【Playlist】Ultimate Party Apr 26, 2018

昨日はトリプルファイヤーPresents「アルティメットパーティー5」 にお越しいただき誠にありがとうございます。
さて、恒例の「趣味の押し売り」「音楽性の公私混同」こと開場BGMのプレイリストです。今回のテーマは「ラテン風味のR&Bおよびポップス、あるいはR&Bクラシックスとそれ以外。これらを大らかな気持ちで混ぜる」です。60年代前半にイギリスの駆け出しミュージシャン達が熱を上げ、実際に彼らのレパートリーにもなっていたアメリカ産のR&Bクラシックスのことが、私はとっても好きなんです。好きなんですけれど、ベーシックすぎて、というかベタすぎて意識せずに暮らしてしまっています。
いささか唐突ですが、飲食店に入ったときにBGMとして流れていたら嬉しい音楽のジャンルの一位が何かと申すと、それは(あまり好きな呼称ではありませんが)オールディーズです。もしかするとトリプルファイヤーのライブを観に来た人の中に同じような趣味の持ち主がいるかもしれない。開演前のフロアに足を踏み入れて「あ!(あまり好きな呼称ではないが)オールディーズだ!」と高まる人がいるかもしれない。そんな存在するのかしないのかまったくもって不明な人に向けてこれらの曲を選びました。その下敷きになっているのは第一回目の「選曲管理委員会」のプレイリストです。

選曲管理委員会 [Feb. 16, 2016]


こうしてまとめて聴いてみるとその骨格のシンプルさは昨今のトラップっぽいなんてことを思ったりもしますが、それはさすがに飛躍があるかもしれません。ニューオリンズっぽいあのピアノのコロコロコロと単音を続けて鳴らす奏法(なんて名前なんですか?)もトラップを特徴付ける808のハットの細かい刻みっぽい。なんてことも言えそうですが、あまり有機的なこじつけではないように感じます。
これはステレオタイプな聴き方かもしれませんが、音の質感が不良っぽいというかワルそうだと改めて感じました。50年ほど前の音楽ではありますが、少なくとも聴覚上においては「おじさん」っぽい音楽だとは思いません。
テーマの一部である「ラテン風味のR&Bおよびポップス」に関連しまして、「ロックもラテンのなれの果て」という細野晴臣の発言とロックの大クラシック”Louie Louie”の成り立ちをこじつけて書いた記事を紹介したいと思います。題して『Louie Louieの勉強「ルイ・ルイ・シー・クルーズ」』。「地平線の階段」へのリスペクトの心を持って書きました。もう4年も前の記事なのか。当ブログの1日あたりのPV数が一桁のときに誰に頼まれたわけでもなくこれを書いているから我ながら涙がちょちょ切れんばかりです。

Louie Louieの勉強「ルイ・ルイ・シー・クルーズ」


音楽の話を振られて答えると「ちゃんとお勉強してて偉いねえ」みたいなことを言われることが度々ありました。そういう物言いに対して意地になって書いた記憶があります。(こうした選曲も含め、自分に似た人間が後からこういう界隈にやって来たときに、心地よいと感じたり、安心できる環境を作っておきたいと思って取り組んできました。なんていうと口幅ったいし半分ぐらい後付けではありますが、そうでも思ってなきゃやってられない。)分母に豊潤さを抱えたものとしての音楽を称揚したかったのです。もちろん当該記事で書いている内容は自分の新たな発見ではなく、「”Louie Louie”ってなんかラテンぽくない?」と感じてちょっと調べてみたら元はラテン的なものだったということがわかり、その定説をまとめたものであります。お暇なときに読んでいただけると幸いです。
以下本題であるところの開場BGMのプレイリストです。

  1. These Boots Are Made For Walkin’ – Nancy Sinatra
  2. The Point – Dr. John
  3. Secret Agent Man – Mel Tormé
  4. Bond Street – Burt Bacharach
  5. Tell Him – The Exciters
  6. Give Him A Great Big Kiss – The Shangri-Las
  7. Runaway – Del Shannon
  8. (Everytime I Hear) That Mellow Saxophone – Roy Montrell
  9. What’d I Say, Pts. 1 – Ray Charles
  10. Some Other Guy – Richie Barrett
  11. Watch Your Step – Bobby Parker
  12. Susie Q – Dale Hawkins
  13. Hound Dog – Willie Mae Big Mama Thornton
  14. Walking The Dog – Rufus Thomas
  15. Ooh Poo Pah Doo (Parts 1) – Jessie Hill
  16. Don’t You Just Know It – Huey “Piano” Smith & The Clowns
  17. Land Of 1000 Dances – Chris Kenner
  18. Lipstick Traces – Benny Spellman
  19. I’m Blue – The Ikettes
  20. Down Home Girl – Alvin Robinson
  21. Daddy Rollin’ Stone – Derek Martin
  22. Shake and Fingerpop – Jr. Walker & The All Stars
  23. Uptight (Everything’s Alright) – Stevie Wonder
  24. Show Me – Joe Tex
  25. Cool Jerk – The Capitols
  26. Wack Wack – Young Holt Trio
  27. El Watusii – Ray Barretto
  28. Oye Como Va – Tito Puente
  29. El Loco – Rene Touzet
  30. Louie Louie – The Kingsmen

