。単語がひとつでもわかれば万々歳。という開き直りもありつつ)
バズっていること・ものに対し、特に調べることもせず、また予備知識があるわけでもないのに、アイロニーを込めて揶揄したり腐したり気の利いた風なことを言ったりして身内からのプロップスの種にするといった行いを頭ごなしに否定する気など毛頭ないけれど(何かが議論を呼ぶ度に「文句を言いたいだけの一部の人が騒いでいるだけ」とつぶやく人がいる。おそらく今後50年、同じ言葉を繰り返し言い続け、最後は「文句を言いたいだけの一部の人が騒いでいるだけ」という辞世の句を残して息を引き取ることになるだろう。そうならないためにも三十を過ぎたら性根の腐った相田みつをみたいな安っぽい芸風は捨てて、たくさん本を読んできちんと勉強し、的確な言葉でものごとを語っていかなくてはならないというのが最近の持論だ。やはり勉強の量が圧倒的に足りていないからこのような非ロジカルで危なっかしいことを書いてしまうのだろう。「もう少しうまくなってから練習したほうが」というのび太の言葉は蓋し名言である。)、個人的にはそうした気の利いた風の消費とは別のことがしたい。
言葉の効能によって、物事が収まるところに収まることで得られる安堵もあるが、馴染みのない音楽を浴びるように聞き、現在の語彙では対応しきれずにもはや言葉を失うしかない状況をむしろ幸福だと感じたい。
何もわかっていないのに、このように人様を捕まえて何かを講釈することなど不可能。知ったような口をきくことは自粛しなくてはないならい。どこぞZOの某ではないが「お顔の皮のほうがちょっと厚め・・・なんですかね?」と思われる言動が、良識ある人たちから一方的に叩かれているわけではなく、意外なことにプロップスを得ているような場面に出くわすことも少なくないが、そういう潮流に飲み込まれないよう、謙虚な姿勢で何かに取り組むことは決しては悪くはないだろう。今回のイベントの裏テーマは”Be Humble”としたい。

『邦ロックから遠く離れて』

ROCK CAFE LOFT
2018年6月25日(月)
OPEN 19:00 / START 19:30
前売(web予約)¥2,000 / 当日¥2,500 (+要1オーダー以上)
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/rockcafe/90070

 

