おれはデジタル・ミニマリスト、そして凡人

Twitterのアカウントを作成したのはちょうど10年前のこと。当初は「部誌」の延長の感覚で運用していた。部誌とはサークルの部室に置かれたノートで、サークル員たちが近況や長々しい愚痴、ちょっとした思いつきやくだらない落書きなどを好き好きに書き込んでいくものである。私が所属していたサークルは少人数のところだったから、授業の合間に部室に行っても誰もいないことがままあった。部誌を手に取ると「久しぶりに来たけど誰もいないんで帰ります」なんてことが書かれており、入れ違いでその人と会えなかったことがわかったりして、なかなか趣深いところがあった。
当方にとってTwitterは愚にもつかない独り言をつぶやく場であり、友人・知人の近況を知る場でもあると同時に、趣味の情報を得るための場所でもあった。しかし、この10年間でTwitterというもののあり方は変容した。面倒なのでどのように変容したのかということはここでは省く。(個人的な概観としては「TL実況」とでも呼ぶべき使い方をする人をフォローするようになってからTwitterというものが自分の中で大きな変化したように思う。「TL実況」とは、とりとめのない独り言、大喜利、あるいは告知や営業報告ではなく、何か時事ネタのようなものに対してコメントする、もしくはそのコメントに対してコメントする、あるいは皆が何かにコメントしている状況に対してコメントするというようなものをイメージしてもらえたらと思う。ある人にとってそれは、はてなブログのコメント欄の延長、また別の人にとっては2ちゃんねるの延長だったのかもしれない。実際、自分も最近までTL実況のような使い方をしていた。小学生の頃に誰かがゲームのソフトなんかを入手すると、他の者が羨ましがってそれを欲しがるわけだが、その様子を見ているうちに自分もなんだか欲しくなってくるという状況に似たものがTL実況にはあった。つまり、自分も時事ネタに対してクリティカルなことを言ってプロップスを得たい、Twitterの名士として認識されたいという欲求がむくりと立ち昇ってくるのだ。こんなことを言うと「彼彼女らは素直な気持ちでその事象に対する考えを述べてるだけであって、決してその時々の問題を自己顕示の種として扱っているわけではない」と言う人がいるかもしない。事実そのとおりなのだろう。そこに野心がうっすらと見て取れる場合もないわけではないのだが、それはこちらの眼差しが腐っているからそう見えてしまうだけである。いわゆる下衆の勘繰りというものだ。下心を見透かそうと試みがちなニヒリスティックな態度とは距離を置こうと心がけている。Twitterの名士云々という話はあくまで個人の下品で俗っぽい欲望の話に過ぎない。そうした自分の俗っぽさに心の底から辟易するというただそれだけの話。余談だが、Twitterでは政治的あるいは社会的な事柄には触れずに「おもしろ」に徹しろというような意見もたまに目にするが全く首肯しかねる。さらに余談だが、一部アカウントの何でもネタとして消費するサブカルの駄目なところを煮詰めたような態度には反吐が出る。)
とにかくTwitterをやっていてストレスを感じることが多くなったのだ。独善的な意見を露悪的なトーンで撒き散らしているアカウントを見れば唾を吐きかけたくなるし、厚顔無恥などこぞの馬の骨が専門家に対して講釈を垂れる場面に遭遇すれば虫唾が走るし、誰かが何かに対して苦言を呈していれば自分への当てつけにも感じられるし、エゴサーチをすれば陰口を叩くためだけに作ったような誰かの裏アカが残した心無いツイートを発見して落ち込むし、何かを呟けば「またウケ狙いして滑っているが恥ずかしくないのか」という幻聴が耳から離れなくなるし、TLを開けば四六時中入れ代わり立ち代わりカリスマ的な人物が称賛を集めているものの自分がその座に着く日は一向にやって来ないので惨めな気分になるし、いかにも狡猾そうな鼻持ちならない嫌味な人間が社会的に成功を収めていく過程を逐一見せられれば焦燥感が湧いてくるし、なんとなくムカムカして意地悪なことを呟けばおっかない人を誤射してしまい肝を冷やすようなエアリプをいただいてしまうし、著名人が舌戦を繰り広げているのを野次馬根性で観戦すれば段々とこちらの心が荒んでくるし、かつて自分がツイートしたものと似たような内容のツイートが耳目を集めたりしていれば結局地獄の沙汰はキャラ次第か、どうせ俺はポップじゃないよと投げやりな気分に取り憑かれるし、素性は知らぬがなんとなく仕事ができそうな雰囲気を漂わす人物が「俺っちは全然Twitter楽しんでますケド」みたいなことを呟いているのを目にすれば「マ、心に余裕の無い人間は楽しめないでしょうナ。ハハッ」とでも言われているような気がして口惜しいし、Twitterなどやっていて良かったと思えることなどもはや何一つとしてないのだが、暇さえ見つければついついスマホでアプリを開いてしまう。その度に「ほら、Twitterなんてやっぱりろくなもんじゃないんだよな」などと言い(ろくでもないのはTwitterではなくお前の心だよと言われば返す言葉はないのだが)、絶望の体裁を取った安堵にも似た感情を抱くようにすらなっており、これはもう末期も末期だろうと思い、思い切ってスマホからTwitterのアプリを削除した。ついでに何かヒントになるだろうと思って『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』のKindle版を購入して読んでみた。Kindle版にした理由はTwitterに変わる手慰みになると思ったからだ。実際の書籍の場合、鞄からを取り出す煩わしさがあるから、もはや習慣と化したポケットからスマホを取り出す動作の手軽さの前ではやや心許ない。しかし、スマホで同じものが読めるのであればページを開くまでのハードルは下がる。
この本はいわゆる自己啓発に類する内容と言って差し支えない。SNSよりももっと身近な人たちとの触れ合いを大事にしましょうというような説教臭いところがあり、途中で読むのをやめてしまったが、所々勉強になるところがあった。それは、なぜSNSがなかなかやめられないかという箇所だ。そこでは「SNSはスロットマシーンである」という誰かの発言が引かれていた。SNSではなくスマホだったかもしれない。何にせよ、その言葉を拡大解釈して、SNSをギャンブルのように捉えていたことに気がついた。以下、本来のニュアンスとはかけ離れた拡大解釈に過ぎないので悪しからず。
既に述べたようにTwitterにはストレスの種が多い。これを心のマイナスに捉え、マイナスをどうにかしてTwitter内で取り返そうとしているのではないか。ただし、何を以てプラスとしているのか自分でもよくわからない。ウケ狙いのツイートが首尾良くウケたらプラスなのか。しかし、やっとのことでひねり出したユーモアに100のいいねでお墨付きをもらったところで、世の中には「おはよう!今日もいい天気!」とつぶやくだけで何千ものいいねを受け取るセレブもいる。そう考えれば己のいじましさが惨めにも思え、結局はマイナスであるようにも感じる。
もしくは、当方の陰口を叩いていた人物から突然「鳥居さま 先日、私は調子に乗ってあなたが読んだら嫌な気持ちになるであろうあてこすりをツイートしてしまいました。今では自分の軽率さにただ恥じ入るばかりでございます。このDMは250度を超す鉄板の上で土下座しながら書いております。どうかお許しください。」というようなDMが送られてきたらプラスとして換算できるかもしれないが、そんな日がやってくることは永遠にないだろう。ただ、頭ではそのように理解しているつもりでも、心のどこかでそれに類することが起きないか期待をしている自分もいる。嵩みに嵩んだマイナスをプラスにもっていくような出来事が起きはしまいか。どうにかしてマイナスを埋めようとじたばたしてみるのだが、結局プラスとして換算すべき事柄が茫洋としているから何があろうとプラスとして加算されるこはなく、ただマイナスが増え続けるばかりだ。そうであれば、一発逆転を目論む負け癖のついたギャンブラーのような思考は金輪際控えることにして、Twitterを開かないようにしようと考えた次第だ。
他にもSNS依存から脱したい理由はある。本が読めなくなったのだ。以前は移動中や飲食店に入って食事が運ばれるのを待っているときなど、わりかし読書して過ごすことが多かった。取り留めのないTLを眺めることよりも、読書のほうが我々人間にとって高次元の営みなのかどうかはわからないが、少なくとも読書をしているときは気分が良い。読書は煩わしい現実からしばしの逃避にもなるし、他人の言葉を追う過程で硬直した視点がほぐれ、現実が読む前とは異なる色彩を持つようにもなったりする。一方でTwitterは野卑でしみったれた現実の輪郭を濃くするようなところがある。タフな人であればヘミングウェイさながら戦う価値があると感じるのかもしれないが、へたれの一人っ子の自分にとってはそれが疎ましく思えてしまう。念の為に補足すると、どんな本を読むか、またはどんな人をフォローするかによって状況は異なるから一概に読書とTwitterを比較できないことは重々承知している。
「デジタル・ミニマリスト」をほっぽりだして手にしたのは町田康の『しらふで生きる 大酒飲みの決断』だった。町田康は二十歳前後の頃によく読んだ作家なので読書の再入門にはちょうど良いのではないかと思ったのだ。お酒を飲むのは好きでも、とくに大酒飲みというわけでもないのだが、最新のエッセイということでなんとなく読むことにした。長年毎日欠かさずアルコールを摂取してきた町田康がある日を境に酒を断つのだが、その理由について説明するというよりは、自分でも判然としないその理由を考えてくというのが導入部だ。また、我々が酒を飲む理由についても書かれており、そここそが個人的に最もぐっときた箇所だ。当方なりに要約すると以下のようになる。
例えば仕事など日中の煩わしさによって、我々は人生を楽しむ権利を不当に損なわれており、その権利を取り戻すために夜になれば酩酊して楽しく過ごそうとするわけだが、そもそもそんな権利を我々は有してはいない。幸福を追求する権利はあれども幸福になる権利は与えられていないのだ。人生とは苦しいものだ。自分の人生が楽しいものになって当然だと考えるのはあまりにも不遜ではないか。そうした自惚れこそが苦しみの元凶であろう。
この稚拙な要約では『しらふで生きる』の楽しさはまるで伝わらないだろうから実際に手にとって読まれることを願う。それはさておき、ともかくこうした考え方に目が覚めるような思いがしたのだ。Twitterが苦々しく感じられる原因も8割は自惚れから来るものだろう。ウケると思っていた投稿に反応がなかった場合、がっかりすることもあるが、これはどこかで自分が称賛を受けるに値する人間だと自惚れているところがあるからに違いない。端から自分で自分をクオリティの低い人間だと考えていれば、Twitterで無視されようがそれが当然のことのように思えるはずだ。事実、クオリティが低いという自覚はある。ただし、これはあくまで自らの絶対評価であることが重要で、クオリティの高い人物と比較して自分のクオリティが低いと感じてしまえば、確実に心は死ぬ。他人と比べることが苦しみの始まりなのだ。休日に家でしこしこ作業していて気晴らしにInstagramを開くとイベントなどで羽目を外して楽しそうにしている知人の投稿を目にしたときなど、なんだか損したような気分になることがある。他人と自分を比べるから妬ましい感情が湧いてくるのだ。作業自体別に嫌で取り組んでいるものではない。その進展具合を誇らしく思えば良いだけの話だ。
『クィア・アイ』を観ると自信を持つことの重要さについて認識を新たにさせられる。ファブ5は必要以上に自分を卑下して人生を諦めることはないと言う。けれども自己愛に溺れよとまでは言っていない。『クィア・アイ』の新たなエピソードを観ている最中は人生にはサニーサイドがあることを思い出していくらか気持ちが上向きになるものの、日々の暮らしに直面するとなんとなく人生が仄暗いものに感じられてしまう。これはおそらく「私は私」というある種の救済をもたらすシンプルなトートロジーがいつしか「俺様は俺様。ゆえに俺様」という尊大な認識に変質するからであろう。この俺様がなぜこんなにも不遇の扱いを受けているのだ、こんなおかしなことがあって良いのかという悶々とした不全感は生活に影をもたらす。自分のことを平均以下の凡人だと認識していれば、飲食店で店員が水すら持ってこなくても、駅で肩をぶつけられても、レジで横入りされても、ヤフオクで高値更新されても、飲み会で割り勘負けしても、ネットでマウンティングされても、意地を張ったりせず、それが通常営業のように思えたりもするから気が楽だ。
以前は手に負えないシャワーヘッドのように荒ぶる自己愛を鎮めることにもっと腐心していたはずなのに、気がつけば尊大な人間になっていた。尊大さに振り回され、袋小路に陥っていたからこそ、平均以下の凡人という自己認識が枕の裏側の冷たさのような心地よさをもたらしたのだろう。町田康は酒をやめて4年で『しらふで生きる』を書いたそうだ。自分はスマホからTwitterのアプリを消してまだ一月しか経っていない。しかもアカウントは削除していないし、たまにブラウザから呟いたりもしている。やはりこの脇の甘さこそが凡人の凡人たる所以だろう。

