鳥ちゃんの「ダーティーサーティー喜んで!」

6月16日に30歳になった。そんなものはとうの昔になくしたとも言えるけれど、自分の体から瑞々しさが失われているように感じる。その事実をしっかりと受け入れることがオッサンから遠ざかる一歩だと考えているから、今まで以上に身綺麗にしなくてはと三十を境にして決意を新たにした。洗濯もこまめにしなくてはいけないし、散髪の頻度も多くしなくてはならないだろう。無論、フロスにも一生懸命取り組まねばなるまい。根がものぐさだからこれらは容易なことではないが、オッサンにだけはなりたくないその一心で我慢してやっていかなくてはならない。
思うにオッサンとは、譲歩することなく自分という存在を他人に受け入れさせることを自明とする人間のことで、こういう手合は巷間でよく目にするところであるが、目にする度にこうはなりたくないと思わされる。
世間で散見するオッサンの代表格はクチャラーであろう。クチャラーの多くは動作に落ち着きがないし、股を広げて座りがちだ。おまけに貧乏揺すりをする者もいる。くしゃみにも遠慮がないし、手で口をおさえないことも多い。個人の領域を侵すこのような行為から自我が液だれを起こしていることは明らかだ。唾や痰を路上に吐き棄てるオッサンも駅で人に肩をぶつけるオッサンも同根だ。オッサンは他者に自分を受け入れさせるという関係性の中でしか生きていけない。オッサンは他人に対して常に不均衡な関係を強いる。
譲歩することなく自分を他人に受け入れさせることを自明とする存在をオッサンと呼んだが、ここでいう譲歩とはつまり、身なりを整える、清潔にするといった至って単純なことだ。身なりを整える、清潔にするといったことは自分を美しく保つための行為にあらず、それは他者の存在を受け入れ、相手を慮る行為に他ならない。
オッサンにもタカ派とハト派がいる。痰を吐いたり肩をぶつけるオッサンがタカ派だとすると、クソリプを送るオッサンはハト派のオッサンといえよう。多くの人は誰かにクソリプを飛ばすことに躊躇する。クソリプを飛ばさないという選択肢が予め用意されている。誰かにクソリプを送らないでおくという行為は相手に対して一歩引くという行為であるという点で立派な慮りである。クソリプを送らないことは常識ないし当然のマナーとされているが、当然のマナーとは慮りという積極性によって支えられているものである。そこを勘違いしたオッサンがクソリプを送るのだ。
建物の出入り口等で後からやってくる人のためにドアを押さえておくといった行為は相手に対する能動的な働きかけによって行わるマナーといえるが、反対にクソリプを送らないという行為は相手に対して何もしない言わばゼロの行為だ。ゼロの行為は往々にして見過ごされがちだが、れっきとした行為のひとつだ。しかし、オッサンはゼロの行為が行為であることを理解しようとしない。
オッサンはいつまでたっても自分のことを男子高校生だと認識している節があり、高校生の爽やかさの下に全てが受け入れてもらえると考えがちである。しかし、例えばオッサンのかいた汗はあくまでオッサンの体内から吹き出た水分であって、高校球児たちの爽やかな汗とは質がまったく異なる。傍から見ればオッサンはオッサンでしかない。世の中に美しいオッサンなど存在しない。美しいオッサンというものは矛盾した存在である。美しければあえてオッサンと呼ぶ必要もないだろう。
むしろ青春時代を無闇矢鱈と美化することがそもそものボタンの掛け違いになっているのではないか。自分が高校生だったときのことを思い返すとやはり高校生なりにベタベタしており、決してピチピチツルツルというわけでなかった。風呂に入らなければ当然臭くもなった。青春と呼ばれる美しい時代を生きたという幻想にレールを接いで生きてしまっていることが、オッサンの甘い自己認識のそもそもの原因ではなかろうか。青春とオッサンは地続きのものだ。
オッサンがオッサンたる所以は結局、「でもそんな自分が好き」という中途半端なナルシシズムをいなすことなく何となくそのままにして生きてしまっていることにある。老けていく自分を受け入れるというよりも、ベタベタと甘やかす。さらに問題なのは「でもそんな自分が好き」という思いに続いて、「みんなもきっと好きだよね、そうだよね」という発想が出てきてしまうことだ。密やかなナルシシズムに留めておけば良いものを彼らはナルシシズムを持ちこたえきれずに我々に問いかけてしまう。「みんなもきっと好きだよね、そうだよね」という根拠のない独善的な発想は十中八九拒絶される運命にある。おっさんは自分のことがかわいいのかもしれないが、おっさんがかわいい筈がない。かわいい筈がないので、当然拒絶される。そして、拒絶されたことで、その好意のような気持ちが裏返り、痰を吐くという迷惑行為となって現れる。痰を吐くことと眉を顰められることは対になっている。痰を吐くという行為は自分が受け入れられなかったことへの意趣返しだ。痰を吐くという行為は眉を顰められることによって完結する。