お気に入りの気に入らないもの

一週間後に31歳になる。おそらくおじさんからみたらガキンチョだが、中高生からしたらもうおじさんに映るだろう。もう決して若くはない。その事実は受け入れるべきだ。「いくつになっても中学生のときの気持ちは忘れないんだぜ」なんて言おうものなら、過去からタイムスリップしてきた14歳の自分に「オマエみたいなオッサンと一緒にすんな」と吐き捨てられ、駅のホームから突き飛ばされても文句は言えない。14歳のときの自分を裏切らないためにも我々は歳を重ねることと向き合っていかねばなるまい。
Zoffで眼鏡を作ろうと思って10年ぶりぐらいにルミネエストに入ったのだが、ここは自分が来る場所ではないと感じた。客層が明らかに若い。自分の周囲だけ色がくすんで見える。店内の明るい照明を弾き返すことができず、その輝きをただ吸い込んでしまっているように感じられた。自分はもう二十代前半ではないのだと改めて思い知らされ、とてもショックを受けた。そして、未だに二十代前半ぐらいの気分でいた自分にも驚かされた。なんとも情けない話だが。
小学生も高学年になってくるとブリーフではなくトランクスを履く者が出てくる。水泳の授業の前など、皆で着替えているときにトランクスを履いているものを発見すると、ああ大人っぽいなと感じたものだ。あるとき、チキンラーメンだったか出前一丁のキャラクターがプリントされたトランクスを履いている者がおり、なんて楽しい下着を履いているのだと思って羨ましくなった。
後日、母がスーパーに行くというのでついていった。2階の衣類コーナーで出前一丁のキャラクターがプリントされたトランクスを発見したので、ねだってみると「こういう代物はいただけない」と退けられた。トランクスが欲しいのなら、ちゃんとしたトランクスを買ってくるから待ってろとのことだった。ちゃんとしたトランクスとはなんなんだ。チェックのトランクスのことか。あんなつまらない下着を履いてたまるかよ。
当時はそう感じたのだが、思春期に差し掛かり、色気づいてくると徐々に「こういう代物はいただけない」という価値観が飲み込めるようになってきた。ブランドのロゴは小さければ小さいほど良い、むしろないのがベター、なんて価値観は当時覚えたもので、未だにそう思うのだが、今は「インスタ映え」という観点からロゴがどんどん大きくなっているなんて話も聞く。
幼い頃、高速道路を走行中に、リアウィンドウにぬいぐるみをたくさん並べている車を見かけ、「なんだあの楽しそうな車は!」と思い、「うちもあの車みたいにしようよ」と提案したら「恥ずかしいからやらないよ」と却下されたこともあった。
「キャラクターグッズは絶対に使わない」と宣言する人の話を聞いていてそんなことを思い出した。年頃の少年少女が言うのならまだしも、大の大人が敢えて「キャラクターグッズは絶対に使わない」と宣言しなければいけないほど、キャラクターグッズは世の中に氾濫しており、また大人がそれを使用したり身につけたりすることがそこまでおかしなことではないとされている、ということなのだろうか。ダンディズムなんて夢のまた夢、真っ当に年を取ることすら困難な状況において、なんとかしてその道を見つけようと模索する我々としては、加齢とキャラクターグッズの問題について改めて考えていく必要がある。
おそらく30年後、例えばサトシとピカチュウのイラストがプリントされたTシャツを着ている爺様なんて存在は特に珍しいものでもなくなっているだろう。けれども現時点においては、年齢に見合わないキャラグッズを身に着けている人を見ると、どうしても大友克洋の「童夢」に出てくるアラレちゃんの帽子をかぶった老人を思い出してしまい、やや恐怖を感じる。
楽器を試奏する際に、有名な曲のリフを演奏するのは恥ずかしいことだとされている。たしかに楽器屋で誰もが聴いたことのあるようなお馴染みのリフが聴こえてくるとこそばゆい気持ちになる。楽器屋に限らずライブハウスでもサウンドチェックの場面などでそれなりに知名度のある曲のリフやリズムパターンを演奏することは恥ずかしいことだといえよう。他人のライブを聴きに行って、サウンドチェックのときにベースの人が”Tighten Up”など弾き始めたら、いくら”Tighten Up”が名曲といえどもやはりどこか落ち着かない気分にさせられるはずだ。そうは言うものの自分もたまにやってしまう。
これはどういうタイプの恥ずかしさなのか。すこし考えてみたい。
あなたがまだ中学生で誰かに恋をしたとする。それは初恋と呼べるものかもしれない。ある日、あなたは片思いした相手が椎名林檎のファンだという情報を得る。そのことを意識し、いかにも自然な感じを装い、それらしいタイミングで「ああ~やられたり~やられたり~♪」とその相手に聴こえるように口ずさんだとする。
そんなことをする自分が許せるか。こういうタイプの微妙な厭らしさないし恥ずかしさに近いものを感じるのだがどうだろう。メッセージの発し方の思い切りの悪さ。いじましさ。
大して馴染みはないが、知らないこともない曲がある場所で流れており、その空間においてはその曲に慣れ親しんでいることがヒップであると予想できるといった状況で、その曲を知っていることを暗に示すためのパフォーマンスとして、その曲に合わせて鼻歌を歌う人がいる。そのときに、頻繁にメロディやリズムから外れたりして、明らかにうろ覚えだとわかる場合、その場に居合わせた者は気まずい思いをするだろう。「あ!この曲知っている!いいよね!」と言うのはいささか直接的すぎるし、あまりスマートではないという理由でこうした行動を取ってしまうのだろうが完全に逆効果で、全然スマートではないしその姿はむしろ滑稽に映る。
出囃子が鳴り響く中、ステージに登場するという演出も耐え難い。本当に。他人がレディへのクリープをバックに肩で風を切ってステージに登場しようが別にどうでも良いが、自分がやるのは絶対に無理。ミッシェルが「ゴッド・ファーザー 愛のテーマ」で登場するのは見事だとしか言いようがない。「やったー!」という気持ちになる。あれこそが演出だ。微妙に外した選曲が一番恥ずかしい。見ているこちらが恥ずかしくなる。2、3人の身内を対象としたユーモアにただ鼻白むのみ。
ファンキー仕立てのジャムセッションほど我々のバイブスを殺すものはない。BPMが125ぐらいでキーはEm。ファンキー風のドラムパターンとファンキー風のベースライン。ニュー・マスターサウンズなどイギリスのジャズ・ファンク・バンドのようなリフをバンドブーム期のバンドのようなタイム感で演奏した感じといえば伝わるか。本当に嫌だ。その嫌さは、このようなファンキー仕立てのジャムセッションを撲滅するのが自分に課せられたミッションなのではないかと思うほどである。似非ファンキージャムセッションはSNSでよく見られる自分が何かすればそれがそのままコンテンツになるといった思い上がりに似ている。誰もが生来的に持っているダサさに対し、我々は蹴りを入れて誰がボスなのか教えてやる必要がある。
幸せって一体何なんだろう。