 

2010年代に最も印象に残ったものは?

※諸般の事情により塩漬けになっていた原稿に手を加えてこちらで公開いたします。
『クィア・アイ』

2000年代も終わりに差し掛かった頃のこと。かつてヘキサゴンのドッキリ企画で、目の前で財布をなくして困っている老人に対し、上地雄輔はどんな行動を取るのかというものがあり、上地は老人にお金を貸したうえに、メモを取っておいた老人の住所宛てに新品の財布を寄贈したそうだ。当時付き合っていた彼女が上地の優しさにとても感動したと言うので「そんなのどうせ仕込みでしょ」と返したところ喧嘩に発展した。
もともと性根は腐っている方だが、多感な時期にウェッティでベタベタしたピュア風のものが世に溢れていたから、その反動で輪をかけてシニカルな性格になってしまった。今にして思えば、そうした態度を取ることは、卑劣で意地汚い心の持ち主はこの世に存在してはいけないというのか、それはそれで心が狭くないか、臭いものには蓋をすれば良いと思っているのかという異議申し立てであったような気もする。ただの言いがかりでしかないのだが、当時は今よりも輪をかけて世間知らずだったから発想が無茶苦茶なのだ。
何事もネタとしてイジる作法を身に着けたのもこの時期のこと。ある種のバラエティ番組や2ちゃんねる、サブカル的なユーモアのあり方をなんとなく内面化してしまっていたのだろう。そうした態度がクレバーかつクール、あるいはヒップだと思っていた。
ウェッティなものを小馬鹿にし、人から嘲笑われる前に人を嘲笑っていれば、心がカラッカラに干からびてしまうことは当然の帰結と言えよう。突飛な服装をしたり、パーマをかけたりしても、どうせイジられるだけだと考えると馬鹿馬鹿しくなり、お洒落をするのもやめてしまった。同様の理由でインテリアにもこだわらなくなった。かくして生活から潤いは消えていく。人を呪わば穴二つではないが、シニシズムは結局自分に対する呪いとなって返ってくる。
2010年代も終わりに差し掛かった頃のこと。ひび割れ、荒れ果てた心にモイスチャーをもたらしたのは『クィア・アイ』だった。ファブ5たちは世界にはサニー・サイドがあることを思い出させてくれた。『クィア・アイ』を観ていなかった自分を想像するとぞっとする。鉢植えの下で蠢くダンゴムシのように暮らし、人を呪い、自らも呪い続けていただろうし、自分は賢い人間なんだと思いたいがために人に意地悪なことを言う愚を繰り返していただろう。そのような愚昧な暮らしぶりは2010年代に置いていこうと思う。

 

アンケート「2019年のベストは?」

読者のみんな!あけおめ。とある企画の趣旨を間違えて書いてしまったものをこちらで公開します。2019年に公開されることを前提に書いたため、昨年というのは2018年のことです。

