ゆく鳥居くる鳥居(2021年営業報告)

所感

2016年以降、年の瀬に「ゆく鳥居くる鳥居」と題してこの一年の仕事を振り返る記事を書いている。今年で6年目。来年はもっと仕事が増えるといいなと淡い期待を寄せつつ一年の仕事をまとめてきた。そして年々仕事の幅が広がっているという手応えも実際にあった。けれども昨年から様子ががらりと変わってしまった。仕事が減ったのだ。その原因をコロナに求めるのは簡単だ。しかしコロナ禍にあっても快調に出世していく同業者たちを見れば、仕事がないのはもっぱら自分の実力不足と人気のなさに起因すると考えざるを得ない。昨年の「ゆく鳥居くる鳥居」にはそうした悲壮感が漂っている。
今年は文章を書く仕事をいただく機会が多かった。学生の頃から愛読していたレコード・コレクターズ、13才でギターを始めてからずっとお世話になっているリットー・ミュージックのベース・マガジンにまさか自分の書いた文章が掲載される日が来るとは。ローリング・ストーン・ジャパンのWEB版で連載している「モヤモヤリズム考」も3年目に突入した。これまでに31本記事を書いており、1本につき4000字程度書いているから、すべて足したら最低でも12万字になる。毎月右往左往してはいるものの現にこれだけ実績があるのだから、明日急に何も書けなくなるといった事態が起きるとは考えにくい。だから泰然自若と構えていれば良いのかもしれないが、毎回毎回心細いし、先のことを考えると不安に襲われる。
初のレココレへの寄稿となった2月号の見本誌は、どきどきそわそわして数ヶ月にわたりページを開くことができなかった。やはり印刷物にはものとしての特別な圧がある。いささか大げさな表現だが、活字への畏怖のような感情が湧いてきたこともあり、自分の文章をもうちょっとどうにかしたいと強く思う一年でもあった。
来年はもう少しお客さんの前でDJやトークイベントができたら良いなあ、と考えている。こう見えて意外とギターが弾けるという設定もあるので、かつてのようにサポートで演奏する機会が増えたら嬉しい。そして、去年も同じことを書いていて自分でもちょっとどうかと思うけれど、トリプルファイヤーの新しいアルバムも来年こそはリリースしたい。なるべく早く。

営業報告

1/7 『映画雑談』の会 音楽のある風景編 ゲスト登壇

『映画雑談』の会 音楽のある風景編

1/15 レコード・コレクターズ 2月号

レコード・コレクターズ2021年2月号:株式会社ミュージック・マガジン
【特集】このドラムを聴け!
「リズムからたどる60〜70年代ポップス史」寄稿
「本誌執筆陣によって選ばれた必聴の101曲」のうち5曲解説

2/2 Rolling Stone Japan「ロス・ビッチョスが持つクンビアとロックのフレンドリーな関係 鳥居真道が考察」

3/3 Rolling Stone Japan「ソウルの幕の内弁当アルバムとは? アーロン・フレイザーのアルバムを鳥居真道が徹底解説」

3/31 Rolling Stone Japan「大滝詠一の楽曲に隠された変態的リズムとは? 鳥居真道が徹底考察」

5/11 Rolling Stone Japan「大滝詠一『NIAGARA MOON』のニューオーリンズ解釈 鳥居直道が徹底考察」

6/7 Rolling Stone Japan「アレサ・フランクリンのアルバム『Lady Soul』をマリアージュ、鳥居真道が徹底考察」

6/15 レコード・コレクターズ2021年7月号

カン「納得の音質で登場した待望のライヴ音源発掘シリーズ第1弾に曲作りのプロセスを垣間見る(鳥居真道)」寄稿
レコード・コレクターズ2021年7月号:株式会社ミュージック・マガジン

6/15 Kaede 『Youth – Original Soundtrack』

「化石採集」にギターで参加

7/9 Rolling Stone Japan「トーキング・ヘッズのティナ・ウェイマスが名人たる所以、鳥居真道が徹底考察」

7/15 レコード・コレクターズ2021年8月号

【特集】70年代ハード&ヘヴィ・アルバム・ランキング100にて選盤と解説
レコード・コレクターズ2021年8月号:株式会社ミュージック・マガジン

8/4 Rolling Stone Japan「ホイットニー「カントリーロード」カバーに感じる匠のドラム、鳥居真道が徹底考察」

8/15 レコード・コレクターズ2021年9月号

【特集】80年代ハード&ヘヴィ・アルバム・ランキング100にて選盤と解説
レコード・コレクターズ2021年9月号:株式会社ミュージック・マガジン

9/6 チャーリー・ワッツから感じるロックンロールのリズムの成り立ち、鳥居真道が徹底考察

9/15 レコード・コレクターズ2021年10月号

【特集】90年代ハード&ヘヴィ・アルバム・ランキング100にて選盤と解説
レコード・コレクターズ2021年10月号:株式会社ミュージック・マガジン

10/11 Rolling Stone Japan「手拍子のリズムパターン、クイーンやスライの名曲から鳥居真道が徹底考察」

10/15 レコード・コレクターズ2021年11月号

「ニュー・アルバム・ピックアップ」ムーンライダーズ『moonriders special live カメラ=万年筆』レビュー
レコード・コレクターズ2021年11月号:株式会社ミュージック・マガジン

10/19 ベース・マガジン2021年11月号(Autumn)連載セミナー「全米ヒットの低音事情」

ベース・マガジン2021年11月号(Autumn)

11/8 Rolling Stone Japan「ビートルズ「Let It Be」の心地よいグルーヴ、鳥居真道が徹底考察」

11/15 レコード・コレクターズ2021年12月号

【特集】ジョニ・ミッチェル『ブルー』[アンケート]私と『ブルー』に寄稿
レコード・コレクターズ2021年12月号:株式会社ミュージック・マガジン

12/13 Rolling Stone Japan「ポール・マッカトニーのベースプレイが生み出すグルーヴ、鳥居真道が徹底考察」

12/15 レコード・コレクターズ2022年1月号

【特集】ロック史に残る1991年をふり返る 編集部が選んだ必聴の141枚でアルバム解説

ご挨拶

今年もとてもたくさんの方にお世話になりました。色んな人に支えられて活動できているんだなと改めて噛みしめています。みなさんが良いお年を迎えられることを心からお祈り申し上げます。

 

ゆく鳥居くる鳥居(2020年営業報告)

毎年、年の瀬になると「ゆく鳥居くる鳥居」と題して1年のソロ活動を振り返る企画を行っている。2016年に始めたから今年で5年目だ。言うまでもなく、今年はもっとも仕事が少ない年になってしまった。だから振り返るのは辛い。正直、「ゆく鳥居くる鳥居」などと言ってぬるい洒落をかますほど心に余裕はない。とはいえ、少ないながらもその一つ一つは充実していた。

