薄いカルピスで乾杯

オレンジジュースを飲み干し空したコップに水を注いで飲んだときの仄かに漂うオレンジの酸味がなんとなく癪に触るのと同じように吝嗇家の振る舞う薄いカルピスにも腹が立つ一方で人が飲んでいる焼酎の水割りを勝手に一口飲んで薄いねなどと言われると馬鹿にされた気がして口惜しいことこの上ないし今度は眼鏡を奪ったかと思うと掛けてみるなりこれじゃ全然見えないわなんぞと云って誰も頼んじゃいない寸評を添えてくる輩にもまた苛々する。そこらじゅうに癪の種が散らばっていてそれにいちいち反応していたら四六時中腹を立てていることになるがいきり立って余裕をなくすことほど人を醜くするものはないから心はなるべく平穏に保っていなければいけないがたまには怒ったところもみせないと間抜けの烙印を押されることになるのは学校の教師を見れば明らかな所であるけれどこれを戦略的にやろうとしたところでそれほに器用な人間ではないので結局やせ我慢にすることになり世間様には涼しい顔を見せながらその水面下で腸を煮えたぎらせている不健康そのものといった状態に陥り更にこういう緊張を続けていると情緒が馬鹿になり堪忍袋の緒が切れていることにもずっと気がつかずに過ごし後になって感じる違和感の正体が怒りであってと気づきそこではじめておいちょっと待てと声を上げたところで他人からしたらあまりに突飛だし要を得ないことを口走り不審がられて終わりというのが関の山だから苛々は内側に押し込めて全部一人で処理するんだと決め込んで機嫌の悪いときはチキンラーメンを湯で戻さずそのままボリボリ食べるに限る。これが私のストレス解消法ってとこ。でも寝る前にこれをすると夜中にすっごく喉が乾くんだ。

人の多い所を歩いていると横並びでちんたら歩いてんじゃねぇよとかいってぇな肩ぶつけてんじゃねぇよとかなんとか声に出さないにしてもとにかくガラが悪くなりがちだ。昔、新宿のFlags前で「アタシ人混み嫌いなんだよねー」と連れ合いの者に言っている人がいて「なぁに抜かしてやがんだい。他人からしたらオマエさんもその人混みの一部だよ。人混み風情が人混み嫌いと来た日にゃ」などと思ったりもしたが、人混みというものは斯様にエゴを肥大化させるきらいがある。しかし人混みの中にいてもそれに出くわした瞬間にエゴが希薄化するものもあったりする。例えば夕立だ。渋谷で夕立に降られて周りの人と軒下に駆け込んで地面に落ちた水が川になって駅の方に向かって流れていくのを眺めているときなんかにそれを感じる。大雪とか強風なんかの悪天は大抵どれもそれに似たようなものを感じさせる。

しかし天候なんぞは序の口でもっと強烈なのは怒りを露わにしている人物にでくわしたときだ。以前新宿の喫煙所で携帯に向かって大きい声でダメ出ししている四十がらみの男性が視線を集めていた。そういう場面では、怒っている人との関係を「その人対自分」とは考えず「その人対(自分も含めた)周りにいる全員」というふうにどうしても考えてしまう。そこにはなんとなく「空気」というようなものが形成されているように感じる。

私はこれを悪用しようと考えた。駅のホーム階段付近でピヨピヨ、ピヨピヨという小鳥のさえずりをスピーカーから流すのは溢れかえった通勤客で殺気立つ空気を和らげるのが目的であるという間抜けた勘違いをしたときにそれを思いついた。ピヨピヨなどという癒し系のSEじゃぬるい!満員電車で殺気立ったおっさんの呪詛を流したほうがよっぽど効果的だ!と考えたのである。それを聞けばいくら苛々している人と言えども我に返って冷静になるだろうという魂胆があった。

しかしそんなのはまやかしにすぎない。人は本来美しい心をもっているはずだ。小鳥のさえずりに何も感じなくなったら心が死んでいると思っていい。世界はチュンチュンワールドでなくてはいけない。なぜ鳴くのと尋ねられたらカラスの勝手でしょと言える大らかさが肝要である。気持ちが荒むことがあればチキンラーメンをボリボリ食べ、喉が乾けば薄いカルピスで乾杯。

 