2019年、最も印象に残ったもの

Call of Duty®: Mobile

コメント

昨年の夏から冬にかけてスマホでのプレイが可能な無料のバトルロワイヤルゲーム『PUBG MOBILE』の中毒となり、社会性と健康的な生活、制作に充てる時間を失うことになった。11月頃から仕事が立て込んだこともあり、思い切ってアンインストールしたものの、忙しさが落ち着いた春先に出来心で再度インストールしてしまい、再び社会性と健康的な生活及び制作に充てる時間を失う羽目に。幸いなことに今年は原稿を書く機会に恵まれた。PUBGに夢中になっていては調べ物や執筆に集中できないので秋頃にやはりアンインストール。俺はもっと高みを目指すんだと決意を新たにした。そんな矢先にリリースされたのが『CoD Mobile』だ。世界で最も成功したFPSシリーズだからご存知の方も多いだろう。贔屓のゲーム実況Youtuberが紹介しており、おもしろそうだったのでついダウンロードしてしまった。フレンドとパーティーを固めて連携を取る対戦チームに蹂躙されたり、ルールを理解していない仲間に振り回されたり、口の悪いボンクラにボイスチャットで罵られたり、ストレスの種も多いのだが、逆転して僅差で勝利できたときなど、脳みそから「ハッピージュース」とでも言うべき液体が分泌され、目に映るものがすべて金色に輝いているかのような心持ちになる。その感覚をもう一度味わいたくて再度プレイしてしまうから際限がない。「ドミネで芋んなよ!おかしいだろ!B取られたじゃんよ!やだよやだよ!ほんとやだ…ほんとやだ!」と叫ぶ自分の声の大きさに驚いたりしつつ、社会性と健康的な生活、制作に充てる時間を犠牲にして夜な夜なハッピージュースを分泌させる生活はまだまだ続きそうです。

2020年はどんな年にしたいか

ゲームで遊ぶ暇を与えないほどたくさんの仕事が舞い込んでほしいです。

 

飲酒の上達・胃腸の弱り・劇薬と呼ばれる映画

告知

今から半年前に開催されたトークイベント「ファンクの庭」のために書いたテキストをnoteに公開しました。ファンクの音楽的特徴について書いています。

日記

6月から始めたダイエットがわりと順調だったので控えていた晩酌を再開したのだが、このところ飲酒がめきめきと上達しているように感じる。昔はたまに飲みすぎて二日酔いになり「もう二度と酒は飲まない」と心に誓うことが定期的にあったから、飲酒が習慣付くことはなかった。しかし、30を過ぎてコツを掴んだのか、毎日飲んでいても平気になってしまった。この一ヶ月ぐらい飲まなかった日はないと言って過言ではない。おかげで顔は浮腫むし、脳の細胞が死んでいっている気がする。少し控えねばと思うけれど、先日購入した4リットルのブラックニッカを消化してからで良いかと思う。深夜に職安通りのドンキで購入し、それを持って30分ほど歩いて帰宅した。『ジョーカー』をTOHOシネマズ新宿で観た帰りのことだ。
ホアキンがジョーカーを演じると聞いたとき、「ホアキンがそういうことするんだ~なんか意外!」と思った。『スーサイド・スクワッド』でジャレッド・レトが演じたジョーカーがとにかく不快だったので、ジョーカーのイメージを刷新してくれることを期待した。ああいう腕に覚えありというような俳優が気合を入れて演じた悪役が嫌で嫌で仕方がない。だから『ダークナイト』のジョーカーも魅力的ではあるけれど趣味ではないし、例えば紫色のコートを買ったりしてしまうほどの思い入れはない。
最初の予告編を観た印象は「良い感じ!」というもの。ただ予告編が良い感じの映画は本編がつまらなくなりがちという持論があるからあまり期待してはいけない。予告編が良い感じの映画といえば『インヒアレント・ヴァイス』。あんなにおもしろそうな予告編って他にあります?CANの”Vitamin C”が流れていてある種の「文化系」たちを殺しにかかっていたが、本編を見たら拍子抜けしてしまった。『ダークナイト・ライジング』も予告編は本当によくできていた。
ジョーカーと化したホアキンが廊下を闊歩するところをスローモーションで撮影するだなんてキメすぎじゃない?ちょっとださくない?とやや不安になった。けれどもアメリカン・ニュー・シネマ的なざらっとした感じもあったから、ドライでヘビーな口当たりになるだろうと期待もした。また、『キリング・ジョーク』的なストーリーだと予想できたので、未読だった『キリング・ジョーク』の翻訳版を購入して読んだ。期待値を下げてほしいという理由で早く否定的なレビューが登場することを願いつつ公開を待った。
件の『ジョーカー』だが、非常にスタイリッシュな演出が続きつつも、凸凹のない平面をするするするっと上滑りしていくだけでスクリーン上において特別な何かが起こるわけではない。内容は「劇薬」と呼ばれるものなのかもしれないが、映像はさらさらした水のような口当たり。懇切丁寧にすべてを説明してくれている。もうちょっと無茶してくれよと思う。キッズ向けのアメコミ映画とは対極の「リアル・ムービー」を作ってやろうという野心があるのなら。そもそもの話、こうした「リアル・ムービー」的な発想はトム・トム・クラブよりデヴィッド・バーン、ビヨンセよりソランジュ、ポールよりジョン、綾部より又吉のほうが偉いと思っているようなまったくもって気の合わなさそうな輩を連想させ、なんとなく苦々しく思ってしまうのだが。
『ジョーカー』を観て一番に連想した映画は『ラ・ラ・ランド』。内容のわりに画面には生気がないし、過去の映画の引用も「リアル・ムービー」を制作しているというアリバイ工作程度にしか機能していない気もするし、ストーリーは独り善がりだし、誰かが無茶したというような痕跡が残されていない。全体的に「映画風の映画」というトーンがみなぎっていて、この映画が映画としての体面を保つための辻褄合わせに付き合わされているような気持ちになったため、15分ぐらいしたところで早く終わってくれないかなあと思うようになった。今にして思えば、この映画はリアル・ムービーの体で撮られた極めてシンプルなつくりの痛快娯楽作品なのだと頭を切り替えることができればもう少し楽しめたはずだ。宣伝などによるミスリードにひっかかった自分が悪かった。「MCUなんかとは一緒にしないでもらえるかな」とでも言いたげな監督の素振りは前フリで、観客の我々は「いやいやいや!」と笑って指摘してあげるのが粋だったのかもしれない。
『ジョーカー』で厄介なのが、誰が観たってわかるような演出を積み上げた挙げ句、『ダークナイト』的なトリックスター然としたジョーカーが素顔で現れて「バカどもを焚きつけてやったよ」とほくそ笑んでいると解釈できないこともないというようなメタっぽい終わり方をしているところだ。ここでいうバカどもとは観客のことだ。こうしたやり口はしゃらくさいのであまり好きではない。やはり汗かいて地べたを這いつくばっているような泥臭い映画のほうが好きだ。不穏な音楽がずっと流れていたのもうるさく感じてしまい、集中を削がれた。音楽によって常に緊張を強いられるからかえって緊張を意識しなくなってしまった。あのやかましい音楽は画面に緊張感がないことを逆説的に強調してしまっている。登場人物が皆一様にアーサーに意地悪する点は、なんて律儀な登場人物たちなんだろうと思ったし、茶番じみていてちょっとおもしろかったかもしれない。
『ジョーカー』は概ね好評なのだろうが、おもしろいと思った人がそうだと言いにくい空気が醸成されつつあるような気もする。というのもSNSで見られる絶賛コメントに仰々しいものが多いからだ。NIRVANAが好きだと言えば、物事をシンプルに考えるのが信条であるというような人たちからカート・コバーンに心酔する「病んだ魂」を持った痛い人間というレッテルを貼られるだろうから、なんとなく言いづらいという状況と似ている。それで言えばRadioheadも同様に好きだと言いづらいところがある。ジョーカーに関するやたらとテンションの高い感想は早速ポエムと揶揄されており、それはそれでどうなのと思うが。でも、仰々しい物言いの人たちから愛されることもひとつの才能だ。
『ジョーカー』を観た帰りに買ったブラックニッカを1.5リットルほど消化した頃、深夜に腹痛で目覚めたり、体のほてりが続いたり、お酒を飲んでいないときも赤ら顔になったりしたので、やはり晩酌を控えようと決意。飲酒のコツは掴んだかもしれないが、体がついていかないから駄目だ。

