嗚呼、なんたる不覚!

※このテキストは2007年06月20日にmixiで公開した日記を加筆修正したものです。
先日、20回目の誕生日を迎えついに成人の仲間入りを果たしました。
成人になったのだから成人らしく振る舞おうなんてことは特に考えたりしていなかったのですが、本日もう子供ではないのだからもっとしっかりしなくては思わざるを得ない事件に遭遇いたしました。
今日はバイトで原宿に行かなければなりませんでした。夕方に準備を済ませ家を出発しました。違和感に気づいたのは最寄り駅の構内でした。私は左右で違う靴を履いていたのです。急いで家に帰り履き直そうかとも思いましたが、そうするとバイトに遅刻してしまいます。そのまま電車に乗り込みました。
車内では苦痛の嵐に見舞われました。まさに羞恥プレイです。高田馬場で降りて山手線に乗り換えます。山手線の車内では車両と車両の間に身を潜めていました。無事に原宿に到着しましたが、本当の地獄はここからです。
見られる街。それが原宿です。そこでは日々オシャレにカロリーを費やす若者達が闊歩しています。彼らは自立した絶対的な存在ではなく、人に見られ、さらに羨望の眼差しを送られることで喜びを感じる相対的な存在であることは皆様もご存知だと思われます。彼らはただ見られることに終始することはなく、他人のこともよく見ています。他人と自分を比べ、どちらがよりオシャレであるのか競い合いっているのです。そんな街にいると人は自然と自意識過剰になってしまいます。駅からバイト先のたった5分間が無限地獄に落されたような心持ちでした。一番の懸念はファッション誌の『ストリートスナップin原宿:スニーカー特集』の取材班に声をかけられることでしたが、そんなことはありませんでした。まったく不幸中の幸いとはこのことでしょう。思えばストリートスナップのスの字もない人生を歩んできたものです。
無事にバイト先に到着しました。バイト先ではスリッパに履き替えるのでもう安心です。一応靴はスーパーの袋にいれて隠しておきました。しかし、隠したのはバイトの女の子が来た後だったので意味があったかは定かではありません。
今回の事件は日常に潜む罠とでも言いましょうか、うっかりしていると誰にも起きてしまうことでしょう。もう二度とこのような恥をかきたくないので、これからはきちんと左右同じ靴を履こうと思いました。もう成人ということで身なりをきちっとせねばと思いました。「オシャレな人は靴から」という言葉もあるぐらいです。みなさんも気をつけてください。
ところで、左右違う靴を履くと言えば、右が青、左が赤のオールスターを履いている人をたまに見かけます。きっとTAMIYAが好きなのでしょう。男子であれば誰もがあのTAMIYAのマークに心が躍りますよね。それをオールスターで再現してしまうとは。そういう人がきっと原宿においてもマグナムトルネードをかますのでしょう。

 

ダイスを転がせ

※これは2006年12月31日付mixiの日記を加筆修正したものです。
人生には生老病死の四苦に加え、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の八苦があるそうな。そんなことが昔読んだ仏教の本にも書いてあったし、たしか町田康の小説にも書いてあった。四苦八苦のうち、一番印象的だったのは「怨憎会苦」。これは嫌いな奴に会わなきゃいけない苦しさのことだ。やっぱり嫌いな奴に会うのって相当辛いよね。めちゃくちゃわかる。
とまあそんな具合で、生きているだけで苦しいことだらけ。つらい。嫌なことが多過ぎる。そこで思いついたのが自傷行為。俺は鈍行で帰省することにした。
のんびり鈍行列車の旅。駅弁を頂いたり、車窓から見える風景を楽しんだり、隣に座った人と世間話したり、音楽に浸ったり、そんなことをしている余裕はないと思え。本当は何時間も電車に乗ってたくないが、今回のテーマは自傷行為だからできるだけ苦しいほうが良い。
まず時刻表を買ってきて計画を立てた。この作業は深夜にニヤニヤしながら行われた。
なんとしても始発に乗りたかった。始発に乗るのはいかにも旅の始まりという感じでクールではないか。さらにどうしても東京駅から東海道本線に乗りたかった。品川ではなくあくまで東京。東京駅から出発することだけが紛れもない旅の始まりであるといえよう。
東京まで行く方法には悩まされた。いつもなら東西線で大手町まで行き徒歩で東京まで行くのだが、これはあまりクールではない感じがした。地下鉄では旅らしさが出ない。だから中央線で行くことにした。東中野まで歩いて始発に乗る。完璧だ。
三日連続でバイトした翌日が出発の日だった。バイトが終わって家に着くと午前2時半だった。一度寝たら絶対にめんどくさくなってのぞみ指定席で帰りたくなる。このテンションを維持したまま行かなければならない。
適当に準備を済まして、ゴミを出して洗い物してるとき胸の高鳴りが聞こえた。「いよいよ、出発だね」 頭の周りを飛び回る手のひらサイズの妖精にそう声をかけてもらいたい気分になった。