 

爆笑!おもしろ帝国

皆さんこんにちは!相変わらず絶望とともに目覚め、諦念とともに眠りにつく毎日を過ごしております。すべてが茶番ですけど、「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」なんて金言のとおり、機を見て燃えれば良いんです。馬鹿野郎!明日やろう!
先日、とんねるずの「みなさんのおかげでした」が最終回を迎えたそうだ。久しぶりに野猿という単語を聞いて小学生の頃にテレビで観た野猿のドッキリで大人が泣かされる姿を見て今で言うところのパワハラの恐怖みたいなものを植え付けられたことを思い出した。パワハラということでいえば、ダウンタウンも同様にして恐怖しか感じなかったし、況やたけし軍団をや。無意識にそうした集団のあり方を避けて生きてきた結果が今の自分であるように感じる。先輩から肩パンされて痛がりながらもまんざらでもない表情を浮かべる同級生もいたが、自分は絶対に肩パンなんかされたくなかった。なぜなら屈辱的だし痛そうだから。権力の行使がそのまま笑いと結びついていることに改めて恐怖を感じる春先でございます。
2010年ぐらいまではテレビのバラエティ番組が大好きでゲラゲラ笑いながら見ていたのだが最近は素直に笑えなくなってきた。単純につまらないとも言えるし、コミュニケーションの土台になっている価値観があまりにも醜悪なことも気になるし、バラエティ番組的なユーモアのあり方と今自分が身を置く環境というか日々の暮らしにおけるそれとの距離があまりにも近すぎることに違和感を覚える。
高校生になって男子のノリが突如として吉本の芸人っぽくなったときに抱く違和感に近いようなものだが、それとも少し違う気がする。テレビの「お笑い」的な価値観の影響力というか浸透力の強さに酔って気分が優れなくなった状態、なのだろうか。むしろ、バラエティ番組のほうが現実社会での我々の振る舞いを反映していると見ることもできるが、どちらにせよ問題は、そこにカメラなどないにも関わらずバラエティ番組的に振る舞ってしまう我々にあるといえる。
バラエティ番組的な振る舞いというのは、なんでもオチをつけたがったり、ツッコまずにはいられなかったり、すべらない話を披露するといったものだ。そんなことは生きていれば誰でも行う可能性を持っているし、それは我々の営みとして決して安易に否定すべきでないとは思うものの(日常生活においてツッコミほど邪魔くさいものはないと感じているが…)、バラエティ番組をデフォルメしたような形でそうした「芸」を披露されると身構えてしまう。バラエティ番組内でのみ通用するはずのルールに知らぬうちに絡め取られているような心持ちになる。そういったある種のゲームのようなものに参加したつもりなど一切ないはずなのに、気がつけば「お笑い」的な尺度に合致した形で面白く振る舞わねばならないと心のどこかで考え、実際にそのように行動してしまう。(多数の女性と関係を持つことで男性としての価値がより高まるといった言説を気づかぬうちに自明のものとしてしまうことと同様に。)我々は本当に皆が皆、過去のある時期に芸人になりうる可能性を秘めていた芸人予備軍だったのだろうか。そして、「笑い」というものは各人がそれほどまでに追求しなくてはいけない道のようなものなのだろうか。
例えば太っているとか痩せているとか頭が禿ているとか顔がブサイクであるだとか肌が汚いだとか足が短いだとか当人がネガティブに捉えている要素はユーモアにして笑い飛ばせという考えがある。そのコンセプトはわからないわけではない。けれども、それはあくまでコンプレックスとされるものをそのままコンプレックスとして抱えている側の選択肢のひとつでしかない。他人のコンプレックスに対してツッコミを入れたり、それをイジったりするなどして「笑い」へと「昇華」することに積極的に協力する側が、コンプレックスを抱えた人にそうした振る舞いを強いることに対して強烈な違和感を覚える。そういうサジェスチョンをする人物が自ら率先してそれを実践しているのかといえば相当に疑わしい。
我々はいじる・いじられるという関係が非対称であることについてあまりにも鈍感すぎないか。さらに、積極的であれ消極的であれ、鈍感でいたとしてもさしたる違和感も覚えずにすんでいる場を作りあげ、それを維持してきたことや、誰かをイジったりして笑う側に立つ際にその根拠となる足場、すなわち「我々は至って普通の人々であり、逸脱した人物を笑っても良い立場にある」といった認識を既得権として手放さずにいることにこれほどまで何も感じなくてもよいのだろうか。端的にいえば、果たして「相手の立場になって考えてみる」および「そういう自分はどうなんだろうと自己を検証してみる」という手続きを経る必要などありはしないとたやすく言い切ってしまって良いのかということだ。
