アボカド考

やっぱりどうしても納得がいかない。アボカドだ。

いつどこでそれを覚えたのかは定かではない。最初にアボガドと覚えたもんだから、本当はアボカドなのだということを知っても、聞かなかったことにしてアボガドで通してここまでやってきた。

だいたいアボカドって言い難くないか。試しに「アボカド」と10回唱えてみると、7回は失敗だった。「カ」。これが曲者だ。「ボ」と「ド」という濁った音に挟まれているせいもあって、釣られて「カ」も濁ってしまう。しかし、そうであれば、ある意味で「ガ」のほうが理に適っているとも言えないだろうか。「あたらしい」っていうのも元々「あらたしい」だったそうではないか。そういう例は山ほどあることだろう。そういうものだと思ってここは一つ「ガ」ではダメか。

山崎さん。一口に山崎さんと言っても世の中には”やまさきさん”もいるし”やまざきさん”もいる。こっちのが俺的に呼びやすいという理由で、”さき”にされたり”ざき”にされたら山崎さんも困るだろう。やまざきさんはやまざきさんなのだし、やまさきさんはやまさきさんなのだ。そういうことを考えると、個人の勝手な理由でそれをアボガドと呼ぶことにためらいがないわけでもない。

しかしアボカドは外来語である。誰が決めたのかは知らないが、アボカドというのは日本独自の呼び方であって、厳格なルールの元でそう呼ばれているわけではない。だから変更も可能であるはず。昔デビッド、今デヴィッド。こういった表記の変更はよくあることだ。また、ピーター・バラカンがアレサのことをアリーサと呼ぶというような例もある。だからアボカドにもまだ考える余地は残されているはずだ。

アボケイド。調べてみたところアボカドのスペルは”Avocado”であった。少し本格的に読めばアボケイドだ。「ディケイド」式の読み方である。これでアボカドより幾分言いやすくはなったと思う。問題の「カ」を「ケイ」にすることで舌が回るようになった。いっそのことエイボケイドではどうだという案もあったが、過ぎたるは及ばざるが如しで、それでは親しみやすさが薄くなってしまうので却下した。本格的な発音は顰蹙を買うということを配慮した結果だ。

・アボケイドバーガー
・海老とアボケイドのサラダ
・じゃがりこアボケイドチーズ味

こうして実際に使用してみるとなんだか無機物っぽい響きに思えてくる。あまり美味しそうではない。やはりアボカドが無難なのか。

ここは折れることにしよう。 アボカド。やはり問題は「カ」だ。次第に「カ」を意識する余り、最後の「ド」が濁りきらず、「アボカト」になってしまうようになった。「ド」をきちんと発音するには肚に力を入れないといけない。ここで気がついた。結局、肚の力の弱さが全ての原因だったのだ。

色々と難癖つけてアボカドをアボガドやアボケイドと呼ぼうとするのは一重に自分の肚の弱さを認めたくないからだ。思えば、肚が据わらないことでこれまで多くの失敗をしてきたし、それで恥もかいてきた。しかし、それに正面から向き合おうとはせずに常に目を逸らして生きてきた。そんな己の弱さを棚に上げて何を偉そうにやれアボガドだ、やれアボケイドだ、 阿呆かと。

アボカドはアボカドなのだ。やまさきさんがやまさきさんであるように、やまざきさんがやまざきさんであるように、アボカドもまたアボカドなのだ。現実を受け入れろ。肚に力を入れろ。10回きちんと言えるようになるまで唱え続けろ、アボカドと。

納得のいかないものはホワットの「ホ」や「ドッチ」「ドッジ」「ドッヂ」ボール問題、ハンターハンターに登場するキャラクターの名前なども残されているが、アボカドアボカドアボカドで今はそれどころではない。

アーニー・K・ドー ”いじわるママさん”

 