3時55分、家を出る。4時15分、東中野に到着。4時27分、東京行きの電車に乗り込む。馬鹿でかいあのバックパックっていうの?リュックサックっていうよりバックパックって言ったほうがクールだし旅らしさがより一層感じられるからあえてバックパックって言うけど、本当にそれがバックパックなのかは自信はない。たぶんあってる。その馬鹿でかいパックバッグを持ったいかにも趣味は旅行ですと言った出で立ちのアウトドア系の人が何人かいたから、「お、お仲間ですね」という眼差しで見つめてみた。しかしいつも着ているような何系でもない中途半端な格好していたから仲間と見做してはくれなかっただろう。
4時51分、東京に到着。緑の窓口がまだ開いてなくて 困惑した。土産でも買うかと思っていたが、お店も開いてなくて困惑した。仕方なく構内をうろちょろうろちょろして時間を潰した。5時30分に緑の窓口が開くみたいだったから、それまで八重洲の吉野家で腹ごしらえした。未だに吉野家のお勘定システムに慣れない。店員に遠慮してしまう。
駅に戻り緑の窓口で東京→刈谷の切符(¥5,780)を購入しいざ行かん。5時46分、沼津行きに乗り込んだ。座席についたら背もたれが直角でやはり新幹線の旅とは違うと改めて思った。「でもそんなこと始めからわかってたはずだよね」と頭の周りを飛び回る手のひらサイズの妖精が呟いたような気がした。
意味も無く時刻表を開いたりして旅気分を満喫。うとうとしてたら空が明くるなってきた。6時半頃。戸塚周辺を走行中。
水平線から日の出が見えたら良いなと考えていた。しかし、 藤沢や茅ヶ崎といったいかにも海が見えそうな辺りでは建物しか見えずがっかりだった。「ママ!僕たち海の上を走ってるよ!」と元気な子供の声に起こさて、窓に視線を移すと金色に輝く水面が。我々その上を滑っている。みたいな感じを期待していたわけ。だからとってもがっかりしたんだ。また、向いの席のいかつい野郎が股をおっ広げたうえに浅く座ってやがったから俺は狭い空間を足を揃えて行儀よく座っていなければならなかった。くわがたに捕らえられる寸前の小さい虫みたいな感じ。それに加えエアサロンパス臭かったのでうんざりだった。そんな調子で腹を立てていたら、6時54分、大磯にて朝日が見えた!これだ!これを待っていたのだよ。さらに、7時05分、国府津にてばっちり海が見える。水平線ってすごい。興味深い。
7時15分。太陽が燦々と輝いており俺の力も湧いてきた。年末の太陽は違う。初日の出にむけて気合いが入っている。さらに7時20分、根府川で正に海の上を走っているような心持ちになった。まあ嘘だが。このエリアでは長い間海が良く見えたので満足。
7時42分、熱海に到着。ドトールで一服。ワッフルを食べた。8時05分、再び乗車。次は浜松が終着。はやくも飽きてきたので読書をすることにした。8時30分頃、向いの席にいた男性が慌てだしたので何事かとを思い様子を伺っていたら、男性越しに窓の向こうに見えたのはフジヤマ!ヘルイェァ!
富士山。やはり大きい。男性は向いの窓に近付きデジカメで撮影している。周りにいたアベックやおひとりさまの女性も携帯で撮影している。こんなことがあろうかと思い、私もデジカメを持参しているのだよ。でもさでもさ、今立ち上がって撮影したら皆の二番煎じになってしまう。付和雷同のしょぼい人間の一人だと思われてしまう。どうしたもんか。けれども今撮影しておけば、帰って友人と会ったときなどに、「ほら。これ見てみ。」「おお。富士山やんけ!」「ははは、どうよ?」「オマエってやっぱりスゲェな!」という会話がなされるキッカケとなる。あああ、どうしようどうしようと頭を抱えていたら富士山は遠ざかっていってしまった。まあ良い。今度登ればいいや。それが東太子の浦での話。
「静岡で後ろの4両を切り離すから静岡よりもっと先に進みたい人だけ前のほうの車両に来て」といった内容のアナウンスが入った。俺が乗っているのは後方の車両だったのであたふたした。周りの人たちは立ち上がり俺を置いて前方の車両へ去ってゆく。時刻表を見て、「まぁ静岡でおりて30分ほど休憩するのも悪くない。トイレ行きたいし」ということで、9時19分、静岡にて下車。トイレへ行ったところ気が変って、やっぱり今乗っていた列車で浜松まで行こうと決心し、小走りで階段を駆け上がり、再度乗車。そうしたら人がいっぱいで座れない。立っていたら旅らしさが感じられないじゃないか。
9時24分、発車。 それからおよそ一時間立ちっぱなし。読書して過ごす。
10時36分、浜松に到チャックベリー!立ち食い蕎麦を食べた。10時56分、大垣行きへ乗車、発車。豊橋から快速になるらしい。せっかく今まで各駅停車にしか乗らないできたのだから豊橋で降りて、11時39分の豊橋発岐阜行きの普通列車に乗り換えようかと迷ったが、眠いのでやめた。ここまでくるとさすがに疲れた。もうどうでもいいよ、普通だろうが快速だろうが新幹線だろうがさぁ!新幹線、てめぇサイコロいくつだよ?!4個だあ?のぞみは5個だあ?!こちとら1個じゃボケェ!