3/25 Music Voyage : ピーター・バラカン × 鳥居真道 神田淡路町cafe 104.5

バラカンさんとのピンポンDJ企画も今年で5回目。選曲リストを見返すと、なんて楽しそうなんだ、と思わずにはいられない。すわ延期かという空気がありつつも無事開催されて良かった。

ピーター・バラカン × 鳥居真道 Music Voyage : DJ


マスクを入手できず困っていたが、お客さんからウレタンのマスクをいただいた。大変助かりました。ありがとうございました!
イベントの前日には東京五輪の延期が発表されていたようだ。さらに、イベント中に小池都知事が会見を行うという知らせがあった。会見の内容は、不要不急の外出を自粛するよう要請するものだった。

5/13 mei ehara 『Ampersands』 リリース

2019年末にレコーディングに参加したmeiちゃんのアルバムが無事リリースされた。いちファンだったので誘ってもらえてとても光栄だし、素晴らしいアルバムの制作に関わることができて大変うれしい。レコスタも日当たり良好の物件で気持ちが良かった。

meiちゃん作成のビデオがすごい。ビビッド!
サポメンは、Coff、浜公氣、沼澤成毅という面々。なお、沼澤くんをスカウトしてトリプルファイヤーのライブに参加してもらっている。
このあたりはコロナの感染者が減りつつあった時期で、5/17には緊急事態宣言が39県で解除された。ただし8都道府県は継続。全国で解除されるのは5/25のこと。

11/2 カクバリズムの文化祭 mei ehara サポート

カクバリズムの文化祭にmeiちゃんが出演するとのことでサポート。レコーディング以来の集合となった。さすがにブランクがあったので自分のギターを耳コピしなければいけないかと思ったが、体に染み込んでいて意外と覚えていた。ピックアップを交換したストラトと、たっつくん私物のアンプ、ベースマンの組み合わせが最高。トリプルファイヤーのレコーディングでもお借りすることにした。たっつくん、ありがとう!
11/5には「1週間にクラスターが100件超 前週の1.6倍 9月以降最多」というニュースがある。第3波の兆しが見え始めた時期だったようだ。

11月の水曜日 JFN「simple style -オヒルノオト-」 選曲

秋になって日照時間が短くなり、輪をかけて鬱屈していた頃にラジオでの選曲のオファーがあり、元気に。選曲ほど楽しいものはないと改めて実感した。1週目「マイルドファンキー」、2週目「なんとなくクラシカル」、3週目「チルどきグレート・ブリテン島」、4週目「チルどき北米大陸」というテーマで選曲した。Spotifyにまとめたので良かったら聴いてみてください。

Record Snore Day

小柳帝さん、ミツメのまおくん、ナカヤーンとともに結成したレコードスノアデイとしての活動は、昨年から「チーム仕事」としてカウントし、この企画では割愛することにした。そうは言えども、触れないわけにはいかない。今年は2/24、7/12、11/21にイベントを開催した。番外編として、10/26にロックカフェロフトのBGM係も皆で務めた。なんとか活動が継続出来てよかった。

Rolling Stone Japan(WEB版) 連載「モヤモヤリズム考」

昨年の6月に始まった連載がおかげさまで2年目に突入し、次回の記事で1年半続いたことになる。原稿の中でも書いたが、アイディアの源は学生時代のコピバンだったり、トリプルファイヤーの活動で蓄積されたものだから、そういうものが減ってしまうと貯蓄ゼロの状態になってしまう。しかし、そんな泣き言を言っていても仕方がない。

所感

毎回、昨年の自分が書いたことにツッコミを入れるという恥ずかしいことをしているわけだが、例によって今年もやろう。昨年はこんなことを書いていた。

一人っ子の一人遊びの精神を取り戻すこと。それが来年の課題になりそうだ。言わばアブソリュート・エゴ・遊び。こういう記事を書くのも元々一人遊びの延長だったはず。たとえ誰からも見られていなかろうが自分のためにお洒落をする。そうした心意気を取り戻したいものです。

http://notoriious.wpblog.jp/?p=7512
今年ほど一人っ子の一人遊びの真価が問われた年はない。結果として、一人遊びは継続しないことが判明した。裏を返せば、観客という存在がいかに重要なのか痛感したということだ。誰からも観られてなかろうが自分のためにお洒落をするというような心意気は早々に捨てて、ひたすら音楽とは関係ないことに精を出していた。例えばRDR2で動物を狩猟したり、植物を収集したり・・・。
元々、鬱屈しがちな性格ではあるが、コロナ禍により鬱屈がネクストステージに到達した感じがある。端的に言えば、ぼんやりした不安がマジガチの不安に変わったということだ。けれども、それが契機となり、今までとはまったく異なったものの見方、考え方に触れるようになり、価値観が広がったりもしたから、そういう意味においては、2020年がまったくの無だったというわけでもない。とはいえ、コロナには一刻も早く退場してもらいたいわけだが。
ひとまずトリプルファイヤーのアルバム制作が動き出したので、それに注力したい。思えば、2020年はトリプルファイヤーに加入して10周年という年だった。それが人生の3/1に相当すると考えるとなかなか気が遠くなる。
来年以降、何がどうなるのかわからない。今はなにも言うべきことが思い浮かばない。とにかくアルバムを完成させて、皆さんに聴いてもらうことを目標に、地味なことからコツコツとやっていくしかない。そんなニューどころかいたってノーマルな結論にたどり着いたのであった。
2021年の仕事初めは1/7の鹿島さんとハリエさんプレゼンツ<『映画雑談』の会 音楽のある風景編>に、タカハシヒョウリさんとともにゲストとして参加します。

『映画雑談』の会 音楽のある風景編


みなさんが良いお年を迎えられることを心からお祈り申し上げます。

 