JET SETでDJをする

先日の下北沢インディーファンクラブの番外編で不肖鳥居が30分間DJをするというイベントがありました。ご来場頂いた皆様、誠にありがとうございました。こんな馬の骨のDJに時間を割いていただいた奇特な方々には感謝しても感謝しきれません。
イベントの説明をしますと、我々の「エキサイティング・フラッシュ」を取り扱っていただいているJet Setさんのご厚意によりJet Set下北沢店の店頭にてDJをさせていただいたのです。もちろん私個人がオファーを受けたものではございません。バンドにオファーがあったのですが先日の企画において選曲人を務めたことから選曲担当の位置を我が物とする私が当然のごとく名乗りでたのであります。言うは易く行うは難し、既得権益とはなかなかに手放すことが困難であるものだということが身に沁みる一件でありました。
名義についてはメンバーにより”DJとりーぱみゅぱみゅ”やら”DJのとりいあす”やら色々案が上がりましたが本名でいこうと決めました。トリプルファイヤー(鳥居真道)ぐらいのつもりでいたら、鳥居真道(トリプルファイヤー)になっていたので驚きました。告知では錚々たる方々に囲まれてただ一人()すらないただのフルネームとなっていて更に困惑しました。
DJをするのは初めてというわけではありません。高校生の時分に友人が開催していたイベントでスピンしたことがあります。田舎の高校生がやるものですから決して本格的なものではなく、カラオケ屋の広い部屋を借りて機材を持ち込んでやるというような小規模なものです。本番の日に向けて機材一式を持った友人宅でその使い方を覚えました。十分に練習する時間があったのでBPMを合わせ曲と曲を被せる所謂”つなぎ”を習得したりもしました。
それも8年も9年も昔の話。DJに関する一切のことを忘れてしまったのでインターネットで”DJ入門”などと検索して機器の使い方を復習していたのですが、当日Jet Setに伺うとお店の方が親切にレクチャーしてくれたので前日までの不安も杞憂に終わったのでした。どうもありがとうございました。
選曲に関してはやはり悩みました。ドンと「鳥居真道」の名前で告知されたのをいいことに開き直って個人の趣味全開でいこうとも考えましたが、バンドでやっていることと関連性の弱いものをかけるのも何だしということで、バンドに加入しなかったらおそらく手に取っていなかったであろうプログレ~カンタベリー~レコメン、ジャーマンプログレでいこうと決めました。万が一CDJがなかったときのために家にある7インチを全て持って行きました。
当日流したものは以下となります。
1. Caravan / If I Could Do It All Over Again,I’d Do It All Over You
2. Gong / Eat That Phone Book Coda
3. Picchio Dal Pozzo / Strativari
4. Zamla Mammas Manna / Knapplosa
5. ZNR / Avrile En Suede
6. Aksak Maboul / The Mooche
7. Aksak Maboul / Vappona,Not Glue
8. Moebius & Plank / Two Oldtimers
9. The Beach Boys / Dance,Dance,Dance
10. The Ronettes / Be My Baby
11. Tom Tom Club / Wordy Rappinghood
1,2曲目はなかなか良かったと思います。3曲目のイタリアのパンド、ピッキオ・ダル・ポッツォを流しているときに見に来てくれていたお客さんがざわついたので、途中でやめてスウェーデンのバンド、ツァムラ・ママス・マンナ(a.k.a.サムラ・ママス・マンナ)に。5のゼッテンネールはかけたかどうか記憶が曖昧です。かけたような気がします。8曲目がわりと長めの曲で余裕ができたので、予定を変更して7インチをかけることにしました。しかし今となっては8と9の関連性の薄さと落差がちょっと心残りです。イギリス→フランス→イタリア→スウェーデン→フランス→ベルギー→ドイツときていきなりド直球のアメリカンポップスですから必然性があまりにも薄すぎます。最後はたまたまCDケースに入れていたトム・トム・クラブを流しました。そうするとお店の方が本日3度目だと教えてくれました。森は生きているさんとミツメさんが流していたとのことです。
久しぶりにDJをして気づいたことは割りと手持ち無沙汰になるということです。DJをやられる皆さん何をしていらっしゃるんでしょう?
需要に関しては全く自信がありませんが、「私しゃ富山の押し売り男 エー、エー、毒消しゃいらんかね」ということでまた機会があればやってみたいと思ます。

 

許すな!人工甘味料

小二ぐらいまでお腹が減るということがどういうことなのかわからなかった。給食の時間が近づき、誰かが「あー腹減ったー!」などと言い出す度になんだそれは?と思っていた。ある日、腹に違和感がありすぐさまピンときた。これがお腹が減るということなのかと。体育の授業が終わり、三の門付近の奇数学年が使う昇降口前の手洗い場のそばを歩いていたときのことだ。たしか曇り空の日だった。