うとうとしてたら愛知県に入っていた。「ついに到着だね」と頭の周りを飛んでいる手のひらサイズの妖精が呟いたら良い感じだろうなと思った。
11時56分、ついに刈谷に到着。虚無感に襲われる。富士山の心残りのせいか、何か記念撮影的なことがしたくなり、せっかくだからと東京→刈谷の 切符を改札の前で撮影した。さあ真っ赤な名鉄の電車に乗って家へ帰ろう。碧南行きは2両しかない。中はガラガラ。帰ってきたなぁという気分に浸れるから結構。
家についたのは午後1時少し前ぐらいだったと思う。東京の家を出たのが3時55分だからおよそ9時間くらいの旅だった。 計画を立ててるときに何人かの人に鈍行のつらさを聞いていたが、言う程つらくなかった。お尻も腰も痛くならなかったし。 だから大して自傷行為にならなかった。むしろ楽しかった。 俺は自傷行為がしたかったのに。これでは求不得苦ではないか。 苦しい。そこでまた自傷行為の旅が始まる。俺たちの旅は始まったばかり。
ちなみに、BGMは家を出るときに『プリーズプリーズミー』を聞き始めて、『ウィズ・ザ・ビートルズ』『ビートルズがやって来る、ヤァヤァヤァ!』と聞いていって、家に着く寸前では『アビーロード』の「ジ・エンド」が流れていた。綺麗におさまった。レット・イット・ビーはどうした?(キャベツはどうした?的なリズムにのって)

 

メロコアあるいはコア系と私

※2012年1月12日に書いたテキストを加筆修正したものです。
中学時代はご多分に漏れずハイスタのコピーをしていた。3年生のときには文化祭のステージにあがりバンドで演奏もした。持ち時間が10分のところ、テンポを上げて無理やり4曲演奏した。曲目は、”Fighting Fist, Angry Soul”、”Glory”、”New Life”、”Mosh Under The Rainbow”だった。PAという概念がないのでマイクが立っているのはボーカルのみ。ギターソロの場面では文化祭の司会を務める友人に頼み手持ちのマイクでアンプの音を拾ってもらうということをした。
その日の様子はギターボーカルを務めた友達のお母さんがビデオに撮影してくれていて、高校生のときに見返したら自分の演奏がかなり走っていて恥ずかしくなった。この頃は、合奏することがなんなのかもよくわかっていなかった。ちなみにこのバンド、ギターボーカルを含めてギターが3人いるという謎のバンドであった。
ハイスタという名を初めて耳にしたのは従姉に教えてもらったときのことだった。6つ齢の離れた従姉が『Angry Fist』をカセットテープにダビングしてくれたのだった。寸評が書かれたメモが一緒に入っており、そこで「コア系」という言葉が使われていた。今でこそ「コア系」なる言葉は死後であるが、当時はわりと一般的に使われていた言葉だったように思う。「ハードコア」から派生した「スカコア」「メロコア」などを全てひっくるめて「コア系」などと呼んでいたようだ。またはそういった音楽を好む人のことであったり、そういう人がしている服装をコア系と呼ぶこともあるようだ。
テープをもらったのはおそらく1999年で小6のときのことである。聴いてみたものの、なんだかよくわかんないなという具合であった。当時の感触を思い出すと、「若者っぽい」という印象を抱いていたような気がする。といっても一曲目を30秒ぐらいしか聴いていない。
中1の誕生日プレゼントでギターを買ってもらった。日付も覚えている。2000年の6月11日。特に確たる理由もなしになんとなくおもしろそうだなあと思いギターを始めたので(今にして考えるとマイケル・J・フォックスの影響だったのではないかと思う)、これといってコピーしたいと思う曲もなく、最初のうちは教則本でコードを覚えたりしていた。その後、教則本のコラムからジミー・ペイジやリッチー・ブラックモア、ブライアン・メイ、サンタナ、アンディ・サマーズという名前を覚え、関連するバンドのベストアルバムを借りてきたりしてロックを聴き始め、「ヤングギター」や「ギターマガジン」に掲載されたTAB譜を参考に「往年の名リフ」などをコピーするようになった。
とりあえずバンドというものがやってみたくなり、その年の夏に友達を半ば無理矢理説き伏せてバンドをやることにした。ベースをやることになった友達がバンドを始めたことをギターをやっている仲の良い3年生の先輩に言ったところ、「俺が色々と教えてやる」という話になり、教えを請うことになった。休日にその先輩が住んでいる団地の一階にある集会所ような場所を借りて練習することになった。先輩は、坊主頭のガタイが良い人物で、名をさとしといい、我々は「さとしくん」と呼んでいた。
さとしくんは「おまえらハイスタやんなきゃダメだよ」というようなことを言い、彼は課題曲に”Fighting Fist, Angry Soul”を選んだ。しかしその課題曲の音源は用意されていなかった。ろくに聴いたことのない曲をTAB譜とさとしくんの実演を手本にしてひたすら練習して日が暮れていった。その曲がどんな曲なのか聴かないことには始まらないということで、後日従姉にCDを借りることにした。これがハイスタとの二度目の出会いとなった。一度目は従姉から流行りの音楽として教わり、二度目はギターのお手本として先輩から教えてもらうという出会い方をした。これが2000年の秋のこと。”Fighting Fist, Angry Soul”はギターで弾ける曲の第一号となった。