おれはデジタル・ミニマリスト、そして凡人

Twitterのアカウントを作成したのはちょうど10年前のこと。当初は「部誌」の延長の感覚で運用していた。部誌とはサークルの部室に置かれたノートで、サークル員たちが近況や長々しい愚痴、ちょっとした思いつきやくだらない落書きなどを好き好きに書き込んでいくものである。私が所属していたサークルは少人数のところだったから、授業の合間に部室に行っても誰もいないことがままあった。部誌を手に取ると「久しぶりに来たけど誰もいないんで帰ります」なんてことが書かれており、入れ違いでその人と会えなかったことがわかったりして、なかなか趣深いところがあった。
当方にとってTwitterは愚にもつかない独り言をつぶやく場であり、友人・知人の近況を知る場でもあると同時に、趣味の情報を得るための場所でもあった。しかし、この10年間でTwitterというもののあり方は変容した。面倒なのでどのように変容したのかということはここでは省く。(個人的な概観としては「TL実況」とでも呼ぶべき使い方をする人をフォローするようになってからTwitterというものが自分の中で大きな変化したように思う。「TL実況」とは、とりとめのない独り言、大喜利、あるいは告知や営業報告ではなく、何か時事ネタのようなものに対してコメントする、もしくはそのコメントに対してコメントする、あるいは皆が何かにコメントしている状況に対してコメントするというようなものをイメージしてもらえたらと思う。ある人にとってそれは、はてなブログのコメント欄の延長、また別の人にとっては2ちゃんねるの延長だったのかもしれない。実際、自分も最近までTL実況のような使い方をしていた。小学生の頃に誰かがゲームのソフトなんかを入手すると、他の者が羨ましがってそれを欲しがるわけだが、その様子を見ているうちに自分もなんだか欲しくなってくるという状況に似たものがTL実況にはあった。つまり、自分も時事ネタに対してクリティカルなことを言ってプロップスを得たい、Twitterの名士として認識されたいという欲求がむくりと立ち昇ってくるのだ。こんなことを言うと「彼彼女らは素直な気持ちでその事象に対する考えを述べてるだけであって、決してその時々の問題を自己顕示の種として扱っているわけではない」と言う人がいるかもしない。事実そのとおりなのだろう。そこに野心がうっすらと見て取れる場合もないわけではないのだが、それはこちらの眼差しが腐っているからそう見えてしまうだけである。いわゆる下衆の勘繰りというものだ。下心を見透かそうと試みがちなニヒリスティックな態度とは距離を置こうと心がけている。Twitterの名士云々という話はあくまで個人の下品で俗っぽい欲望の話に過ぎない。そうした自分の俗っぽさに心の底から辟易するというただそれだけの話。余談だが、Twitterでは政治的あるいは社会的な事柄には触れずに「おもしろ」に徹しろというような意見もたまに目にするが全く首肯しかねる。さらに余談だが、一部アカウントの何でもネタとして消費するサブカルの駄目なところを煮詰めたような態度には反吐が出る。)
とにかくTwitterをやっていてストレスを感じることが多くなったのだ。独善的な意見を露悪的なトーンで撒き散らしているアカウントを見れば唾を吐きかけたくなるし、厚顔無恥などこぞの馬の骨が専門家に対して講釈を垂れる場面に遭遇すれば虫唾が走るし、誰かが何かに対して苦言を呈していれば自分への当てつけにも感じられるし、エゴサーチをすれば陰口を叩くためだけに作ったような誰かの裏アカが残した心無いツイートを発見して落ち込むし、何かを呟けば「またウケ狙いして滑っているが恥ずかしくないのか」という幻聴が耳から離れなくなるし、TLを開けば四六時中入れ代わり立ち代わりカリスマ的な人物が称賛を集めているものの自分がその座に着く日は一向にやって来ないので惨めな気分になるし、いかにも狡猾そうな鼻持ちならない嫌味な人間が社会的に成功を収めていく過程を逐一見せられれば焦燥感が湧いてくるし、なんとなくムカムカして意地悪なことを呟けばおっかない人を誤射してしまい肝を冷やすようなエアリプをいただいてしまうし、著名人が舌戦を繰り広げているのを野次馬根性で観戦すれば段々とこちらの心が荒んでくるし、かつて自分がツイートしたものと似たような内容のツイートが耳目を集めたりしていれば結局地獄の沙汰はキャラ次第か、どうせ俺はポップじゃないよと投げやりな気分に取り憑かれるし、素性は知らぬがなんとなく仕事ができそうな雰囲気を漂わす人物が「俺っちは全然Twitter楽しんでますケド」みたいなことを呟いているのを目にすれば「マ、心に余裕の無い人間は楽しめないでしょうナ。ハハッ」とでも言われているような気がして口惜しいし、Twitterなどやっていて良かったと思えることなどもはや何一つとしてないのだが、暇さえ見つければついついスマホでアプリを開いてしまう。その度に「ほら、Twitterなんてやっぱりろくなもんじゃないんだよな」などと言い(ろくでもないのはTwitterではなくお前の心だよと言われば返す言葉はないのだが)、絶望の体裁を取った安堵にも似た感情を抱くようにすらなっており、これはもう末期も末期だろうと思い、思い切ってスマホからTwitterのアプリを削除した。ついでに何かヒントになるだろうと思って『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』のKindle版を購入して読んでみた。Kindle版にした理由はTwitterに変わる手慰みになると思ったからだ。実際の書籍の場合、鞄からを取り出す煩わしさがあるから、もはや習慣と化したポケットからスマホを取り出す動作の手軽さの前ではやや心許ない。しかし、スマホで同じものが読めるのであればページを開くまでのハードルは下がる。
この本はいわゆる自己啓発に類する内容と言って差し支えない。SNSよりももっと身近な人たちとの触れ合いを大事にしましょうというような説教臭いところがあり、途中で読むのをやめてしまったが、所々勉強になるところがあった。それは、なぜSNSがなかなかやめられないかという箇所だ。そこでは「SNSはスロットマシーンである」という誰かの発言が引かれていた。SNSではなくスマホだったかもしれない。何にせよ、その言葉を拡大解釈して、SNSをギャンブルのように捉えていたことに気がついた。以下、本来のニュアンスとはかけ離れた拡大解釈に過ぎないので悪しからず。
既に述べたようにTwitterにはストレスの種が多い。これを心のマイナスに捉え、マイナスをどうにかしてTwitter内で取り返そうとしているのではないか。ただし、何を以てプラスとしているのか自分でもよくわからない。ウケ狙いのツイートが首尾良くウケたらプラスなのか。しかし、やっとのことでひねり出したユーモアに100のいいねでお墨付きをもらったところで、世の中には「おはよう!今日もいい天気!」とつぶやくだけで何千ものいいねを受け取るセレブもいる。そう考えれば己のいじましさが惨めにも思え、結局はマイナスであるようにも感じる。
もしくは、当方の陰口を叩いていた人物から突然「鳥居さま 先日、私は調子に乗ってあなたが読んだら嫌な気持ちになるであろうあてこすりをツイートしてしまいました。今では自分の軽率さにただ恥じ入るばかりでございます。このDMは250度を超す鉄板の上で土下座しながら書いております。どうかお許しください。」というようなDMが送られてきたらプラスとして換算できるかもしれないが、そんな日がやってくることは永遠にないだろう。ただ、頭ではそのように理解しているつもりでも、心のどこかでそれに類することが起きないか期待をしている自分もいる。嵩みに嵩んだマイナスをプラスにもっていくような出来事が起きはしまいか。どうにかしてマイナスを埋めようとじたばたしてみるのだが、結局プラスとして換算すべき事柄が茫洋としているから何があろうとプラスとして加算されるこはなく、ただマイナスが増え続けるばかりだ。そうであれば、一発逆転を目論む負け癖のついたギャンブラーのような思考は金輪際控えることにして、Twitterを開かないようにしようと考えた次第だ。
他にもSNS依存から脱したい理由はある。本が読めなくなったのだ。以前は移動中や飲食店に入って食事が運ばれるのを待っているときなど、わりかし読書して過ごすことが多かった。取り留めのないTLを眺めることよりも、読書のほうが我々人間にとって高次元の営みなのかどうかはわからないが、少なくとも読書をしているときは気分が良い。読書は煩わしい現実からしばしの逃避にもなるし、他人の言葉を追う過程で硬直した視点がほぐれ、現実が読む前とは異なる色彩を持つようにもなったりする。一方でTwitterは野卑でしみったれた現実の輪郭を濃くするようなところがある。タフな人であればヘミングウェイさながら戦う価値があると感じるのかもしれないが、へたれの一人っ子の自分にとってはそれが疎ましく思えてしまう。念の為に補足すると、どんな本を読むか、またはどんな人をフォローするかによって状況は異なるから一概に読書とTwitterを比較できないことは重々承知している。
「デジタル・ミニマリスト」をほっぽりだして手にしたのは町田康の『しらふで生きる 大酒飲みの決断』だった。町田康は二十歳前後の頃によく読んだ作家なので読書の再入門にはちょうど良いのではないかと思ったのだ。お酒を飲むのは好きでも、とくに大酒飲みというわけでもないのだが、最新のエッセイということでなんとなく読むことにした。長年毎日欠かさずアルコールを摂取してきた町田康がある日を境に酒を断つのだが、その理由について説明するというよりは、自分でも判然としないその理由を考えてくというのが導入部だ。また、我々が酒を飲む理由についても書かれており、そここそが個人的に最もぐっときた箇所だ。当方なりに要約すると以下のようになる。
例えば仕事など日中の煩わしさによって、我々は人生を楽しむ権利を不当に損なわれており、その権利を取り戻すために夜になれば酩酊して楽しく過ごそうとするわけだが、そもそもそんな権利を我々は有してはいない。幸福を追求する権利はあれども幸福になる権利は与えられていないのだ。人生とは苦しいものだ。自分の人生が楽しいものになって当然だと考えるのはあまりにも不遜ではないか。そうした自惚れこそが苦しみの元凶であろう。
この稚拙な要約では『しらふで生きる』の楽しさはまるで伝わらないだろうから実際に手にとって読まれることを願う。それはさておき、ともかくこうした考え方に目が覚めるような思いがしたのだ。Twitterが苦々しく感じられる原因も8割は自惚れから来るものだろう。ウケると思っていた投稿に反応がなかった場合、がっかりすることもあるが、これはどこかで自分が称賛を受けるに値する人間だと自惚れているところがあるからに違いない。端から自分で自分をクオリティの低い人間だと考えていれば、Twitterで無視されようがそれが当然のことのように思えるはずだ。事実、クオリティが低いという自覚はある。ただし、これはあくまで自らの絶対評価であることが重要で、クオリティの高い人物と比較して自分のクオリティが低いと感じてしまえば、確実に心は死ぬ。他人と比べることが苦しみの始まりなのだ。休日に家でしこしこ作業していて気晴らしにInstagramを開くとイベントなどで羽目を外して楽しそうにしている知人の投稿を目にしたときなど、なんだか損したような気分になることがある。他人と自分を比べるから妬ましい感情が湧いてくるのだ。作業自体別に嫌で取り組んでいるものではない。その進展具合を誇らしく思えば良いだけの話だ。
『クィア・アイ』を観ると自信を持つことの重要さについて認識を新たにさせられる。ファブ5は必要以上に自分を卑下して人生を諦めることはないと言う。けれども自己愛に溺れよとまでは言っていない。『クィア・アイ』の新たなエピソードを観ている最中は人生にはサニーサイドがあることを思い出していくらか気持ちが上向きになるものの、日々の暮らしに直面するとなんとなく人生が仄暗いものに感じられてしまう。これはおそらく「私は私」というある種の救済をもたらすシンプルなトートロジーがいつしか「俺様は俺様。ゆえに俺様」という尊大な認識に変質するからであろう。この俺様がなぜこんなにも不遇の扱いを受けているのだ、こんなおかしなことがあって良いのかという悶々とした不全感は生活に影をもたらす。自分のことを平均以下の凡人だと認識していれば、飲食店で店員が水すら持ってこなくても、駅で肩をぶつけられても、レジで横入りされても、ヤフオクで高値更新されても、飲み会で割り勘負けしても、ネットでマウンティングされても、意地を張ったりせず、それが通常営業のように思えたりもするから気が楽だ。
以前は手に負えないシャワーヘッドのように荒ぶる自己愛を鎮めることにもっと腐心していたはずなのに、気がつけば尊大な人間になっていた。尊大さに振り回され、袋小路に陥っていたからこそ、平均以下の凡人という自己認識が枕の裏側の冷たさのような心地よさをもたらしたのだろう。町田康は酒をやめて4年で『しらふで生きる』を書いたそうだ。自分はスマホからTwitterのアプリを消してまだ一月しか経っていない。しかもアカウントは削除していないし、たまにブラウザから呟いたりもしている。やはりこの脇の甘さこそが凡人の凡人たる所以だろう。