ここで確認しておきたいことは、あくまで30年生きた者の感想に過ぎないが、加齢それ自体は悪ではないということだ。むしろ成熟に対する憧憬は常にある。今なら”Don’t Trust Under 30″と言いたいところだ。年を取ることそれ自体はポジティブなものとして考えている。こと趣味であるところの音楽に関していえば、年々耳の感度は高くなっているし、音楽を聴く楽しさは年を取るにつれて増しているように思う。音楽と青春とを強く結び付けずにいたのが良かった。進学で上京して環境が変わり、自分を組み換えざるを得なかったのも今となっては良かったと思っている。
自分が十代の頃は「青春パンク」と呼ばれる音楽が猛威を振るっていたが、むしろそのおかげで「青春」なんぞというものは眉唾であると考えることができた。同世代の人に「青春」というものにトラウマを持つ者も多かろう。逆に今でも本当に青春が好きで好きでたまらないという人もいるが。
これは、ただの印象論でしかないが、2000年頃から我々は「青春」という円環の中に閉じ込められているのではないかと思っている。もはや青春以外の選択肢は残されていない気さえしてくる。人間らしく生きるとは青春時代を生き続けることのように言われている。
念の為にはっきりとさせておきたいことは、あくまで自分がオッサン的な存在になりたくないと主張しているだけであって、オッサン的な存在を根絶やしにしろといった話は一切していないということ。オッサンを憎んで人を憎まずとでも言おうか。オッサンがオッサンであることを選ぼうが知ったこっちゃない。クチャラーが隣に座ろうが一方的に迷惑だと感じているだけだ。クチャラー人口が増えようが減ろうがどうでも良い。オッサンが徒党を組み、数の暴力で空気を読むことを強要してきたらさすがにこれはやばいとは思うが。こちらはオッサンに対し、好き好んで不快だと感じているだけであり、何に対し不快に感じようがそのことを他人にとやかく言われる筋合いはない。というのは暴論だろうか。暴論だろう。
やはりコータローもびっくりするようなこういった主張がまかり通ると考えてしまっている時点でオッサン化は逃れられないだろう。自分に対する検証を怠たった者はオッサン化する。オッサンとは居直りの権化である。トイレが汚い。ゴミ出しもサボりがち。洗濯もまめにできていない。髭剃りも適当。そんな自分がオッサンに対して偉そうなことが言えるのか。さらに、オッサンの営みへの想像力が欠如している。人に肩をぶつけて駅のホームで唾を吐くオッサンも、深夜に帰宅して子どもの寝顔をそっと見つめることだってあろう。あぐらの窪みにちょこんと座った猫の頭を撫でることもあろう。真に恐ろしいことは想像力の欠如とそれに伴い増長すること、さらにそれを自分で止められなくなることだ。
20代前半まではやっかいな先輩という存在が増長を防ぐリミッターになっていたように思う。縦社会における先輩の理不尽さが我々の行手を阻んでいた。それは白い帽子に書かれたFUCKという4文字のような理不尽さだ。そういった理不尽さを携えた人間と対峙したときに我々は、こういう人間だけは許してはならない、そのためにはもっと賢くならなくてはいけないと強く思うだろう。だから、やっかいな先輩敵な存在を遠ざけないようにすることが肝要であるといえる。微熱少年先生が言うところの敵タナトスを想起せよ!ということか。
「男は敷居を跨げば七人の敵あり」なんてことわざがあるが、果たして自分には敵が7人もいるのだろうか。未だに敷居を跨いでいないということではなかろうか。オッサン以前の問題で、自分がモラトリアムの円環に捕らえられたお子ちゃまでしかないということが今ここで露呈した。青春とトイザらス、どちらかひとつ選べと言われたら迷わずトイザらスを選ぶ。生まれたときから玩具漬けの我々はオッサンも青春も拒否する。我々はお子ちゃまとしてトイザらス五稜郭店に逃げ込み最後まで徹底抗戦するつもりである。