ちなみに、その頃はハイスタのメンバーがどんな顔をしているのか知らなかった。今では、音楽そのものは好きでもやってる本人の顔は知らないというものはザラにあるし、そんなことをいちいち意識することもないが、今にしてみると、これは当時の自分にしては新しいことであったかと思う。おそらくハイスタの姿形を最初に確認したのは、『Making The Road』のスコアに掲載された写真をみたときだったかと思う。黄色いディルドを持ってステージに立っている写真だ。
当時地元のビデオCDレンタル屋にコア系コーナーというのがあって、そこでハイスタ周辺のバンドも知ることができた。といっても、主にブラフマンぐらいなもんで、スキャフルキング、ポットショット、バックドロップボム、シャーベット、レンチ、バルザック、ハスキングビーなどは全然聴いていなかった。あとは、たまにマッドカプセルマーケッツとかスネイルランプを聴いたりした。「コア系」でもオリコンのシングルチャートの上位に来るようなものしか聴いていないということである。
当時はハイスタよりもブラフマンのほうが格好良いと感じていた。「ロック的な格好良さ」という尺度で聴いたときにやはり『長調のハイスタ』よりも『短調のブラフマン』のほうがサマになっていると感じたのではないかと今にして思う。短調というのはサマになりやすいが、一方長調をサマにするというのはなかなかこれが難しい。またブラフマンには「シャウト」があったことも忘れてはならない。「シャウト」は思春期の男子としてはやはり痺れるものがある。
学内においても「コア系」バンドは一部の生徒に人気があった。3年生が「昼の放送」でハイスタやブラフマン、山嵐などをよく流しており、学校にいる間にも耳にする機会があった。どこの中学校でも同じなのかもしれないが、放送委員会の学内ヒエラルキーの上層部に位置するような生徒が関与しており、軽くヤンキーが入った先輩が「昼の放送」で自分たちの好きな音楽をかけるということをしていた。それに影響されて、同学年の快活な生徒たちも徐々に「コア系」を聴くようになっていった。
中一のときの文化祭のステージでは「コア系」のコピーバンドが3つ出ていた。そのうちの2バンドはちょっとヤンキー入った先輩達がB系(これもまた死語)とスケーターの間の子のような格好をしてハイスタやブラフマンのコピーをしていた。ひとつのバンドはメンバーが代わる代わる交代していた。楽器をやっていた生徒がわりと多かったということが伺い知れる。ギターの先生であるさとしくんもバンドを組んでステージに出演していたが、学校のジャージを着て19(ジューク)などと一緒にハイスタのコピーをしていた。
中二のときは、同級生と文化祭のステージに出ようということになり少し練習したりしてみたが技術上の問題で頓挫してしまった。要するにロクに弾ける奴がいなかったということである。
我々が文化祭のステージにあがろうとしていると知った上級生がごちゃごちゃ文句垂れていることを仲の良い先輩から聞かされたが、全く意に介さなかった。その年の上級生たちは前年度の三年生に比べると気合が入っていなかったので結構ナメられていたのだ。
その年のステージでは、ひとつ上の学年の女子生徒たちがバンドで出演していた。このバンドもハイスタをコピーしていた。このバンドは、メンバーに楽器屋と音楽教室を経営する家庭の生徒がいたため機材が充実していた。しかし、バンドでの演奏は2曲ほどに留めて、ゲストを呼びこみアカペラで何曲か披露していた。当時ハモネプが流行っていたのである。
文化祭のステージの変遷をみていくと、ヤンキー入った先輩たちが気合を入れて演奏していた「コア系」は、中流家庭の生徒達が楽しげに演奏するものに変わっていったということがわかる。当然、翌年ステージに立った我々のバンドも後者に属していたことになる。とはいってもヤンキーがかった世界観には憧れを持っていたから、やはりスケーターとB系の間の子みたいな衣装を着てステージに立った。
なんとはなしに、我々は「コア系」を享受した最後の世代ではないかと考えている。モンゴル800にどのように接したが分水嶺になるだろ。
モンゴル800の『MESSAGE』は2001年9月に発売され、ジワジワと売りあげを伸ばし、翌年4月にはオリコン1位を獲得した。同級生でも聴いている人が多く、お昼の放送でもよく流れていた。
モンパチはハイスタやブラフマンの仲間としてやはり従姉からオススメされていたから既に知ってはいた。99年の『GO ON AS YOU ARE』を貸してもらい良く聴いていた。アタックのCMで起用されたときはとても意外でだ驚かされた。
モンパチを「コア系」として受け取っている人は少数だったかと思う。むしろその後来る「青春パンク」に属するものとして考えている人が多いような気がする。ちなみにうちの学校ではゴイステを聴いている人はまるでいなかった。