 

2010年代に最も印象に残ったものは?

※諸般の事情により塩漬けになっていた原稿に手を加えてこちらで公開いたします。
『クィア・アイ』

2000年代も終わりに差し掛かった頃のこと。かつてヘキサゴンのドッキリ企画で、目の前で財布をなくして困っている老人に対し、上地雄輔はどんな行動を取るのかというものがあり、上地は老人にお金を貸したうえに、メモを取っておいた老人の住所宛てに新品の財布を寄贈したそうだ。当時付き合っていた彼女が上地の優しさにとても感動したと言うので「そんなのどうせ仕込みでしょ」と返したところ喧嘩に発展した。
もともと性根は腐っている方だが、多感な時期にウェッティでベタベタしたピュア風のものが世に溢れていたから、その反動で輪をかけてシニカルな性格になってしまった。今にして思えば、そうした態度を取ることは、卑劣で意地汚い心の持ち主はこの世に存在してはいけないというのか、それはそれで心が狭くないか、臭いものには蓋をすれば良いと思っているのかという異議申し立てであったような気もする。ただの言いがかりでしかないのだが、当時は今よりも輪をかけて世間知らずだったから発想が無茶苦茶なのだ。
何事もネタとしてイジる作法を身に着けたのもこの時期のこと。ある種のバラエティ番組や2ちゃんねる、サブカル的なユーモアのあり方をなんとなく内面化してしまっていたのだろう。そうした態度がクレバーかつクール、あるいはヒップだと思っていた。
ウェッティなものを小馬鹿にし、人から嘲笑われる前に人を嘲笑っていれば、心がカラッカラに干からびてしまうことは当然の帰結と言えよう。突飛な服装をしたり、パーマをかけたりしても、どうせイジられるだけだと考えると馬鹿馬鹿しくなり、お洒落をするのもやめてしまった。同様の理由でインテリアにもこだわらなくなった。かくして生活から潤いは消えていく。人を呪わば穴二つではないが、シニシズムは結局自分に対する呪いとなって返ってくる。
2010年代も終わりに差し掛かった頃のこと。ひび割れ、荒れ果てた心にモイスチャーをもたらしたのは『クィア・アイ』だった。ファブ5たちは世界にはサニー・サイドがあることを思い出させてくれた。『クィア・アイ』を観ていなかった自分を想像するとぞっとする。鉢植えの下で蠢くダンゴムシのように暮らし、人を呪い、自らも呪い続けていただろうし、自分は賢い人間なんだと思いたいがために人に意地悪なことを言う愚を繰り返していただろう。そのような愚昧な暮らしぶりは2010年代に置いていこうと思う。