この歳になってよくよく考えるとそれがどういうことなのかわからないものがある。美味しいということだ。ただよく考えなければわかるような気もする。カレーは美味しい。しかし美味しいカレーはわからない。けれども美味しくないカレーはわかる。となると美味しいとはまずくないことを言うのか。それではあまりに色気がなくはないか。仮に女の子と食事をする機会があったとして、イタリアンか何かを食べるとする。運ばれてきたパスタを一口食べて、「うん、まずくないね、これ!」などと言ったらその子はどんな顔をするだろう。

一言で言って味音痴な自分にも、口にすると嬉しくなるものが何個かある。油と塩と砂糖だ。もちろんこれらをダイレクトに口に入れて「うひゃあ、たまんねぇ」と言って、多幸感に満ちた台所で涎を垂らし恍惚としているわけではない。それらがふんだんに使われた調理済みの食べ物または飲み物が大好きなのだ。なのだ!と胸を張って言うことでもないけれど、それだけは確実なことだから仕方ない。

で、砂糖。天使の白い粉。砂糖礼賛。アメリカ人風に言えば、Sugar rules!しかし気づけば甘み界隈にも悪貨なんとやらの由々しき問題が発生している。いつからなのかはわからないが不届きな砂糖の紛い物が世に蔓延っているではないか。 アセスルファムカリウムやらスクラロース、クロポトキンとかポチョムキンとかなんとかよくしらん。清涼飲料水、炭酸飲料水、缶コーヒーによく使われているあれだ。甘くないからと言って油断してスナック菓子を買うとかなりの割合で使われてるので驚く。

何がイヤってあの妙な後味。山椒を食べた後に舌がピリピリスースーするのに似た感じと言えばいいか。あのピリピリスースーには人を現世に引きとめようとする力が働いていて、天国まで導いてはくれない。チラ見程度で終わりだ。あんまり幸福になると後がつらいよと言われているような気になる。だいたいカロリーオフだの何だの余計なお世話で、そういうのはこっちで勝手に総量で調整するからほっとけよと思う。連れてけよ天国、と思う。

しかし偽砂糖だけには舌が敏感に働くのは奇妙といえば奇妙だ。砂糖を欲する気持ちゆえか。

世の中にはバタ臭いものに対して鼻が利く人がいる。舶来品好きだとこういう人とよく喧嘩になる。自分の人工甘味料及び合成甘味料に敏感な舌みたいなもんかと考えてみると、少し冷静になれる気がするが、それはまた別のお話。

 

権威主義

権威主義、と書いたそばから顔を赤らめています。音読みの漢字が3文字以上続くとどうも調子が出ない。

しかしなんと厳つい言葉だ。字面からして戦国武将の鎧兜のような質感を携えておりヘラヘラしながらその言葉をつぶやいたのならその重厚さに耐え切れずたちまち膝が折れ自力で立ち上がることができなくなってしまうだろう。その言葉を口にしたら最後、今年の夏、ビーチでビキニ姿の美女の背中にサンオイルを塗ったり、戯れにスイカを割ったりして仲間とはしゃぐというような夢想は諦めるほかない。重厚はバカンスを遠ざける。

君がもし今年の夏も多摩川あたりで開かれるバーベキューパーティーに誘われるあてなどなく、例年のごとく冷房の効いた部屋で100円アイスの溶けた残滓が染み込んだ平べったい木のスプーンを舌で弄んで、日焼けした肌に汗を光らせる高校球児たちが白いボールを追う姿をテレビ中継で眺めながらも、バーベキューの招待状が届くことをまだ諦められずにいるのなら、その言葉は決して口にすべきではない、と恥ずかしさついでに英文翻訳調にしてみた。

長いものには巻かれろ的なぬるい性格を批判するのはわかる。それはすこぶる良心的なことだ。ただ気になるのは、その言葉を使う人が、「おまえんとこのよりうちのおとっちゃんのが偉い」という風に他のトライブとのいざこざでそれを使いがちという点だ。いざこざの根本にあるのは他のチームは認めねぇよというよくあるファン心理みたいなもので、これは別段どうということはない。しかし、そこで使われるのがなんとも物々しくて心臓に悪く、且つもっともらしい言葉であるということと、自分も似たような性格であることをいともたやすく棚に上げてしまう鈍感さがどうも気になってしまう。こういった重厚を携えた鈍感さの末路は居酒屋の便所で男性用便器を前にした時に目線にぶつかる「親父の小言」として目にするところだ。

例えば「ディランを聴く奴は権威主義者。俺は権威主義者ではないからディランは聴かない。」なんて人物がいたとしたら、その人物はどう考えたってガッチガッチの権威主義者だ。こういう自覚なき権威主義者ほど、他人を捕まえて権威主義とか言うものだ。こういうデタラメがまかり通る世の中に思わずコータローもビックリ。