ここまで国内のバンドの話であったが、当時は海外のメロコアバンドも平行して聴いていてむしろそちらのほうがメインを占めていた。主に聴いていたのは、NOFX、グリーンデイ、オフスプリングといった有名所だ。少し毛色は違うが、近しいものとしてランシドも好んで聴いていた。どれも西海岸のバンドではある。
2000年の夏に『ランシドV』が発売されて、たまたまラジオで”Let Me Go”を聴き、世の中にこれほど格好良い音楽があるのかと興奮し自転車を走らせてCDを買いに走った。ドクロのジャケが中学生感覚をくすぐる名盤であった。これが契機となって、海外のメロコア、パンクに興味をもつようになったのである。
その他のバンドは当時どういう状況であったか。オフスプリングは98年のヒット曲である”Pretty Fly (for a White Guy)”がよくラジオで流れていた。この曲はメロコア云々というより洋楽の一ヒット曲として受け入れていた。言うなれば、シャンプーの”Trouble”のようなものであった。「アハーンアハーン」というコーラスはどう考えたってキャッチーである。2000年11月には『Conspiracy of One』がリリースされたので、発売して間もなく購入した。
NOFXは、同年6月に『Pump up the Volume』が発売されたばかりで輸入盤を扱うレコード屋や雑誌でよく目にしていた。「ランシドの仲間(元レーベルメイト)」ということを知り、聴いてみたのだが、これがあまりキャッチーではなかったので当時の自分としてはグッとこなかった。その年の秋ぐらいに名盤『White Trash, Two Heebs and a Bean』を聴き、ようやくNOFXにハマることができた。
同年10月、グリーンデイは『Warning』をリリースする。その時点で、グリーンデイは「メロコアの雄」という認識を持っていたので、かなり期待して『Warning』を聴いたのだが、音は大人しくテンポもゆったり目で退屈に感じられる曲が多く非常にがっかりした記憶がある。ジャケットも今イチぱっとしない印象があった。その後もグリーンデイにハマることはなかった。”Bascket Case”はさすがに良い曲だと思ったが。
その後、遡って色んなアルバムを聴いてみたたが、やはりランシドとNOFXがお気に入りだった。2002年の3月にはNOFXとランシドがお互いの曲をカバーしあうという企画盤が発売されて、当時それが大好きでよく聴いていた。
また、リアルタイムのバンドと平行して、セックスピストルズやクラッシュなどのパンクも少しずつ聴くようになった。2002年はパンク誕生25周年ということもあって、雑誌などでもパンクの特集が組まれることが多かったのだ。今では考えられないが中高の6年間はパンクに類する音楽をよく聴いていた。しかし、例えばStiff Little Fingersの”Suspect Device”などを聴くと「やったー!」という気持ちなる。
2000年頃は、米西海岸の若者文化への漠然とした憧れをもっていた。舶来のものが格好良く目に映るというところがあった。部活でバスケを選ぶ時点でそういうところが既にあったと言えるだろう。ただ西海岸の若者文化をちゃんと認識していたわけでなく、Stussy、DC Shoe、Supreme、X-Large、マーク・ゴンザレス、スラッシャーマガジンといったものを雑誌『Smart』などを介し、全部一緒くたにボンヤリと受け入れていた。だから誤解の入り交じった、ほとんど自分だけの幻想、妄想であったと言ってもいい。Supremeに関してはニューヨークのブランドであるし。ともあれ、スケーターカルチャーを中心とした西海岸の若者文化に憧れを持っていたということである。
メロコアバンドのPVを観ていると若者がスケボーをしている姿がよく見受けられた。だから当然スケーターカルチャーとメロコアはセットになっていた。ハイスタもアルバムのジャケットにスケボーしている様子が描かれていたり、スケボーやBMX、アウトドア用品を扱う『STORMY』というお店のステッカーが楽器に貼ってあったりした。(スケボーということを考えると、ここにもマイケル・J・フォックスの前フリが利いているような気がする。ちなみにBTTFの舞台はカリフォルニアの郊外)中2のときだったか、実際にスケボーを購入し、練習したもののいつまでたってもオーリーができるようにならず、しょうがないので家の前の坂をスケボーに股がって下ったりするうちに飽きてしまい、すぐにやらなくなってしまった。
ところで、60年代前半にも西海岸で若者の生活または風俗を歌ったバンドがあった。そのバンドは、当時、若者の間で流行っていたサーフィンやホットロッドなるものを題材に歌を作った。ご存知ビーチボーイズである。
サーフ/ホットロッド時代のビーチボーイズは50年代中期のロックンロール〜60年代前半のポップスを土台にしていた。この頃に多用されたポップス黄金律的なコード進行を元にし、演奏を単純化し、喧しく表現したバンドが70年代後半のニューヨークに登場したラモーンズである。