 

アンケート「2019年のベストは?」

読者のみんな!あけおめ。とある企画の趣旨を間違えて書いてしまったものをこちらで公開します。2019年に公開されることを前提に書いたため、昨年というのは2018年のことです。

2019年、最も印象に残ったもの

Call of Duty®: Mobile

コメント

昨年の夏から冬にかけてスマホでのプレイが可能な無料のバトルロワイヤルゲーム『PUBG MOBILE』の中毒となり、社会性と健康的な生活、制作に充てる時間を失うことになった。11月頃から仕事が立て込んだこともあり、思い切ってアンインストールしたものの、忙しさが落ち着いた春先に出来心で再度インストールしてしまい、再び社会性と健康的な生活及び制作に充てる時間を失う羽目に。幸いなことに今年は原稿を書く機会に恵まれた。PUBGに夢中になっていては調べ物や執筆に集中できないので秋頃にやはりアンインストール。俺はもっと高みを目指すんだと決意を新たにした。そんな矢先にリリースされたのが『CoD Mobile』だ。世界で最も成功したFPSシリーズだからご存知の方も多いだろう。贔屓のゲーム実況Youtuberが紹介しており、おもしろそうだったのでついダウンロードしてしまった。フレンドとパーティーを固めて連携を取る対戦チームに蹂躙されたり、ルールを理解していない仲間に振り回されたり、口の悪いボンクラにボイスチャットで罵られたり、ストレスの種も多いのだが、逆転して僅差で勝利できたときなど、脳みそから「ハッピージュース」とでも言うべき液体が分泌され、目に映るものがすべて金色に輝いているかのような心持ちになる。その感覚をもう一度味わいたくて再度プレイしてしまうから際限がない。「ドミネで芋んなよ!おかしいだろ!B取られたじゃんよ!やだよやだよ!ほんとやだ…ほんとやだ!」と叫ぶ自分の声の大きさに驚いたりしつつ、社会性と健康的な生活、制作に充てる時間を犠牲にして夜な夜なハッピージュースを分泌させる生活はまだまだ続きそうです。

2020年はどんな年にしたいか

ゲームで遊ぶ暇を与えないほどたくさんの仕事が舞い込んでほしいです。

 

ゆく鳥居くる鳥居(2019年営業報告)

2016年から「ゆく鳥居くる鳥居」と題して1年の活動を振り返る記事を年末に公開している。面倒だから今年は書くのをやめようと思っていたところ、人から書いた?と尋ねられ、なんだか書かないといけない気がしてきたのでやはり書くことにした。

一年の活動をまとめるのはわりと疲れるので今年はやめておこうかと思ったけれど、もはや自分のことは自分で丁寧に扱う以外にどうすることもできないからやはり取り組んでいくことにする。自分のことは自分で可愛がっていくほかない。まさに「期待は失望の母である」の精神。念のために補足しておくと、これは大瀧詠一が残したナイアガラ語録で最も有名なものだが、どうせ失望するはめになるから何かに期待するなという意味ではなく、他人に期待して失望するぐらいなら自分でやれというメッセージが込められている言葉だ。

昨年はこんなことを書いていた。自分で自分を可愛がることもなかなか骨が折れる。「どうせ来客なんてないし・・・」と思っているから部屋がどれだけ汚かろうがあまり気にならないし、掃除もあまりしない。そうした態度を部屋のみならず自分に対しても取ってしまいつつある。CoD mobileなどのゲームで遊んでいると、口の悪い他のプレーヤーから「雑魚すぎ」「味方下手すぎて萎える」「よう戦犯」などと罵られることがよくある。昔はそういう言葉を聞く度に鳩尾がヒュンとなったものだが、最近は何を言われても気にならなくなってきた。なぜかと言えばゲームにおいて自分は能無しであると認識するようになったからだ。当然のことながら自分は能無しであると思っていれば心は死ぬ。否定的な自己認識が精神に良い作用をもたらすわけがない。幼い頃に怪我して痛がっていると祖母は決まってこう言った。曰く「痛いのは生きている証拠」だと。いくらそのゲームにおいて罵倒や暴言が日常茶飯事だといえども、「クソかよ」などと罵られて何も感じないのは心が死んでいる証拠ではないのか。
ものを作ることに携わる人にとって、いや、誰にとってもあるあるネタの一つだと思うのだが、ニヒリスティックで底意地が悪く、やることなすことケチばかりつけてくる仮想敵とでも言うべきもう1人の自分に、自分の取り組みを後頭部の斜め後ろあたりから常時監視されているような気がする。これは作ったものを世に放ったときの良からぬリアクションを先取りする防衛機制とも言えるかもしれない。鍛冶屋が鉄を何度も何度も叩くかのごとく、意地悪なもう1人の自分に自分が作成しているものを繰り返しチェックさせて強度を高めることもあるが、ものごとを否定的に捉えてばかりいるとやはり心は死ぬ。肯定なくしてものを作ることは不可能だ。
一人っ子の一人遊びの精神を取り戻すこと。それが来年の課題になりそうだ。言わばアブソリュート・エゴ・遊び。こういう記事を書くのも元々一人遊びの延長だったはず。たとえ誰からも見られていなかろうが自分のためにお洒落をする。そうした心意気を取り戻したいものです。
昨年までは時系列順で書いていたが、今年は分野別にまとめていきたい。情報はウィキペディアを参考にした。編集者の方々、今年もおつかれさまでした。

楽曲提供

「卒業式では泣かなかった」姫乃たま


『パノラマ街道まっしぐら』収録。姫乃たまさんがメジャー・デビューするタイミングで楽曲提供のオファーをいただいた。大変光栄なことだ。最初に取りあえず作ってみた曲があまりにも凡庸だったのでボツにし、一から作り直して完成した曲。作り直して良かったと思っている。ヨットロック調のアイドル歌謡のサウンドを目指した。音源やプラグインを新調して1人でトラック制作に取り組んだ。

サポート

江本祐介(スターロード祭り 5/26 阿佐ヶ谷Roji)

付き合いの古い江本くんのサポート。新間さん、浜くん、鮎子さんというメンバー。またやりたいですね。この日のライブは『Live at Roji』という盤にもなっています。

ぼく脳バンド(環太平洋シマダ選手権 10/22 高円寺HIGH)

シマダボーイのお誘いでぼく脳さんバンドに参加。KΣITOさん、優介くんというメンバー。ぼく脳さんはラップがお上手。

mei ehara(カクバリズムの冬祭り2019 12/8 恵比寿リキッドルーム)