 

さみちぃのダーリン日記

昨年の夏、人に勧められてPUBG mobileというスマホのゲームを始めた。100人のプレーヤーが輸送機から戦場へと降下して、武器を現地調達し、最後の一人もしくは最後のチームになるまで殺し合う3人称のシューティングゲームだ。これが非常に面白く、まんまとドハマリしてしまった。帰宅後にスーパーで買った半額の惣菜をつまみにしてホワイトベルグを3缶ほど空けながら朝方までプレイするという生活が冬まで続いた。
「もう一回、あともう一回。こんな死にざまでは終われない。あと一回」そんなことを繰り返して寝不足になる。プレイ中の姿勢が悪いので首や肩が痛くなる。眼精疲労から頭が痛くなる。他のことが手につかなくなる。駅のホームでプレイしていて待っていた電車を見送ってしまうなどの問題が発生し、冬頃から仕事が重なり忙しくなったこともあり、思い切ってアンインストールした。しばらく禁断症状に苛まれたが、仕事に没頭することでなんとかやり過ごすことができた。
春先、忙しさから解放されて急に暇になったのでつい出来心でPUBGを再開してしまった。PUBGに関する調べ物をするうちにYouTubeのPUBG実況動画に行き着き、れいしー、まがれつ、ぽんすけといったPUBG関連の動画をアップしているYouTuberの存在を知り、ますますPUBGの沼に絡め取られてしまうことになった。小学生の頃から「夜もヒッパレ」という日テレで放映されていた番組に対し、芸能人のカラオケなんか見て何が面白いというのか、ふざけるなと思っていたような人間なので、ゲーム実況も同様に、馬の骨がゲームをやるところなんて見たって面白いわけがないだろうと決めつけていたが、これが大変面白くて毎日見るようになった。この時期に思い切ってiPadも購入。アジアサーバーではあるもののランクを上げて「エース」の称号を手に入れた。
そうこうするうちに、寝不足、他のことが手につかなくなるなどの問題が再発。せっかく始まった連載のための準備が後回しになりがちで、これはさすがにまずいと思って再度アンインストールした。この1年半で10キロぐらい太ったこともあって、生活全般を見直す時期が来ていた。PUBGをやめてダイエットも開始した。
ある程度は予想ができていたことだが、PUBGが占めていたスペースに入り込んできたのはやはりSNS、特にTwitterであった。Twitterをダラダラ眺めているぐらいならPUBGをやっていたほうが何倍も良いとは思うものの、物事をほどほどにしておくということができない性格なので、PUBGに手をつけるわけにはいかない。
学生の頃、週に一度、原宿にある飲食店でアルバイトをしていた。原宿といえば、我々がイメージする通り、オシャレをした若者たちが闊歩する街だ。気合を入れてめかしこんだ人物がガードレールに腰掛けてストリートスナップの撮影班に声をかけられるのを待っているところもよく目にした。
原宿には人を自意識過剰にさせる雰囲気が漂っている。元々オシャレに興味がないわけではなく、中高生の頃からSmartやBoon、MEN’S NON-NOを読んでいたクチで、少なからずオシャレになりたいという願望があったから、原宿に行く度に芋っぽい風体をした自分がなんだか情けなくなった。
現在はどうなのか不明だが、当時の原宿という場所は非常にコンペティティブな空間だったと記憶している。そこではオシャレというゲームが行われており、人はそのゲームに参加するためにそこに集まっているように思えた。なまじっかオシャレになりたいという願望があるから、そうした空気に当てられてゲームに参加したつもりなどないにも関わらず、敗北感を味わう羽目になる。そもそも自分の場合、コンペティションに勝利する類のオシャレではなく、もっとコンサバであまり目立たないオシャレがしたいと考えているのだから、そんなゲームはこの世に存在しないと考えてしまっても良いはずなのに、心のどこかでつい意識してしまっている。他人の視線を内面化し、自分の選択を常に疑うことが癖になってしまう。他人の視線を内面化すると云えども、自分の価値観の枠内で、閉じた円環状の回路をただぐるぐる回っているにすぎない。一旦自分を括弧に入れて他人のセンスをシミュレートしたものではないからだ。
負け犬根性が抜けない人間はコンペティティブな場に近づかないのが吉。ゆえにTwitterにも近づかないほうが良いのだが、やはりついつい見てしまう。Twitterを見ていると、その雰囲気に当てられて、面白いことやクリティカルなことを呟いてプロップスを集め、人気者になりたいという願望をあたかも始めから抱いていたかのような心持ちになり、次第にその願望と実際のギャップに心がもやもやしてくるというのがお決まりのパターンだ。
モテたことを人から自慢されるとなんだか悔しくなるのと似た話だといえよう。誰かの浮ついた話を聞いているうちに、はじめから自分もモテたいという願望があったかのような錯覚に陥るが、果たして実際そうなのか。なにかの本でこんなジョークを読んだ記憶がある。男が太平洋上で飛行機の墜落事故に遭い無人島に漂着する。無人島にはなんとあのマドンナも漂着していた。二人は男女の仲になるが、男はマドンナにあることを懇願する。それはマドンナに男装してもらうことだった。困惑しつつも男の願いを受け入れたマドンナに彼はこんなことを言った。「聞いてくれ!俺はマドンナと寝たことがあるんだ!」
欲望の三角形ではないが、我々は他人が欲するものを欲してしまうのだ。けれども、自分の欲望が他人の欲望に振り回されていると考えるとなんだか気持ちが悪い。有名人とのツーショットをInstagramにアップしたり、様々な女性と関係を持ち、そのことを男友達に自慢したり、インフルエンサーから好意的な評価を受けたりしたいのだろうか、自分という人間は。どこまで自分の欲望でどこから他人の欲望なのか。その境界をはっきりさせようという企てはきっと徒労に終わるであろう。そんなものを考えたって答えがでるわけがない。でるわけがないのだから、こちらで好き勝手に言い張ったってなんの問題もなかろう。
非リアや非モテという言葉がある。生において、リア充であること、モテることのプライオリティが決して高いとはいえない人間であっても、そのようにカテゴライズされてしまうことがある。我々は、非リア、非モテという立場を受け入れ、そのうえで様々な創意工夫をし、それなりに楽しい生活を追求しがちなのだが、これではただの良いカモだ。参加者が多ければ多いほど勝者の取り分は多くなるから、そのゲームにおいてより多く得をしたいと考える者は、表立って強制はしないものの、我々が知らず識らずのうちにそのゲームに参加するように差し向ける。これはリボ払いが初期設定になっているクレジットカードのようなもので、非常に質が悪い。
我々が生きていくうえで、リア充であること、モテることなど自分には一切関係の事柄として無視したって何も問題ないのだから、そんなゲームには参加しないという手段だってある。はなから参加していないのだから、勝ちも負けも関係がない。それは不戦敗でもなんでもない。「本当はモテたいんでしょ?」などと尋ねてくる輩がいれば、「あなたがそうだと思うんならそうなんじゃないんですかぁ?」と返せば良い。とてつもなく大きな声で。
元々著作物などを通じてリスペクトしていた人物が、人気者たちの輪に入ることができず、SNSで人気者たちにしつこく言いがかりをつけて自らの評判を落としている様を見ると明日は我が身ではないかと心配になる。チヤホヤされたいのならチヤホヤしてもらえるようにチャームを振りまけば良いのだがそれができない。自分が参加していない飲み会で誰も自分のことを話題にしなかったことについて憤慨するようなもので傍から見れば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないのだが、そういう痛々しい大人の痛々しい姿を目の当たりにすると他人事とは思えず、なんとなく憐れんでしまう。『ボージャック・ホースマン』だとか『ロシアン・ドール』、最近の例だと『アンダン』のような、憎まれ口ばかり叩いて人から愛想を尽かれてしまう主人公たちに感情移入してしまうのに近い感覚といえようか。
YouTuberなんてさらりと「良かったらチャンネル登録と高評価、お願いしますー」と言うからなんて爽やかなんだろうと思う。欲望のいなし方がスマートだ。彼らがフレッシュなレモンだとするとこちらは熟れ過ぎてドロドロになった柿だと言える。もはや形をなしていない。周りの液状化した柿と混ざり合い、一部は容器のダンボールに吸われてしまった。今更どうすることもできない。