ビーチボーイズ〜ラモーンズという流れを想定すると、ハイスタはその系譜上のあると言えるのではないか。ビーチボーイズの時代にサーフボードだったものがスケートボードに変わったということではないだろうか。また、ハイスタにはCFGまたはCAmFGといったポップス黄金律進行の曲が多く、またメロディはシンプルで親しみやすく童謡的なところがある。そこはラモーンズと共通するところであるが、ハイスタはラモーンズよりもさらに喧しく且つ鋭く演奏した。
ハイスタは、喧しさと鋭さをスラッシュメタルから引っ張ってきたといえる。(ハードコア経由なのかもしれないが、横山健はスラッシュメタルが好きだったとインタビューで言っていたような)そして、このスラッシュメタル的なリフというのは我々と非常に相性が良いような気がするのだが、どうだろう。「ジャッ!ジャッジャッジャーッ!」という切れ味のあるギターは書道の「とめはね」というのに近い気がしている。あとは歌舞伎の「大見得を切る」という所作であったり、特撮ヒーローの決めポーズといったもの。または、北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』のあの感じ。ダイナミックな一時停止というか。そういう意味で少年漫画も近いのかもしれない。効果線などで表される動的な静止画であるコマの感じは、スラッシュメタルのクラッシュシンバルミュートに近いものを感じる。瞬間をデフォルメするというふうにいえばよいのだろうか。
スラッシュ的なリズムというのは、点をいくつも置いていき、それを繋いで線にしているというような印象がある。それに対し、例えばソウルやファンクのリズムは初めから存在する線上に点を置いていったというような印象を受ける。それがよりロック的なものに近づいていくと点を「強調」する方向に進んで行く。「強調」された点というのはことさら目をひく(もとい耳をひく)ので、始めにあった線が目立たなくなる。
ここで突然、寿司屋に例えてみよう。最初から一定のスピードで流れているベルトコンベアーに寿司を置いて行くという回転寿司がソウル・ファンク的なリズムだと仮定すると、 「ヘイお待ち!」とカウンターに皿を置くというのがロックのリズムだといえよう。
長々と当時の思い出話を書いてきたわけだけど、厳密にはハイスタの全盛期はリアルタイムで経験していない。ハイスタをコピーしていた頃にはもう彼らは活動休止していた。だからだろうか、去年、AIR JAMが開催されたが個人的には特に盛り上がらなかった。リアルタイムの熱気というものを経験していないからだといえるかもしれないが、むしろ、思い入れの対象が友達との思い出であったり自分の経験の方にあるからだと考えられる。それももはやただの思い出でしかない。あの頃の未来に僕らは立っていないのだ。それゆえに14歳の自分に教えてあげたいことなど何一つとしてないし、当時の自分が今の自分を見たところで「お前から教わることなど一つもなし」と思うことだろう。

 

鳥ちゃんの「ジャスト・ワン・ヴィクトリイ」

季節の変わり目はいつも調子がいまひとつ。気持ちも塞ぎがちだ。寝ても寝ても疲れが取れない。休日に8時間しっかり寝て、さらには昼寝までしたにも関わらずまったく気力が湧かない。身体中の筋肉がこわばっている。頭がぼーっとする。胃腸の調子も芳しくない。何をやっても面白くない。全てが茶番に思える。気を抜くと虚無に襲われる。毎朝、絶望とともに目覚め、毎晩、諦念を抱いて眠りにつく。
こんなことを言うと「また大袈裟な」と思う人もいるだろう。自分でも大袈裟だと感じる。大袈裟ではあるが、こういう状態なのだから仕方がない。季節の変わり目に感じる絶望や虚無は花粉みたいなものだからただじっと耐えてやり過ごす他ない。大袈裟であっても決して深刻な事態ではないから別にどうということはないが。
こうした状態のとき、それなりに刺激があり咀嚼しやすい形で提示された情報を欲するようになり、ついついSNSというかTwitterばかり見てしまう。特にフォローしているわけでもないが、知り合いの知り合いぐらいの関連性がある人で、時事問題に対して常に適切な反応を示しフォロワーからプロップスを得ているインテリというよりもクレバーないしスマートと形容すべきアカウントのツイートをだらだらと読みがちだ。決して暴論を呟いてしばらくしてから該当ツイートを消したりしないタイプで隙がない。きっと仕事ができるに違いないと言う印象を抱かせる。実生活も充実していそう。
こういうアカウントを見ているとなぜか新進気鋭の読モのinstagramを見たときのように軽くヘコむ。おそらくその人と自分を比べたときに自分の鈍臭さがより明確になるからだろう。自分は「オシャレをしないことでより本質に近づくことができる」と考えるタイプでないので当然「鈍臭い人間のほうがより本質に近づくことができる」とも考えない。それゆえにへこんだ気持ちを梃子にして鈍臭い自分を上位に位置づけることができない。できないというかそんなことしてもしょうがないと思っている。
このように自分と比較してその人物のことを判断しつつ同時に自分の性質を意識してしまうときは視点が主観に固定されてしまっている証拠だ。主観というか自分との関連性でしか物事が見れなくっている状態を「自分酔い」と勝手に呼んでいる。「主観酔い」と言っても良い。ひどいときはすべてのことが自分に対するあてこすりに感じられてしまう。最近はそこまで悪化することはないが、20歳前後はそういう症状に悩まされることが度々あった。