付き合いの古いmeiちゃんのサポート。浜くん、Coffくん、沼澤くんというメンバー。このメンバーで現在アルバム制作中です。

選曲

レコード・スノア・デイはチームでの仕事というかもはや殿堂入りという感じなので、ここでは個人で行った仕事のみ扱いたい。レコード・スノア・デイについてはTwitterのアカウントをぜひチェック!@recordsnoreday

Roji in the P /HOUSE -1st Exhibition-(1/24 阿佐ヶ谷Roji)

花澤さんにお誘いいただいて37Aさんの展示会でDJ。Rojiに行くのは初めて。塩田正幸さんがMacBookでDJをされており、使用ソフトや機材を聞いて後日揃えました。

WWMM(2/2 恵比寿LIQUIDROOM)

ワクワクミツメ祭りでDJ。松永良平さんとお話しながら選曲。ミツメのメンバープラス優介くん、シマダボーイが参加した特別仕様のスカートでも一曲演奏。

Nu Deja Vu(2/16 表参道CAY)

P-Vineプレゼンツ「Nu Deja Vu」でDJ。思い出野郎Aチームのサモハンキンポーさんとお話しながらまかない飯を食した。またFNMNLの連載仲間、TAMTAMのアフィさんと初めてちゃんとお話した。

FACE RECORDS IN STORE DJ EVENT VOL.4(2/27)

渋谷にある大好きなレコード屋さんFACE RECORDSでセキトオ・シゲオ「THE WORD Ⅱ」の7インチ発売を記念したインストアイベントでDJ。7インチのB面には不肖鳥居のリミックスが収録されている。生活リズムが合わず最近全然お店に行けておらず悲しいです。

Music Voyage : ピーター・バラカン × 鳥居真道(3/6 神田淡路町cafe 104.5)

ピーター・バラカンさんとのピンポンDJもといB2Bのイベントも今年で4回目。お相手はバラカンさんなのでこちらがどんな球を投げようともひょいひょいと打ち返していただけるという安心感もありつつ、やはり緊張もする。ラリーには日頃の行いが反映されるので気を引き締めて音楽を聴かねばという気持ちが湧いて来ます。

RECORD SNORE DAY presents “PROJECT GEMINI”(5/31 新宿ROCK CAFE LOFT)

昨年に続いて小柳帝さんと「PROJECT GEMINI」再び。小柳さんの選曲にディグ道の奥深さを改めて痛感。ディグ道は一日してならず。背筋がぴんと伸びます。

ナナメ狛江(6/16)

誕生日にDJ。たまたまです。ナナメは変わったお酒を出してくれる素敵なお店。おいしいクラフトビールをごちそうになりました。塩田正幸さんを真似してPCでDJ。4時間ぐらいのロングセット。

Terminal Jive(7/8 渋谷頭バー)

WWMMでDJをしているときに駄洒落でMtumeをかけたところ、遊びにいらしていた小里誠さんが反応なさって、こちらのイベントにお誘いいただくことになったのでした。アウェーの現場だったけどかなり居心地の良い楽しいイベントでした。

的-teki- vol.3(9/16 下北沢Basement Bar)

Group2プレゼンツ「的」でDJ。急にレコード針のことが不安になり購入。間に合わなくてもいいやと思いつつ、台風の被害にあったサウンドハウスで注文したところいつものようにスムーズに発送されたの驚いた。そんなわけでマイ針でDJ。

ENSOKU vol.3 feat. Kathmandu Kitchen -Party in the curry house-(11/24 Kathmandu Kitchen)

ネパール料理屋でDJ。年下の出演者やお客さんたちがとても親切で涙がちょちょぎれんばかりでした。フリービリヤニ美味しかったです。

寄稿

Webで公開中の記事はこちらにまとめてあります。
http://notoriious.wpblog.jp/?p=7385
FNMNLに寄稿したプリンスの記事に始まり、Rolling Stoneでの連載など今年は書く仕事が多かったように感じます。

ヴルフペック『ヒル・クライマー』ライナー

今年もっともびっくりしたオファーがこちら。Rolling Stoneの連載でヴルフペックを取り上げた記事を担当の方が読んでお声がけいただいたとのこと。もちろんライナーを書くのは初めてだったが、良いものが書けた。

インタビュー・対談

『レコード・コレクターズ』2019年2月号「MUSIC GOES ON」

柴崎祐二さんがレココレで連載されているコーナーにお招きいただいてお話した。柴崎さんのおかげで自分のぼんやりとした音楽観の輪郭がハッキリしたように思う。柴崎さんは学生のときに所属していたサークルのOBでもあります。

あの曲、ぼくが作ったことになればいいのに 第42回

大橋裕之さんがミーティアで連載されているシリーズにお招きいただきました。ついに大橋先生のイラストに!大橋先生考案のオチが笑えます。

『ミュージックマガジン』2019年12月号 「入江陽のふたりのプレイリスト」

イベントでご一緒したこともある入江陽さんがミュージックマガジンで連載されているコーナーにお邪魔した。入江さんとお話するのは初めてだったけど、2時間弱音楽談義できて本当に楽しかった。入江さんとは「パノラマ街道まっしぐら」の楽曲提供仲間でもあります。

トークイベント

邦ロックから遠く離れて vol.6(1/23 新宿ROCK CAFE LOFT)

図らずも最終回になってしまった。台本代わりに作成したテキストを公開したところそれなりに反響があった。
http://notoriious.wpblog.jp/?p=6753

ファンクの庭 (4/6 新宿ROCK CAFE LOFT)

エレファンク庭さんのトークイベントにお邪魔してファンクの講義。用意したテキストはnoteで公開中です。

以上、2019年の営業報告です。おい!鳥居!これ忘れてるぞ!というものがありましたらご指摘いただけたらと存じます。
トリプルファイヤーのライブ開きは1月18日のWWMM。是非おこしください。
心せわしい年の暮れ、何かと御多用とは存じますが、何卒お気をつけて年末をお過ごしください。

 