 

バイブスが死んじゃった

毎年春から夏前にかけて気持ちが晴れない日々を過ごすのが定番となっている。体調は悪くないが、脳みそが皮脂のようにベタベタする膜で覆われているような感じがして頭がすこぶる冴えない。気晴らしに何かしたところで、気の抜けたぬるいコーラを飲んだときのような心持ちにしかならない。さらに、物理的に脳みそが圧迫されているような感じがする。頭蓋骨と脳みその間にある空気が膨張しているような感じといえばよいか。

昨年のこの時期に書いた日記を読み返してみたところ、やはりバイブスが死んでいる状態だった。いつもそんな調子だし、「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」という至言のとおり、物事に一生懸命取り組んだことの反動だと思っているので、あまり深刻になることはないが、それでもやはり暮らしていてつまらないといえばつまらない。

「はいはい、いつものあれね。」などと言い、ただの気分の問題としてやり過ごすこともできようが、それはそれで癪だ。因果関係を明らかにすることは難しいものの、バイブスが死ぬようなことが現に起きているではないか。バイブスを殺しにかかる諸問題に対策を講ずることなく、暗雲が過ぎ去り、陽が差すのを待っていればいいのか。そんな調子では無力感が増すばかりではないか。

とは言うものの、頭が冴えないので今は何をしたって無駄である。唯一できることといえば、積極的にやる気をなくしていくことぐらいだ。やる気というか何かに期待する気持ちをなくすといったほうが近いか。冷静になって考えてみると、何かに期待してがっかりするというルーティンに一抹の安らぎを感じてしまっているような気がしないでもない。例えば「揚げたての天ぷらは美味しい」「労働の後のビールは格別」「新垣結衣はやっぱり可愛い」というような世の理と、「何かに期待すると必ずがっかりする羽目になる」ということは同種のもので、それを反復することでままならない世の中にあっても、変わらないこと、または変わらないものがあるという事実が確認できるし、それは我々の心に平穏をもたらすであろう。けれども、がっかりしてばかりいると心が死ぬ。だからこの腐ったループから抜け出さなければならない。そのために何かに期待するのをまずやめてみようという算段だ。

実際にやる気をなくしてみてびっくりすることは、自分がやる気を出そうがなくそうが、現実とでも呼ぶべきものはそんなことを全く意に介さないということ。一度自走するシステムを作ってしまうとそれを止めることは難しい。自分、もしくは自分たちの意志で始めた何かを続けているうちに、人格を離れた新たな何かへと変容し、気がついたら主従関係が逆転しているというのはよくある話だ。例えるのならいまだにエイプリル・フールのおもしろ企画に取り組んで滑っている企業のようなもの。「いやぁ、おもしろいことしたいっすねえ」という一片の羞恥心もない一言からはじまった企画を惰性で続けているうちに企画それ自体が自律し始め、おもしろいことをやらされている状態になり、誰もおもしろいことなど求めていないし、また誰もおもしろいことなどやりたくないにも関わらず、おもしろいことが撒き散らされる事態となってしまう。

映画『マトリックス』では機械と人間の主従関係が逆転した未来で人間は主体性を取り戻すために反乱を起こすことを企てていたが、自分の場合はやる気をなくすという行為により主体性を取り戻そうとしていたのだが、うんともすんとも言わず、無駄な抵抗にしかならなかった。

「走ってんのか、走らされてんのか。一回そこをはっきりさせたい。そのために一回ペダル漕ぐのを止めまーす」

積極的にやる気をなくすとはこういうことなのだが、ペダルから足を離しても自転車が勝手に走っているものだから泡食ったという話。そして、崖から転落。チーン。

 

マシュマロ炙ってくよ

やっほー!お店の人に「他のお客様もいらっしゃいますので…」と言われてしまったのでこっちでやることにします。回答に冴えたところがまるでなし。もう実家に帰ります。さようなら!

ご質問はこちらから

—デモを作成する時メロディはどのようにしていますか?ギターでメロディも弾いて渡すのか。鳥居さんが仮歌を入れているのか。メロディは入れず吉田さんにこんな感じと口頭で伝えているのか。気になります。

最初はトラックだけ渡してスタジオで適当に合わせてみますが、結局シンセでメロを入れるパターンが多いです。

—最近ライブでやってるトリプルファイヤーの新曲(曲名がわからないのですが、以前imaiさんがTwitterにアップしてた曲)が、曲の展開やリズムの変化が今までのトリプルファイヤーにない感じでとても気になってます。作曲に当たってのコンセプト、意識したところなどあれば教えて下さい。

トラップのように「垂直方向に細かく揺れつつもテンポ感はリラックスしている」みたいなリズムのハチロク版がやりたかったので作ったような気がします。単純にファンカデリックとかベティ・デイヴィス、カーティスっぽい曲がやりたかったっていう気持ちもありました。若干CANも意識しつつ。当たりが出るまでガチャ引き続けるみたいな作り方してるので実際のところ、意図がそこまで明確にあるわけではないです。

—ギター初心者です。上達のヒントを教えてください。

人様に何か言えるような立場ではないのですが、かつての自分に言いたいことがあるとすれば、自分が上手だと思う人がどういう音を出しているのか細かく細かく細かく聴いて聴いて聴きまくって耳を鍛えてから練習したほうがいいよということです。のび太の名言に「もう少しうまくなってから練習したほうが 」なんて言葉があります。指だけそれなりに動くけどセンスなし、みたいな状況だけは避けたいですよね。耳こそはすべて。

—鳥居さん視点で、ビートルズを「バンド」として考えた上でグルーヴを感じる曲ってありますか?

グルーヴを「リラックスしつつも躍動感のある黒人的なリズムの感覚」というふうに限定せずにいえば、”You Can’t Do That”のドスの利いたリズムが好きです。”Hey Jude”とか”Let It Be”のリズムも良い。さすが名曲。”And Your Bird Can Sing”とか”Nowhere Man”の軽快なグルーヴも好きです。”I Want You”の重たさも良いですね。

—メディアで見る限り言葉を選んでゆっくり話す方だなという印象です。普段から一言一言気を付けて喋っていますか? 余談ですが細野晴臣さんの話し声や話し方が好きです。YMO御三方とも色気がありますが、たまたまラジオで聞いたプロデューサーの村井邦彦さんも素敵でポ〜っとなって氏の本を購入しました。声の魅力おそるべし。

口下手なので言葉がスラスラ出てこないんです。選んでるというより探してるってところでしょうか。細野晴臣のバリトンボイスはいいですよね。

—最近「怖いな」と感じたことはありますか?

ハンドルを握りさえすればそうでもないんですけど、車を運転することを考えると怖くて怖くてたまりません。とっとと免許返納したい。

—クラシック聴きますか?

全然聴きません。軟派な音楽ファンなのでフランスの近代音楽(フランス印象派?)にチャレンジしたこともあります。今は「あ!この曲知ってる!」みたいな有名曲を集めたコンピがあれば聴きたいです。

—鳥居さんがこれまで聞いてきたバンドの楽曲の中で、一番アウトロが長くてしつこい曲を教えてください!