以前、音楽活動に従事する人から「音楽よりお笑いのほうが偉い。なぜなら笑いのほうが人間の本質に近いから」というようなことを言われてがっくし来たし、未だに聞き捨てならないと思っているのだが、この言葉がもたらす途方もない違和感について考えを巡らせた結果、お笑いが人間の本質ではなく日本語あるいは文化、または常識といったものに軸足を置いていることに気がつくことができた。さらに音楽が好きなのは、それが日本語ではないからという理由があるからだと確信した。
ハリウッド映画を観ているときに英語を理解する人が皆と違うタイミングで笑ったりすることがある。これに対しイラっと来た人物が、そのイライラを対象に向けて「英語わかる俺カッコイイ」アピールに過ぎないと揶揄するなどして鬱憤を晴らし溜飲を下げるところを度々目にする。そんな揶揄をしたところで英語がわからないことをコンプレックスに思っていることとその人の抱えるルサンチマンを露呈することにしかならないのだが、裏を返せば、笑いというのは自分が属する、または属したいと願う文化圏を明らかにするものであるということがわかる。だから、笑いを通じて特定の文化に抱かれていることを実感し、時に安らぎを覚えることもある。一方で、このコミュニティには属していたくないという思いから誰かが冗談を言っても絶対に笑うものかと強く心に決め、そのように振る舞うこともある。人は単純におもしろいから笑い、おもしろくないから笑わないというわけではない。笑いは100%ピュアな感情の発露でも、合理的判断に基づく行為でもない。笑いは多分に政治的な側面を持っている。「笑ったら負け」という言葉にはそのような考えが反映されているように感じる。
「笑いには笑えるか笑えないかというシンプル且つ確固たる価値判断基準がある。音楽にはそこまでシビアな基準はない。ゆえに趣味や好き嫌いといった逃げ道を残している音楽はぬるい。当然、それに従事するミュージシャンもぬるい」というようなことを音楽に従事する者から言われてがっくし来たことがあった。なるほど、たしかに笑いというのはそのような価値判断基準に支えられているものかもしれない。売れているものとおもしろいものが合致した稀有なジャンルのようにも思える。しかし、よく考えてみるまでもなく決してそんなことはない。親と一緒にテレビを見ていて、自分は腹を抱えて笑っているのに、親は冷たい眼差しをブラウン管に向けているという経験はなかったか。確固たる価値判断基準とやらも影響力を及ぼす範囲には限りがある。決してそれがあらゆる文化圏を支配するほどの効力は持たない。しかし、その文化を自明のものとし、自分の立っている足場がどのように成り立っているのかを意識しなければ、それほどの効力を決して持ってはいないということに気づかないかもしれない。笑いという行為が感情の発露であることから、それが人類にとっての何か根源的なものに支えられているように感じてしまうことは至極当然のことといえる。
「理解できる人が多いから日本語よりも英語のほうが経済的に優れている」ということと同様、そのユーモアを支えている価値観が通じる範囲が広ければ広いほど経済的であるとはいえる。我々がイロモネアで仏頂面をしている人を、立ち退き反対のノボリを掲げた住宅を見つめるときと同じ眼差しで見つめてしまうのはおもに経済的な理由からである。彼らは潤滑な流通やコミュニケーションを妨げる人物として邪険に扱われがちである。
ホリエモンがかつて「稼ぐが勝ち」という本を書いていた。「笑わせるが勝ち」と考える人も多いのではなかろうか。稼ぐことも人を笑わせることも(そして、多数の女性と一夜限りの関係を持ち、その内容を男友達に吹聴して回ることも)、それを追求していく上で、ときとして倫理というものにぶち当たる。その度に我々はなぜ稼ぐのか、なぜ笑わせるのかということの根源を問う必要があるはずだが、「笑い」という営為にはどこかアンタッチャブルな雰囲気もある。「笑い」そのものが善であることが自明となっており、それについて検討することはもはや不要だと考えられている節がある。けれども、テレビを観ればわかるとおり醜悪な笑いというのは存在する。
なんでもかんでも笑いにすることが善い行いだと思えないのは、笑いというものがなかなかに狡猾で戦略的でありながらも、いかにもピュアな感情の発露であるという様子で八方に笑顔を振りまいていることに不信感を持っているからだ。ユーモアは、そのユーモアが通じる枠をさらに拡大し、その枠をより強固にするために、敵味方を峻別し、敵を殲滅せしめ、あらゆる空間を管理下に置き、その土地固有の文化を略奪せんとするシステムである、なんてことを言うつもりはさすがにないけれど、少なくとも感動が押し売りされているというのであれば、それと同じ程度、あるいはそれ以上に、笑いも押し売りされているといえはしないだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=8CJZcVi5BA4