「なんだ偉そうに!調子のんな身の程知らずが!」と言って上から目線を批判する人の下から目線が対象と同じ程度に偉そう、というよくある話に似ている。しかしこの目線を下にした場合のガードは相当に強い。そうそう破れられない。おまけにセンチメンタルという切り札もある。これを出されたらもう終わりだ。赤兎馬に乗った呂布が現れたと思ったほうが良い。しかもその呂布は一人だけではない。呂布が呂布を呼び気づいたら辺り一面呂布だらけだ。恐ろしい。

 

冷房闘争と打ち水

街に冷房がつき始めて数日が過ぎた。毎年のことではあるけれど、どこもかしこも冷房を効かせすぎだと思う。喫茶店などに入っても寒くて長居ができない。回転率を上げるための策略かと勘ぐってしまう。だいたいどこも何か一枚羽織ってちょうど良い温度に設定されている。今日はカーディガンを一枚鞄に入れて出かけた。建物に入るとやはり寒く、くしゃみ鼻水が止まらない。そこでカーディガンを羽織った。嗚呼、フェミニン。

冷房がガンガン効いた部屋で平気でいられる人はワイルドだと思う。 冷房ひとつとってみても、世の趨勢はワイルドが優っているように感じる。雨の日でも傘をささない人、ハンカチを持ち歩かない人、そもそも手を洗わない人、酔っ払って道端に寝る人、コンクリートを齧る人、塩もふらず虫を食べる人、我々はそういう人らに囲まれて暮らしている。冷房の温度設定も自ずとワイルド仕様になろう。

例えばスギちゃんといった極端なワイルドが世の中を牽引することで中間層のワイルド値が底上げされる。いわゆる「ワ傾化」というものである。一頃、草食系男子という言葉が流行していた。これは草食系男子が増殖していたわけではなく、ワイルド寄りの世の中において相対的に目立っていただけの話だ。中間ワイルドが世の主流になったために冷房の温度も低くなったのだ。

ワイルドの特質のひとつに無頓着であることが挙げられる。しかし中間ワイルドには多分に神経症的な向きがある。ワイルドでなくてはいけないという強迫観念がどこかでつきまとっているように見える。だから多少寒くても冷房はできる限り低く設定しなければならない。そうなるとリモコンを巡る主導権争いも生まれる。リモコン闘争による治安の紊乱を危惧した体制は「エコ」を名目として「冷房は28度に設定しましょう」という御触れを発した。しかし現場からは不満の声が続出である。そのガス抜きとして提唱されたのがクールビズだ。闘争に身を投じるか、アロハを着るか、カーディガンを羽織るか、我々は今選択を迫られている。

昨年の夏、我が家のエアコンから水が漏れるようになった。エアコンがエコに色気出しやがって打ち水大作戦ときたからいい気なもんである。おかげでエアコンの下に置いてあった雑誌は河原に捨てられたエロ本のような有様になってしまった。ポタッポタとかピチョンピチョンとか音がすれば気づくものだが、壁伝いに静かに流れるので気づいたときにはもう遅い。室内に水たまりができていた。業者を呼んだり不動産屋に連絡するのも億劫だったので応急処置としてちり紙とガムテープで経路を作り、バケツに水が溜まるようにした。そのときの写真が左の画像だ。なんとも情けない有様である。エレガントとは程遠い。しかし見た目以上に水漏れのペースが速いのが問題であった。こまめに捨てないといけなかった。何の節約になるかは知らないが、トイレのタンクに水を捨てるようにした。これが非常に面倒だった。何より気になって仕方がなく、インターネット活動にもいまいち身が入らない。何か対策を打たなければいけなかった。

家にはもうひとつ大きいサイズのバケツがあったのでそちらに貯めることを考えた。上の画像では見切れているが、バケツの下にあるものはブックシェルフスピーカーだ。この上に大きいバケツを置くのはサイズを見るに心もとない。そこで経路を拡張し床に設置したバケツまで届くように工夫した。それが右の画像である。 ダンボールを細く切って谷折りにしたものを何本か繋げ、上からガムテープを貼りウォータープルーフ仕様にした。この排水システムが完成したのは夏の暮であった。1週間もしないうちにお役御免となった。それから模様替えをしてかつてスピーカーが位置した場所には本が山積みとなっている。今年の夏も水漏れが起きたら大惨事となってしまう。根本的な解決策として、エアコンをつけずに夏を乗り切るか、引っ越すか、我々は今選択を迫られている。