「自分酔い」したまま勢いよく一生を終える人もいそうだが、自分の場合「シラフな奴でいたいんだ」願望があるので無理。と言いながらまた比較してしまっている。自分の影を振り払うことは不可能なのだろうか。いや日陰に入れば良い。寄らば大樹の陰ってね。深いねこれがどうも。
取り扱いが今ひとつ苦手であるところの時事問題に関してひとつ言及すると、稲村亜美さんに中学生球児が押し寄せた件は本当に胸クソ悪くなった。「ま、男子中学生なんて性のことしか頭にないから、こうなるわな。しゃあないわな」といった意見も散見されたが、全然しゃあなくない。あれが「男子の悪ノリ」として片付けられてしまうのなら、我々は「男子」からも「悪ノリ」からも一生逃げて逃げて逃げ続ける必要がある。
話は逸れるが、高校生の頃、保健体育の授業で体育教師が「性欲が全くないなんて男がいたらちょっとどこかおかしい。そんな男は気持ち悪い」というようなことを言っていたのを思い出した。当時からこの発言に違和感があったが、改めて独善が過ぎると感じる。決して「性欲は幻想である」とは思わないが、それにしたって決めつけ方に遠慮がないというかなんというか。「性欲は誰もが持つもの。恥ずかしがって変に抑えつけたりしなくても良いんだよ」ということが言いたかったのだとしたらそうやって言えば良いだけの話。「そんなことは絶対に言わないよ!」ってことだったらごめんなさいなんだけど、こういう手合は「下の口は正直だな」とか言いそう。悩める人を見つければ「風俗に行け」とアドバイスしそう。
できることならば、いくつになっても男子中高生のような精神を死守せねばならないという観念からは距離を置いて暮らしたい。いくつになっても男子中高生のような精神を死守せねばならないと考える人たちは性に関して明け透けで、下ネタを介したコミニュケーションで連帯を強めようとしがち、というのはステレオタイプだろうか。「性欲こそが人間の本質であり、性欲に従順になることがもっとも人間らしい振る舞いである」という前提を彼らは共有しているのだろうが、個人的には共有したくない前提だ。そんな前提の下で人間を正直者もしくは嘘つきに分類できるというのなら嘘つきのほうにカテゴライズしてくださって結構でございます。
ついでにいうと予てから「本質」という言葉が気に食わない。おそらく「気取り」の対義語として「本質」という単語を使っているのだろう。「気取り」という皮を剥いていてくと「本質」が現れるらしいが、玉ねぎの皮を剥くのと同様、いくらそんなものを剥いたところで何も出てこない。端から世の中には「本質」なんてものは存在しない。それでも尚「本質」という単語を使うのならその「本質」とやらの内容を明示すべきだ。それを明示しないまま都合の良く場当たり的に「本質」という単語を使うのはカルト集団と同様のやり口ではないのか。
こうしたことをこのブログを始めた頃からずっと書き続けているから、5年も同じ内容を度々書き連ねていることになる。人間の「本質」はそう簡単には変わらないということなのでしょうか。初心に帰って色々と頑張りたいと思います。

 

日記&ザ・コルベッツ

某月某日
マック・デマルコの前座を務める。ファンとして誠に光栄なことだ。
ステージから見たところ半分以上が外国のお客さんで、みなさんそれぞれ気ままに踊っていたので楽しかった。こういうことをいうと「え?ライブって絶対踊らなきゃいけないんですか」と思う人もいるだろう。別に踊ろうが踊らまいがどちらでも良いと思う。ただし、踊ってるほうが可愛いし、踊らせてるほうが可愛いよということだけは間違いない。
マック・デマルコのライブをステージ脇から聴いていたが中音の音が絶品だった。そもそも音が出てくるタイミングが我々とは全く異なるように感じられた。そして音にスピード感がある。また出てきた音も体全体に心地よく共鳴するところがあった。
この中音には非常にショックを受け、それ以来中音を意識するようになったが、全然理想通りにならずただただ違和感が積もっていくだけだから悲しい。
外タレの音を良くいうと「え?逆に日本人の音ってそんなに駄目なんですか?」と感じる人がいるかもしれない。それに関しては駄目な人もいるし駄目じゃない人もいるとしか言いようがない。スネークマンショーではないが。単純に聴いていて気持ちが良いと感じる音を追求したいだけの話で、本物ないし原典がどうのといったことはすこぶるどうでもよく、欧米に追従せねばならぬと考えているわけではないことははっきりさせておきたい。同時に欧米に追従することを悪いことだとは思わないし、頑なに欧米に追従しないことを良いことだとも思わない。
アジアンカンフージェネレーションの後藤さんのつぶやきに端を発する「日本人と低音問題」は結局なんだかよくわからない日本文化論になってしまった。アジアンの後藤さんは件のツイートで「日本」という単語を使わなかったが、拡散するうちに自然と「日本人と低音」というテーマになっていった。
日本文化論のようなものはすべて信用ならないと疑ってかかって良いだろう。ただの印象論に過ぎない話も主語に「日本人」を持ってくるとなんだかもっともらしくなるから警戒が必要である。