全然思いつきません。カラオケで山下達郎を歌うと最後の繰り返しがくどいためにだんだん気まずくなることはあります。 サティにもアウトロがしつこくて笑える曲があったはずです。

—好きな卵料理はなんですか? 私は卵かけご飯が好きです。

半熟のゆでたまごが好きです。

—私生活で何かこだわりはありますか

一人で無と向き合う時間をなるべく確保するようにしています。

—ブレイキング・バッドは観ましたか?

観ました。まだNETFLIXなどのサービスがない頃にDVDでイッキ見しましたねえ。

—WEEZERは聴きますか?

3枚目が中2のときに出たので買って聴いて、遡りつつ『マラドロワ』まで聴いてました。『ピンカートン』は好きですが、微妙にツボから外れている感じもあります。ラモーンズがそこまで好きになれないというのと似た感覚とでも言いましょうか。

—1日だけ手伝ってくれと言われてライブを手伝いたいバンドは?海外勢で。

機材が少なそうなバンドがいいですね。あと怖くない人たちだと嬉しい。

—キスマイのメンバーだと誰推しですか??

全然わかんないです。マリウス葉はキスマイですか?

—最近読んで印象に残っている本を教えてください。

頭が終わってて最近全然読めていないです。『プリンス録音術』はおもしろかった。

—鳥居さんのブログが好きです 書籍化するとしたら帯はどなたに書いて頂きたいですか?

現実を度外視するのなら、ブルゾンちえみさんです。

—好きな力士を教えてください。(現役じゃなくても可)

これ麒麟児って答えで合ってます?

—今日Spotifyで女性アイドルのプレイリストを作っていたらアイドルっぽく無い人もいると言われました。 Spotifyで何となく音楽を流していると本人の情報をまったく知らずに聴いているので、例えばAmber markはシンガーぽいけどアイドルと感じます。 プロデュースされてたり踊ってたりアイドルの定義はあると思いますが、そういった情報なしに音楽だけでアイドルっぽいと感じるポイントがある気がします。 Gwen Guthrieもアイドルですよね?

Gwen Guthrieをアイドルだと思ったことはないですねえ。

—ドラムやりたいです

やりましょう!

—今までギターを何本手に入れましたか?

数えてみます。ストラトのパチもん、アイバニーズのHSHレイアウトの安いギター、グラスルーツの安いレスポール、フェンダーのストラト、ギブソンのファイヤーバード、フェンジャパのテレキャス、ギブソンのメロディメイカー、エピフォンのシェラトン、グヤトーンのLG-65T。計9本。今手元にあるのが4本。

—エレキギターの魅力、メリット・デメリットがあれば教えてください

魅力は音がかっこいいところです。メリットは持ち運びできるところ。デメリットは弦の交換が必要なところ、電気系統の不良で音が出なくなるところ、ケースなどアクセサリーが野暮ったいところ、競合が多いところ、機材の知識でマウンティングしてくる人がいるところ、前時代的なダサい楽器というイメージがついているところ、何かとお金がかかるところ、ギターケースをかついで外を出歩くのが少し恥ずかしいところなどです。

—鳥居真道って鳥居さんにぴったりの素敵なお名前だとつくづく思います。鳥籠の中でひとり遊びしてるのが楽しいけど、たまにはピヨピヨとおしゃべりしたい。そして邪道なことは嫌いという感じでしょうか?

私も自分の名前はすごく気に入ってます。鳥籠の中ってことは飼われているってことですよね。誰に飼われているんだか。今~わたしの~ねが~いごとが~♪鳥居を野に放て!まつすぐな道でさみしい。

—元々トリプルファイヤーは他の3人でやっていたと聞いたのですが、鳥居さんが加入したきっかけってどのような感じだったのでしょうか

お互い知人程度の関係だった吉田くんから突然メールが届きスタジオに誘われました。ちょうど人生の雲行きが怪しくなってきた頃で、借りパクしていたロジャニコのCDを返しがてら気晴らしに参加して今に至ります。人生の雲行きが怪くなってるときにバンドを始めるって一体どういう料簡しているんでしょう。暗雲は未だに視界から消えていませんね。

—トリプルファイヤーのFIRE、最高傑作だと断言できる出来だと思います。 しかし、こういうこと御本人に言うのもどうかと思うのですが、某サイトのレビューで「音質がよくない」という意見をいくつか目にしビックリしました。 どう考えても最高にかっこいい音だと思うのですが、今やバンドのメインコンポーザーの鳥居さん的にはどうなのでしょうか?

その他の部分は置いておくとしても、ミックスに関していえばどう考えたって最高です。例えばタランティーノの『デス・プルーフ』なんてわざと映像にノイズ入れたりしてますが、音楽でもそういうことしますよって前提が共有されてないのかもしれないですね。音質はクリアならクリアなほど良いっていう価値観はワンオブゼムでしかないっていう。

—鳥居さんが音楽以外に興味あることはなんですか?

特にないです。

 

ファンキー風ロック・セッションの諸問題

「ファンキー風ロック・セッション」というものをご存知だろうか。いや、そんなものは知らない、と云う方が多いはず。なぜならこちらが勝手にそれをそう呼んでいるだけで決して一般的な名称ではないから。けれども中には「ファンキー風ロック・セッション」と聞いだけでピンと来る方もいるかと思われる。

ファンキー風ロック・セッションとは、ライブ前のサウンド・チェックやリハで突発的に発生するジャム・セッションのことで、その音楽的な内容からこのように名付けた。なぜファンキーではなくファンキー風と呼ぶのかといえば、それがファンクについてあまり理解が及んでいない「頑固なロック主義者」から見たファンクらしきものでしかないからだ。もっといえば世間一般に流布されたファンクのステレオタイプをなぞっただけの代物にすぎない。

ファンキー風ロック・セッションでは教則本に登場する「ファンク・スタイル」のフレーズをさらに戯画化したようなフレーズが演奏される。ニュー・マスター・サウンズといったイギリスのジャズ・ファンクと呼ばれるバンドが演奏しそうなフレーズを日本のバンド・ブーム以降のリズムの感覚で演奏したようなものと説明するとわかりやすいかもしれない。

ギターでいえばナインスを半音下からスライドさせつつカッティングするパターンが一般的だろう。ベースは1拍目でルートの音を出し、その後、バックビートに合わせて1オクターブ上のルートが入れられる。3、4拍目はシンコペートしたフレーズが演奏される場合が多いが、演奏者が音価、休符、サブディビジョンといったことに注意を払わないため、ただの音の連なり、言い換えれば節のようになってしまいがちだ。彼らには音を間引くという発想がないのだろうか。ドラムはNirvanaの「Smells Like Teen Spirit」をファンキー仕立てにしてみました!とでも言うような威勢の良いパターンが多い。元々ファンキーなパターンではあるが。音量はスネアやシンバル類など上半身で演奏されるものがやたら大きい一方で、キックは音量、タイミングともにぼんやりとしている。BPMは130~140ぐらい。ファンクにしては速いテンポだ。自分の演奏で他人の演奏を活かすという考え方がないためか、はたまた単純に人の演奏の聴いてないためか、アンサンブルが噛み合うことはない。それぞれのギヤが空回りしたような躍動感のやの字もない演奏になりがちだ。こうした箸にも棒にもかからないような代物に、半開きになった口、眉間の皺など陶酔に関連性がありそうな表情が添えられているから、それを目の当たりにする我々はいたたまれない気持ちになってしまう。

なぜファンキー風ロック・セッションがこれほどまでに気に食わないのか。それはファンキー風ロック・セッションに興ずる者たちがロックがロックであること、引いては自分が自分であることに自足しきったことを表すかのようにそれを演奏するからだ。決して「ダサいから」とは言わない。大人なので。