飲酒の上達・胃腸の弱り・劇薬と呼ばれる映画

告知

今から半年前に開催されたトークイベント「ファンクの庭」のために書いたテキストをnoteに公開しました。ファンクの音楽的特徴について書いています。

日記

6月から始めたダイエットがわりと順調だったので控えていた晩酌を再開したのだが、このところ飲酒がめきめきと上達しているように感じる。昔はたまに飲みすぎて二日酔いになり「もう二度と酒は飲まない」と心に誓うことが定期的にあったから、飲酒が習慣付くことはなかった。しかし、30を過ぎてコツを掴んだのか、毎日飲んでいても平気になってしまった。この一ヶ月ぐらい飲まなかった日はないと言って過言ではない。おかげで顔は浮腫むし、脳の細胞が死んでいっている気がする。少し控えねばと思うけれど、先日購入した4リットルのブラックニッカを消化してからで良いかと思う。深夜に職安通りのドンキで購入し、それを持って30分ほど歩いて帰宅した。『ジョーカー』をTOHOシネマズ新宿で観た帰りのことだ。
ホアキンがジョーカーを演じると聞いたとき、「ホアキンがそういうことするんだ~なんか意外!」と思った。『スーサイド・スクワッド』でジャレッド・レトが演じたジョーカーがとにかく不快だったので、ジョーカーのイメージを刷新してくれることを期待した。ああいう腕に覚えありというような俳優が気合を入れて演じた悪役が嫌で嫌で仕方がない。だから『ダークナイト』のジョーカーも魅力的ではあるけれど趣味ではないし、例えば紫色のコートを買ったりしてしまうほどの思い入れはない。
最初の予告編を観た印象は「良い感じ!」というもの。ただ予告編が良い感じの映画は本編がつまらなくなりがちという持論があるからあまり期待してはいけない。予告編が良い感じの映画といえば『インヒアレント・ヴァイス』。あんなにおもしろそうな予告編って他にあります?CANの”Vitamin C”が流れていてある種の「文化系」たちを殺しにかかっていたが、本編を見たら拍子抜けしてしまった。『ダークナイト・ライジング』も予告編は本当によくできていた。
ジョーカーと化したホアキンが廊下を闊歩するところをスローモーションで撮影するだなんてキメすぎじゃない?ちょっとださくない?とやや不安になった。けれどもアメリカン・ニュー・シネマ的なざらっとした感じもあったから、ドライでヘビーな口当たりになるだろうと期待もした。また、『キリング・ジョーク』的なストーリーだと予想できたので、未読だった『キリング・ジョーク』の翻訳版を購入して読んだ。期待値を下げてほしいという理由で早く否定的なレビューが登場することを願いつつ公開を待った。
件の『ジョーカー』だが、非常にスタイリッシュな演出が続きつつも、凸凹のない平面をするするするっと上滑りしていくだけでスクリーン上において特別な何かが起こるわけではない。内容は「劇薬」と呼ばれるものなのかもしれないが、映像はさらさらした水のような口当たり。懇切丁寧にすべてを説明してくれている。もうちょっと無茶してくれよと思う。キッズ向けのアメコミ映画とは対極の「リアル・ムービー」を作ってやろうという野心があるのなら。そもそもの話、こうした「リアル・ムービー」的な発想はトム・トム・クラブよりデヴィッド・バーン、ビヨンセよりソランジュ、ポールよりジョン、綾部より又吉のほうが偉いと思っているようなまったくもって気の合わなさそうな輩を連想させ、なんとなく苦々しく思ってしまうのだが。
『ジョーカー』を観て一番に連想した映画は『ラ・ラ・ランド』。内容のわりに画面には生気がないし、過去の映画の引用も「リアル・ムービー」を制作しているというアリバイ工作程度にしか機能していない気もするし、ストーリーは独り善がりだし、誰かが無茶したというような痕跡が残されていない。全体的に「映画風の映画」というトーンがみなぎっていて、この映画が映画としての体面を保つための辻褄合わせに付き合わされているような気持ちになったため、15分ぐらいしたところで早く終わってくれないかなあと思うようになった。今にして思えば、この映画はリアル・ムービーの体で撮られた極めてシンプルなつくりの痛快娯楽作品なのだと頭を切り替えることができればもう少し楽しめたはずだ。宣伝などによるミスリードにひっかかった自分が悪かった。「MCUなんかとは一緒にしないでもらえるかな」とでも言いたげな監督の素振りは前フリで、観客の我々は「いやいやいや!」と笑って指摘してあげるのが粋だったのかもしれない。
『ジョーカー』で厄介なのが、誰が観たってわかるような演出を積み上げた挙げ句、『ダークナイト』的なトリックスター然としたジョーカーが素顔で現れて「バカどもを焚きつけてやったよ」とほくそ笑んでいると解釈できないこともないというようなメタっぽい終わり方をしているところだ。ここでいうバカどもとは観客のことだ。こうしたやり口はしゃらくさいのであまり好きではない。やはり汗かいて地べたを這いつくばっているような泥臭い映画のほうが好きだ。不穏な音楽がずっと流れていたのもうるさく感じてしまい、集中を削がれた。音楽によって常に緊張を強いられるからかえって緊張を意識しなくなってしまった。あのやかましい音楽は画面に緊張感がないことを逆説的に強調してしまっている。登場人物が皆一様にアーサーに意地悪する点は、なんて律儀な登場人物たちなんだろうと思ったし、茶番じみていてちょっとおもしろかったかもしれない。
『ジョーカー』は概ね好評なのだろうが、おもしろいと思った人がそうだと言いにくい空気が醸成されつつあるような気もする。というのもSNSで見られる絶賛コメントに仰々しいものが多いからだ。NIRVANAが好きだと言えば、物事をシンプルに考えるのが信条であるというような人たちからカート・コバーンに心酔する「病んだ魂」を持った痛い人間というレッテルを貼られるだろうから、なんとなく言いづらいという状況と似ている。それで言えばRadioheadも同様に好きだと言いづらいところがある。ジョーカーに関するやたらとテンションの高い感想は早速ポエムと揶揄されており、それはそれでどうなのと思うが。でも、仰々しい物言いの人たちから愛されることもひとつの才能だ。
『ジョーカー』を観た帰りに買ったブラックニッカを1.5リットルほど消化した頃、深夜に腹痛で目覚めたり、体のほてりが続いたり、お酒を飲んでいないときも赤ら顔になったりしたので、やはり晩酌を控えようと決意。飲酒のコツは掴んだかもしれないが、体がついていかないから駄目だ。

 

