学生時代にある女の子から聞いた話。一人暮らしをするその子が終電を逃した男を仕方なく家に泊めた際、男に後ろから抱きつかれたという。「まじキモいからやめて」と言いながらそれを制し難を逃れたということであった。その子はそんなつもりではなかったのだが、男の方はあれやこれ理屈をこねて相手もそのつもりだろうと決めてかかりそのような行動に出たのだと考えられる。家に上げてくれたんだからそういうことだろ、とか。
「据え膳食わぬは男の恥」などという言葉があるが、何を据え膳とするかはその者の勝手だ。一度「そのつもり」になった者は手に負えないところがある。相手は到底そんなつもりじゃなくたって、論理の飛躍もどこ吹く風で「そのつもり」だけが一方的に膨らんでいく。そのつもりであってほしいという希望的観測が目に映るもの全てを据え膳に見せてしまうということはよくあることだろう。抱きついた男の行動を浅はかだと嘲りながらも、明日は我が身かとどこかで思ってしまう自分もいたりする。
翻って「そんなつもりじゃないのに」ということもある。帰宅中の夜道で前を歩いている女性に警戒されることは日常茶飯事だ。あるときは角を曲がった瞬間にダッシュをかけた女性もいた。なんだか悔しくって、いっそのこと追いかけてやろうかと思った。この女性のことを自意識過剰だと言って笑うことは容易い。しかし、立場が逆になったときに初めてわかるそのときの恐怖というものもある。
ある土曜の深夜、近所を散歩しているときにわりと大きな公園の中を横切った。遠くに何人かの男の姿が見えた。ヤンキーだったら怖いなと思ったが知らんぷりして通りすぎることにした。男たちは一箇所に集まっているわけではなく、微妙な距離を保って点々と散って立っていた。それぞれ知り合いでもなさそうだ。なんだろうこの雰囲気はと訝しく思った。もしやこの公園は、と思った瞬間背筋が凍った。不審がられてはいけないとさりげなくしかも迅速に出口へと向かった。公園を抜けた後はひと通りの多い道を歩いて家まで帰った。
今にしてみれば公園にいた男たちはただそこにいただけであって物事をイノベートするつもりなど皆無だったのかもしれない。しかし一度思い込んだら実際の所などはそっちのけで、 ただ戦慄くのみとなってしまう。それはおまえが自意識過剰で被害者意識が強いからだと責められたところで怖いもんは怖い。こういう体験をするとダッシュをかけた女性のことも一方的に責めることはできない。
似たような話をもうひとつ。Emily likes tennisと遠征に行ったときのこと。一日目の静岡でのライブを終え、我々は遠征の定番コースであるサウナへ向かった。風呂に入って垢を落とし休憩室で寝ることにした。その日の朝が早かったこともありスムーズに入眠できた。
明け方、ふと目覚めると薄暗がりの中に褐色のものが浮かんで見える。それが半裸の男だと気づいた瞬間私の肝は潰れた。恐る恐る目を凝らすとパン一の男が隣で横になっていた。体が強張った。一刻も早くこの場から立ち去らねばならない。なんでもないような仕草で体を起こし、ひとまずトイレに向かった。付いて来られたら堪ったもんじゃないと警戒したがついては来なかった。元いた場所に戻るわけにもいかず仕方なく浴場に向かった。この選択は映画『スクリーム』で言う所の「ホラー映画で2階に逃げるヒロイン」といったところだ。浴場の戸を開けると湯に浸かったり体を洗ったりしている人が何人かいて安心する。別に浸かりたくもなかったが万止むを得ず湯に浸かった。のぼせる前に湯から上がり、脱衣所でメガネをかけると先ほどの半裸の男がいることに気づいた。ダッシュの女性を思い出し、こちらの自意識過剰かもしれないと思ったがそこは小心者、用心するに越したことはないと、休憩室に戻ると漫画の棚から不朽の名作コミック『I ”s』を手にとって灯りのついた洗面所でこれみよがしに読むことにした。「そんなつもりじゃありません」という精一杯のアピールであった。主人公の幼馴染いつきがアメリカから帰国し主人公宅での居候を経て一人暮らしを始めるあたりを読んでいた。気配を感じてふと顔をあげるとそこに半裸の男がいた。しかし『I ”s』を手にした私は強気であった。
この『I ”s』はな、昨日今日の『I ”s』じゃねぇんだよ。こちとら何度も何度も読み返してんだよ。そういう積み重ねがあった上でまた読んでんだよ。それがどういうことなのか貴様にわかんのかいえぇ!そういった鬼気迫る読みの姿勢が伝わったのか半裸の男は去っていった。私は続きを読んだ。
消灯時間が終わり灯りがついたため休憩室に戻って横になることにした。十分に睡眠時間が確保できていなかったため眠りに落ちてしまった。目覚めるとやはりそこには彼がいた。『I ”s』は徒労であったか。
今となっては半裸の男がどういうつもりであったか知るよしもない。思えば『I ”s』もすれ違いの話であった。「つもり」が上手く合致することは非常に稀なことなのだ。
”僕は照れて愛という言葉が言えず、君は近視まなざしを読み取れない”
松本隆先生の「さらばシベリア鉄道」の一節である。こういうものに対して「言葉にしなかったら想ってないのと一緒なんだよ」などと云う人いてアメリカ人か!とツッコミたくもなるが、かようにすれ違いばかりの世の中では誤解を生まないような直接的な表現でのやりとりを是とする考えが広まるのも無理はない。そんな状況において、半裸に『I”s』で返答するというやりとりは一見ちぐはぐではあるが、そこに幾ばくかの奥ゆかしさを感じたりしないでもない。