日本人は元々農耕民族だから裏拍が弱いというようなことを度々耳にするが、だからなんなんだとしか言いようがない。こういったプラクティカルのプの字もない戯言は速やかにスワイプして消すのが吉。
自分にとって「日本ってすごい!」といったコンテンツも「だから日本はしょぼいのだ」というコンテンツもどちらも等しくどうでも良し。なぜなら国を内面化していないから。なんてことを自分で言うのは簡単だが結局自覚がないだけで内面化している部分も確実にあるだろう。通りで「おい日本人!」という声が聞こえてきたらついつい振り向いてしまいそうだ。日本人であることに間違いないのだから当たり前か。日本人であることに間違いはないものの、日本という国を内面化しているつもりはないし、自ら積極的に内面化するつもりもない。ついでにいうとそれが良いことなのか悪いことなのかは今のところ未知数。
話が逸れるが、友人に「愛国心って持ってる?」と聞かれて答えに窮していたら、友人が「愛国心ってよくわからないよな。郷土愛なら持ちようがあるけれど」と言ったのが印象に残っている。学生の頃、飲食店でバイトしているときに、テニサーの幹事長を務める明らかに自分なんかよりも器の大きい先輩とシフトについてメールでやりとりしていたら唐突に「もっと愛着もってやってあげてね」と言われたことがある。そういう風に見られているのかと思ったらなんだか惨めな気持ちになったし、愛着を持つかどうかは自分のハートに従えば良いと考えていたからそのように言われてショックを受けた。それ以来「愛着もってやってあげてね」とか「みんなで応援しよう」とか言われるのが心底嫌になってしまった。愛着を持つことや応援することが嫌なのではなく、そういうことを人から言われるのが嫌という話。正直そこは他人が安易に踏み込んではいけない領域だと思う。だいたい愛着を持つにしろ応援するにしろいちいちそんなことを周りに表明したりしない。「口に出して言わなきゃ思ってないのと一緒だよ!」なんてことを言ってくる輩がいれば、彼彼女のキーボードにきな粉をぶちまけたり、おばあちゃんが腰に貼ったままお風呂に入り水を吸ってブヨブヨになった湿布を家のポストに投函するなどして何かしらの気持ちを表明したいと思う。
話は日本文化論の危なっかしさに戻る。リズムがらみの文章を書くときになるべく「日本」ないし「日本人」という単語を使わないようにしている。「黒人」という言葉も使いたくない。できれば「グルーヴ」や「ノリ」も使いたくないのだが、便利だからたまに使ってしまう。
「日本」という単語を使わないからと言って当然「日本人独特のリズムのクセ」と言うほかにどうしようもないものがこの世から消えてなくなるわけではない。リハスタなどで「ザ日本人のリズムという感じがするのでもうちょっとどうにかしてほしい」というようなことを言うことがあるのだが、日本人という言葉をネガティブな意味あいで使うとやはり人は良い顔をしない。そういうおまえも日本人だろう、おまえに言われる筋合いはないということなのだろうか。
国を内面化している自覚はないものの、それでもやはり大瀧詠一が言うところの「分母分子」には自覚的でいたい。文化が交わる際のダイナミズムを感じたい。流しに長らく放置したままの食器に溜まった水が腐った臭いって嗅いだことありますか。水だろうが文化だろうが淀んだ状態がとにかくイヤ。みやぞんが言っていた「フレッシュ感がないとイヤなんですよ」という言葉に100%同意する。
リズムに関する文章を書くときに「日本」や「黒人」という言葉を使わないようにしているとは既に述べた。なにか文章を書くときにはなんとなく使わない単語リストのようなものを考えるようにしている。実際に書き出すわけではないが。
例えばトリプルファイヤーについて何か書かなくてはいけないとなったらまず「タイト」「ミニマル」「ストイック」あたりは絶対に使いたくない。あとは「グルーヴ」あたりか。
こういうことを言っていると何かを勘違いした人に捻くれ者ですねと言われそうだが、これは捻くれた根性からくるものではなく、よく流通している表現にフレッシュ感がないから使うのがイヤなだけだ。突飛なことを言えば良いということでもないが、何かレビューのようなものを読んだときにわっと驚かされたい気持ちがある。それは求めすぎというものか。我々は的を射る瞬間が見たいのであって誰かが射った的を「刺さってますね!」なんて言いながら指を差しているところが見たいわけではない。そんなところを見せられても何ひとつ面白くない。とは言っても結局何を言ったところで誰かの受け売りでしかないことには自覚的でなくてはならない。だからこそせめて自分で矢を放つぐらいのことはしたいとは思う。
人とは異なる意見を言うと「逆張り」といって揶揄する人がいる。逆張りをする人もなく、皆がうんうん頷きあっているような環境では水は淀んで腐るだけだろう。そんな環境でも慣れてしまえばその腐臭も心を落ち着かせるアロマのような役割を果たすようになるかもしれないが、とき既に遅しでもはやそこから抜け出すことは不可能。そんなのはフレッシュ感がないから絶対にイヤだ。
https://www.youtube.com/watch?v=IDzl21jHavg