さみちぃのダーリン日記

昨年の夏、人に勧められてPUBG mobileというスマホのゲームを始めた。100人のプレーヤーが輸送機から戦場へと降下して、武器を現地調達し、最後の一人もしくは最後のチームになるまで殺し合う3人称のシューティングゲームだ。これが非常に面白く、まんまとドハマリしてしまった。帰宅後にスーパーで買った半額の惣菜をつまみにしてホワイトベルグを3缶ほど空けながら朝方までプレイするという生活が冬まで続いた。
「もう一回、あともう一回。こんな死にざまでは終われない。あと一回」そんなことを繰り返して寝不足になる。プレイ中の姿勢が悪いので首や肩が痛くなる。眼精疲労から頭が痛くなる。他のことが手につかなくなる。駅のホームでプレイしていて待っていた電車を見送ってしまうなどの問題が発生し、冬頃から仕事が重なり忙しくなったこともあり、思い切ってアンインストールした。しばらく禁断症状に苛まれたが、仕事に没頭することでなんとかやり過ごすことができた。
春先、忙しさから解放されて急に暇になったのでつい出来心でPUBGを再開してしまった。PUBGに関する調べ物をするうちにYouTubeのPUBG実況動画に行き着き、れいしー、まがれつ、ぽんすけといったPUBG関連の動画をアップしているYouTuberの存在を知り、ますますPUBGの沼に絡め取られてしまうことになった。小学生の頃から「夜もヒッパレ」という日テレで放映されていた番組に対し、芸能人のカラオケなんか見て何が面白いというのか、ふざけるなと思っていたような人間なので、ゲーム実況も同様に、馬の骨がゲームをやるところなんて見たって面白いわけがないだろうと決めつけていたが、これが大変面白くて毎日見るようになった。この時期に思い切ってiPadも購入。アジアサーバーではあるもののランクを上げて「エース」の称号を手に入れた。
そうこうするうちに、寝不足、他のことが手につかなくなるなどの問題が再発。せっかく始まった連載のための準備が後回しになりがちで、これはさすがにまずいと思って再度アンインストールした。この1年半で10キロぐらい太ったこともあって、生活全般を見直す時期が来ていた。PUBGをやめてダイエットも開始した。
ある程度は予想ができていたことだが、PUBGが占めていたスペースに入り込んできたのはやはりSNS、特にTwitterであった。Twitterをダラダラ眺めているぐらいならPUBGをやっていたほうが何倍も良いとは思うものの、物事をほどほどにしておくということができない性格なので、PUBGに手をつけるわけにはいかない。
学生の頃、週に一度、原宿にある飲食店でアルバイトをしていた。原宿といえば、我々がイメージする通り、オシャレをした若者たちが闊歩する街だ。気合を入れてめかしこんだ人物がガードレールに腰掛けてストリートスナップの撮影班に声をかけられるのを待っているところもよく目にした。
原宿には人を自意識過剰にさせる雰囲気が漂っている。元々オシャレに興味がないわけではなく、中高生の頃からSmartやBoon、MEN’S NON-NOを読んでいたクチで、少なからずオシャレになりたいという願望があったから、原宿に行く度に芋っぽい風体をした自分がなんだか情けなくなった。
現在はどうなのか不明だが、当時の原宿という場所は非常にコンペティティブな空間だったと記憶している。そこではオシャレというゲームが行われており、人はそのゲームに参加するためにそこに集まっているように思えた。なまじっかオシャレになりたいという願望があるから、そうした空気に当てられてゲームに参加したつもりなどないにも関わらず、敗北感を味わう羽目になる。そもそも自分の場合、コンペティションに勝利する類のオシャレではなく、もっとコンサバであまり目立たないオシャレがしたいと考えているのだから、そんなゲームはこの世に存在しないと考えてしまっても良いはずなのに、心のどこかでつい意識してしまっている。他人の視線を内面化し、自分の選択を常に疑うことが癖になってしまう。他人の視線を内面化すると云えども、自分の価値観の枠内で、閉じた円環状の回路をただぐるぐる回っているにすぎない。一旦自分を括弧に入れて他人のセンスをシミュレートしたものではないからだ。
負け犬根性が抜けない人間はコンペティティブな場に近づかないのが吉。ゆえにTwitterにも近づかないほうが良いのだが、やはりついつい見てしまう。Twitterを見ていると、その雰囲気に当てられて、面白いことやクリティカルなことを呟いてプロップスを集め、人気者になりたいという願望をあたかも始めから抱いていたかのような心持ちになり、次第にその願望と実際のギャップに心がもやもやしてくるというのがお決まりのパターンだ。
モテたことを人から自慢されるとなんだか悔しくなるのと似た話だといえよう。誰かの浮ついた話を聞いているうちに、はじめから自分もモテたいという願望があったかのような錯覚に陥るが、果たして実際そうなのか。なにかの本でこんなジョークを読んだ記憶がある。男が太平洋上で飛行機の墜落事故に遭い無人島に漂着する。無人島にはなんとあのマドンナも漂着していた。二人は男女の仲になるが、男はマドンナにあることを懇願する。それはマドンナに男装してもらうことだった。困惑しつつも男の願いを受け入れたマドンナに彼はこんなことを言った。「聞いてくれ!俺はマドンナと寝たことがあるんだ!」
欲望の三角形ではないが、我々は他人が欲するものを欲してしまうのだ。けれども、自分の欲望が他人の欲望に振り回されていると考えるとなんだか気持ちが悪い。有名人とのツーショットをInstagramにアップしたり、様々な女性と関係を持ち、そのことを男友達に自慢したり、インフルエンサーから好意的な評価を受けたりしたいのだろうか、自分という人間は。どこまで自分の欲望でどこから他人の欲望なのか。その境界をはっきりさせようという企てはきっと徒労に終わるであろう。そんなものを考えたって答えがでるわけがない。でるわけがないのだから、こちらで好き勝手に言い張ったってなんの問題もなかろう。
非リアや非モテという言葉がある。生において、リア充であること、モテることのプライオリティが決して高いとはいえない人間であっても、そのようにカテゴライズされてしまうことがある。我々は、非リア、非モテという立場を受け入れ、そのうえで様々な創意工夫をし、それなりに楽しい生活を追求しがちなのだが、これではただの良いカモだ。参加者が多ければ多いほど勝者の取り分は多くなるから、そのゲームにおいてより多く得をしたいと考える者は、表立って強制はしないものの、我々が知らず識らずのうちにそのゲームに参加するように差し向ける。これはリボ払いが初期設定になっているクレジットカードのようなもので、非常に質が悪い。
我々が生きていくうえで、リア充であること、モテることなど自分には一切関係の事柄として無視したって何も問題ないのだから、そんなゲームには参加しないという手段だってある。はなから参加していないのだから、勝ちも負けも関係がない。それは不戦敗でもなんでもない。「本当はモテたいんでしょ?」などと尋ねてくる輩がいれば、「あなたがそうだと思うんならそうなんじゃないんですかぁ?」と返せば良い。とてつもなく大きな声で。
元々著作物などを通じてリスペクトしていた人物が、人気者たちの輪に入ることができず、SNSで人気者たちにしつこく言いがかりをつけて自らの評判を落としている様を見ると明日は我が身ではないかと心配になる。チヤホヤされたいのならチヤホヤしてもらえるようにチャームを振りまけば良いのだがそれができない。自分が参加していない飲み会で誰も自分のことを話題にしなかったことについて憤慨するようなもので傍から見れば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないのだが、そういう痛々しい大人の痛々しい姿を目の当たりにすると他人事とは思えず、なんとなく憐れんでしまう。『ボージャック・ホースマン』だとか『ロシアン・ドール』、最近の例だと『アンダン』のような、憎まれ口ばかり叩いて人から愛想を尽かれてしまう主人公たちに感情移入してしまうのに近い感覚といえようか。
YouTuberなんてさらりと「良かったらチャンネル登録と高評価、お願いしますー」と言うからなんて爽やかなんだろうと思う。欲望のいなし方がスマートだ。彼らがフレッシュなレモンだとするとこちらは熟れ過ぎてドロドロになった柿だと言える。もはや形をなしていない。周りの液状化した柿と混ざり合い、一部は容器のダンボールに吸われてしまった。今更どうすることもできない。