いわゆる「バンドマン」を自称する者たちが屯する界隈に出入りするようになった頃の話だが、音楽関係者に何が好きかと尋ねられたので、JBが好きだと言ったところ、「JBみたいなことがしたい?日本人に黒人のグルーヴは出せないよ」と言われて身体中の力が抜けてしまったことがある。彼にとってその言葉は、コミュニケーションのためのコミュニケーションとして放たれたもので、それっぽい誰かの受け売り以上の意味はないのだろうが、それでもやはりこうしたクリシェが口から出てしまうことに一片の羞恥心も感じないことには驚嘆するしかない。誰かの演奏をブラインドテストしてその人種を言い当てることができるほどの繊細な耳の持ち主であるのなら少しは納得する余地もあるのだが。

「当初は黒人のまねっこから始まったものの、試行錯誤を繰り返しながら、着実に進歩し、遂には黒人コンプレックスを克服し、ロックはその独自性を獲得したのである」というようなロック史観を持っている人物からすると、古いブルースやR&B、ソウルやファンクを聴くことはどうも反動的に映るらしい。非オルタナティブな人間のように扱われることもままあった。 黒人音楽など日本人にわかるはずがないからカッコつけるために無理して聴いているに違いないと決めつけてくる輩もいた。こちらとしては、 黒人だの日本人だのごちゃごちゃ言うわりは盲目的に白人の価値観を内面化しすぎではないか、そもそもそのことに自覚はあるのかと指摘したくもなったりする。

ファンキー風ロック・セッションは意外にも、というべきか、当然のことながら、というべきか迷うところではあるが、先に述べたようなロック観を持った者によって演奏される場合がほとんどだ。日本人には云々というそれっぽい誰かの受け売りや「ファンクってこうだよね。よく知らないけど」というステレオタイプで世界が構築されていることがファンキー風ロック・セッションから窺い知れる。

ファンキー風ロック・セッションはテレビのバラエティ番組的な場のあり方と類似型といえよう。 そうした場においては、 コミュニケーションの効率化のためにファンクはファンキーなキャラを与えられ、誰もが安心して聞いていられるような自己言及的なギャグを言わされ続ける。ファンクのもつ可能性、別のあり方、未知なる部分など存在しないかのごとく振る舞うことを要求される。なぜなら経済的ではないからだ。どのようなことを考えているのかよくわからない人物と話すことはそれなりに骨の折れることだから仕方がないといえば仕方がない。けれどもやはり仕方がなくはない。

「おもしろネタ消費」の力学に抗うがごとくロックがロックであることに自足しきった状況にも抗っていかなくてはならない。なぜならそれは全くフレッシュではないから。パン食い競走ではないが、届かないかもしれないという不安を懐きつつも必死にジャンプしている様に我々は感動を覚えるのではなかったか。無批判にロックがロックであることに自足し、また自分が自分であることに自足することは、ただ菓子パンを食べているようなものに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。少なくともパフォーマンスとして機能はしない。パフォーマンスとして機能するようなシチュエーションを用意しない限りは。自分が菓子パンを食べている姿すらパフォーマンス、または、当世風に言うのなら「コンテンツ」になりえると考えるのは芸能を舐めているとしか言いようがない。

忌まわしきファンキー風ロック・セッションの対極にあるといえるファンキーなロックを集めたプレイリストを作成した。題して「Funky Rock」。インターネット上でよく目にするしゃらくさい「おもしろサブカルおじさん」が自らのユーモアセンスを世に問うために行いがちな「おもしろサブカルいじり芸」に暗澹たる気持ちにさせられる昨今なので、こういう芸の無さこそ今は志向すべきではないか、という思いから 「Funky Rock」 というヤバいタイトルにした次第だ。

 

ザ・インターネット 2019

トラップをリズムの面から考察する記事を1月23日の夜に公開すると反響がありました。ありがたいことです。

知り合いの知り合いの知り合いぐらいの関係の方がブログの記事を紹介したツイートをファボなしリツイートしていたので、嫌な予感を抱きつつ、ついついその方のつぶやきを読んでしまいました。案の定エアリプで記事の内容に関して批判的なことを書いており、それが想像以上に堪えて、金曜日に友達と喧嘩してしまった小学生のように暗い気持ちでこの土日を過ごすことになりました。インターネットを利用するのならタフでなければならないという基本的な原則を思い出させてくれる出来事でした。

最近は2000年代初期のようにブラクラを喰らったり架空請求されたり匿名の掲示板やチャットで突然「死ね」と言われたりといったこともないので、インターネットが決してピースフルな空間ではないという事実をすっかり忘れていました。そもそも自分もネット上での誰かの言動を腐したり揶揄したりするなど、ネット弁慶的な振る舞いをしがちなのでどの口が言うのかという話なのですが。批判されること自体は何の問題もないし、むしろ良いことであるとすら思いますが、インターネット19年目にしてまだまだナイーブだった自分に情けなくなった次第であります。

そんなことがあったので、なるほど、2ちゃんねらー(5ちゃんねらー?)的なニヒリスティックな振る舞いはジャングルのように苛烈な環境のインターネットにおいて自分の身を守るために洗練されていったものなのだなあと改めて考えざるを得ませんでした。批判を受けたときに2ちゃんねらーのように振る舞えば少しは気が晴れるだろうと感じました。以下、先のブログの件とはあまり関係のない話になります。念のため。

2ちゃんねるなど所詮便所の落書きに過ぎないというコンセンサスが利用者の間で取れており、普段の生活圏で同じようなことを言ったら白眼視されるという認識があるうちは良いのですが、2ちゃんねらー的ニヒリスティックな態度は 一般の生活空間においてもそれなりに汎用性があるために、それを内面化したのちに、2ちゃん的な価値観に則した言動を取ってしまいがちだから厄介です。ストレスを感じたときなど、防衛反応としてついつい2ちゃんねらー的な態度を取ってしまうことがあります。例えば自分が愛着を持っているものに自分よりももっと詳しい人が現れたときなど。

私は自分で自分のことを音楽に詳しい人だとは思っていません。なぜなら幸運なことに自分など相手にならないほど音楽に造詣が深い人をたくさん知っているから。とは言えども、それなりに明るいといえば明るい。 まったくもって詳しくないと言い張れば嫌味になってしまうほどには。だから思わぬ攻撃をされることが度々ありました。「権威主義」だとか「詳しい自分に酔っているだけ」だとか。こういうことを言う人物が決まって2ちゃんねるのまとめブログのことを頻繁に話題にしていたことが印象に残っています。

スマートな人に対して一見意地が悪いような印象を抱いてしまうことはよくあると思います。ただし、意地悪だからといって決して頭が良いというわけではない。意地悪な馬鹿は短絡的なのでそこを履き違えがちです。 そんな適当な話がまかり通ってたまるものか。 意地悪な馬鹿は便利な言葉を覚えると馬鹿の一つ覚えでそれを使って何か言ったような気になっている場合が多いです。いわゆる紋切り型表現です。例えば「権威主義」だとか「詳しい自分に酔っているだけ」だとか「〇〇に親でも殺されたのかな?」だとか「△△とかいう自称○○」だとか「一部の意識高い人が騒いでるだけ」だとか「『耳の早い音楽ファンの間で流行ってます』みたいなリスナーの自意識の拠り所になってる感じの人たち」だとか。こうなってくるとAIのほうがまだ気の利いたことを言ってくれそうなものです。意地悪な馬鹿、性格の悪い馬鹿、恐るるに足らずであります。

2ちゃんねらー的ニヒリズムは我々から気力を奪い、お馴染みの定型文を繰り返してただ単に現状追認しているだけのものぐさで安っぽい皮肉屋を増やすことになったと言って過言ではないでしょう。ニヒリズムは誰だって扱えるような代物なのですが、それを使うことによりなんだか賢そうに振る舞えるのでルサンチマンを抱えたものぐさなレイト・ティーンズは必ず飛びつきます。かつての私もそうです。そういう経験もあるので、失礼な話ですけど、三十を過ぎたというのに未だ2ちゃんねる的なニヒリズムを後生大事にしている人物を見ると、アッ!愚か者だぁ!と思ってしまいます。馬鹿が伝染るので一定の距離は保っておきたい。こうした手合を相手にしていると時間を持って行かれるし、生きていく活力を奪われるだけです。

彼らが対象を揶揄したり腐したりできるのは自分は何もしていない、またはしていることを明かしていないという前提があるからです。人のやることを何でもネタ的にイジって散々小馬鹿する一方で、自分のやっていることはネタではなく良心に従ったマジ中のマジなもの、ピュア中のピュアなものであると信じることはあまりにも虫が良すぎます。2ちゃんねらー的態度と矢面に立って本気になって何かをすることは必ずコンフリクトを起こします。そのコンフリクトに対してあまりにも鈍感だから彼らは愚か者なのでしょう。

我々が大好きであるところの映画『ダークナイト』に登場する我々が大好きであるところのあのトリックスター、ジョーカーが万が一釈明とともに命乞いを始めた日には我々は大いにがっかりさせられるでしょう。他人を散々小馬鹿にしたり煽ったりした者が、逆の立場に立たされたときに狼狽える姿はあまりにも惨めです。ジョーカーの魅力はその大胆さにあります。それは自戒を込めたり、折を見て自虐ネタを挟むなどして人から嫌われないように予防線を張ったりしないからこそ輝くものです。彼の取り組みはネット上のユーモアセンスに恵まれた小市民のようにみみっちいものではありません。ネット上でジョーカーのように振る舞いたくて失敗した人たちのせいでジョーカーという存在それ自体がダサいものになりつつありますがジョーカー本人に罪はないはずです。

2ちゃんねる的なニヒリズムは平成の負の遺産として次の年号に持ち越されるでしょうが、今後も若い世代から「ネットでイキっている惨めなおっさん」「サブカルをこじらせたおっさん」として石を投げられ続けることは火を見るよりも明らかです。自分の知性の欠如を棚に上げて、大した努力もせずに、努力する人を見下し、嘲笑い、賢しらな態度を取り続けていたのだから道理にかなったことです。彼らに比べたら肚の据わった老害のほうがよっぽど愛すべき存在のように思えます。

大学生の頃は毎日のようにまとめサイトを読んでいましたが、今にしてみるとただ時間をドブに捨てただけという思いです。後悔だけが残っています。そもそも悪いのは2ちゃんねるではなく、己の愚かさかなのですが。それなりに志を抱いて大学に入学したはずなのに本当にもったいないことをしてしまいました。

だから今更耳の痛い意見に対して2ちゃんねらー的な態度で身を守るなんてことは選択肢にありません。ナイーブさの裏返しで凶暴なマッチョになるなんてのも論外です。謙虚で思慮深いタフガイになるしかないと思いを新たにしました。それが人から退屈と呼ばれる類のものであったとしても。

 

高輪ゲートウェイ

先日、山手線に新たに増える駅の名称が「高輪ゲートウェイ」に決定した。ネット上では「ダサい」という声が多かった。たしかにダサい。母音が「ああああ」と続いた後に1文字目に濁点のついた横文字が来て「ウェイ」で閉じるという語感の座りの良さがとてもダサい。ちなみに一番最初に連想したのは「漫才ギャング」。
漢字二文字の後ろに横文字を持ってくるというセンスは、昭和62年生まれの我々世代には椎名林檎のイメージが強い。「無罪モラトリアム」「勝訴ストリップ」「発育ステータス」「御起立ジャポン」など。「大正デモクラシー」「大正ロマン」のような大時代的な和洋折衷の世界観を演出するために多用されたのだろう。
椎名林檎のデビューから数年経つと、国内のロックバンドの曲名などで漢字二文字と横文字というネーミングを目にする機会が増えた。椎名林檎に影響を受けたのかはよく知らない。ただ言えるのはその時点で既に椎名林檎にあったアナクロなイメージは形骸化していたということだ。ちょうどその頃は色気付いた高校生で、メジャーレーベルに所属しながらオルタナティブな音楽に取り組んでいて且つ、私大に通う垢抜けない学生っぽい見た目のドメスティックなロックバンドがあまり得意ではなかったから、彼らが多用した漢字二文字プラス横文字というネーミングにあまり良いイメージを持っていない。だからなんなんだという話ではあるが。
ところで「高輪ゲートウェイ」のダサさは漢字二文字の後ろに横文字に持ってきたことにあるわけではない。そんなことはまったくもって問題にならない。世の中には「中央フリーウェイ」というタイトルの名曲も存在する。だいたい「高輪ゲートウェイ」が山手線の駅名であるという前提を欠いたままそのダサさを品評しても仕方がない。既存の駅名と比べるとどう考えたってバランスが悪い。だから皆文句を言っているのだ。自分たちがこつこつと続けてきたパーティーに特に面識があるわけでもないダイモンジの龍谷(仮名)が突然やってきて我が物顔で「イエーイ!最高~!」なんて言おうものなら興醒めするはずだ。そういうことをするような奴だよ、高輪ゲートウェイは。ダサ坊お断り!
高輪ゲートウェイのダサさは名前そのものにあるというよりは、名前を付ける際に余計なことをしないと気が済まないケチくさい心性にある。それは、スティーブ・ヴァイのギターについている持ち手、通称「モンキー・グリップ」のようなダサさだ。よく取り沙汰される国内メーカーの自動車や家電のデザインを例にあげても良い。なぜ我々はいらぬ工夫を凝らしてしまうのか。なぜ我々はシンプルな白のコンバース・オールスターを選ぶことができないのか。なぜ大人になってもキャラクターグッズの類を身に着けてしまうのか。なぜ無地のTシャツを着ることができないのか。なぜ裾を折り返すと裏地がタータンチェックになっているズボンを履いてしまうのか。なぜ別にオシャレなんか興味ないもんみたいな顔を装いつつ悪目立ちはしたくないけれどほんの少しだけ人とは違うことがしたいという気持ちを捨てきれずに腰の引けたいじましい選択ばかりしてまうのか。
子供の頃、アーケードゲームの高得点者ランキングで「あああ」だとか「aaa」といった名前をよく目にした。SNSのアカウント名が「あ」みたいな人を見ると感動する。そうした真っ当なつまらなさを忘れてしまったか。「おもしろきこともなき世をおもしろく」を座右の銘にする人々は自分のせいでますます世の中がつまらなくなっているかもしれないとほんの少しでも考えたことがないのだろうか。「おもしろいことがやりたいんすよ~」という空疎な言葉が凡庸な業界人の口癖であることはもはや誰もが知るところだろう。
仮に我々が我々の人生の主人公であったとしても、自動的に他人が人生の脇役、ましてや人生の観客になるわけではない。人は誰かの人生を観劇するために生きるにあらず。ステージ袖で共演者のライブを観るときに、客席から見える位置に立つのはわざとだろう。友達とじゃれ合ってるふりをして「おい!おまえまじふっざけんなよ~!ほんと馬っ鹿じゃねえの~!」などと窪塚洋介のような調子で叫びながら女子のほうをチラチラ見ている男子高校生のようにみみっちい真似はもうやめるべきだ。
我々がアセンションするために必要なのは、なんとなくおもしろい感じのことをしてウケてやろうとすぐ考えてしまう精神を一切捨てることだ。気の利いた風の「おもしろ」企業アカウントの中の人のような存在を見つけたら唾を吐きかけて吐きかけて吐き続けて全身をべとべとにしてやらねばなるまい。例えこの身が干からびて朽ち果てようとも。この世界に「おもしろ」好きのサブカル糞野郎や2ちゃんねらー的な価値観を内面化したマザーファッカーどもの慰みとして存在するものなどひとつもなし。この世界を「おもしろいこと」から解放することこそが我々に課せられた唯一の使命である。
https://www.youtube.com/watch?v=5XM1C5c0oxw