男性用便器に顔を埋めて考えたこと

先日参加した打ち上げ二次会の最中、ふらふらしながら向かった便所で意識が暗転して、気がつくと目の前に小さな穴の空いたオフホワイトの陶器があり、それはすなわち便器の底だったわけで、今まさに自分が便器に顔を突っ込んで倒れているのだと理解した。それは非常にショッキングな出来事だった。体勢を直すと視界がぐるんぐるんぐるんとなっているし、顎と膝も痛む。情けない。
こんなことは飲み過ぎたときの失敗談の一つとして打ちやっておけばいいことかもしれないが、今こうしていても依然として目の前には便器の底があるように思え、落ち着いて考えれば生活・暮らしぶり全般が使い古しの便器に頭を突っ込んだようなものである気さえする。そういった現状を甘んじて受け入れて改心しこれからは努力して生きて行かなければと思った。
過日、バンドで出演したイベントで自分たちの出番の前にライブをしていた方が「俺はいかにして馬鹿に見つからないように自分のやりたいことだけをやっていくかってことを課題にしている」というようなことをMCの際に言っていた。 こういうことはなかなか言えるものではないと思う。なぜなら角が立つから。しかし、その言葉を聞いてなんだか元気が出た。ここは有り難く便乗させていただきたい。
「馬鹿に見つかる」ことの具体例としては、箸にも棒にもかからぬ馬の骨ブログでその発言を引かれ真意を捻じ曲げられることが挙げられるかもしれないが、まあそれはいいとして。よくないかもしれないが。
「馬鹿に見つかる」というと、どこかから馬鹿の一団が群がってきてああだこうだ好き勝手に思い思いのことを口にしている状態とも思えるが、それだけで済む話であればその後に「自分のやりたいことだけやっていく」とは続かない。やはり人には、人情または業ともいうべきものがあって、称賛の声に気を良くしていらぬ色気を出したり、反対に石を投げられて我を忘れたりということがあるし、思い上がった結果腐る、余計なしがらみにがんじがらめになるうちに本来のあり方を失う、ということが必ずついて回るからなるべく見つかりたくないのである。それは観光地やテレビで紹介された飲食店、深夜からゴールデンに進出したテレビ番組の末路でよく知るところだ。
ちなみに「ブレイクすることは馬鹿に見つかること」と言ったのは有吉弘行で、これは頭の悪い視聴者に見つかることについて言及したわけではなく、業界内のミーハーな人間から人を舐めたような仕事のオファーが来ることを指してこのように言ったそうだ。
「馬鹿に見つかる」という言葉ももはや馬鹿に見つかった感がなきにしもあらずなのだが、他人のことばかり言って、自分の中に馬鹿を見つけるという作業をないがしろにするなら小インテリなんかやめちまえと思うこともあるが、そのことについては今は捨て置きたい。
周囲の声など気にせず元気にワーイとやっていければ万々歳であるが、そこまで人間ができているはずもないわけで、だから、そもそものところを確認すべきだと考えた。大瀧詠一がサンボマスターの山口隆とで行った対談の際に言ったこと。

山口 はっぴいえんどは音があまりにもオリジナルすぎて、当時の日本では誰にもウケないだろうなとか……そんなことは思ってないでしょう。
大瀧 他人にどう思われようとか、そのようなことはゼンゼン。俺は永遠に、未だにずーっとイーハトーブの住人だよ。それ以外、考えたことない。この中から、俺は一ミリも出たことがない。他人がウケているから自分もウケようとか一切思わない。
(中略)
あのね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も他のいろんな名作も、生前には出版されなかったんだよ。本人は自分の作品がこんなにウケているんなんてぜんぜん知らずに死んだんだ。それでもクリエイティヴィティを失わないで、創作し続けたそうなんです。(Quickjapan65号)

ほだほだ、ウケるウケないなん知らぁすか!(三河弁)と言い、「オレの表現」というようなものに拘泥して意固地になるのは早合点で、これは特に避けたいことである。そういうものに固執して本人は純度のようなものを高めているつもりであっても、結局それはただの怠慢としか言えないことが多い。続いて、『橋本治という行き方』に収められている”「自分」を消す”というエッセイで橋本治が書いていたこと。
曰く。古典芸能の世界において主体は「やる自分」にはなく、あくまで古典芸能の側にある。「自分」が出るというのはシロートのやることであり、それは非常に恥ずかしいことで、”古典芸能をやるのに重要なのは古典芸能それ自体が持つ本来性なのだ”という。
そして、それは何も古典芸能に限った話ではなく、ひょっとすると表現一般に関しても同様に思っているかもしれないと続く。”「自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重したほうがずっと確実である”。しかし、それの言いなりになり、ただ従うだけであれば、「自分」は排除され「本来性の番人」になってしまう。そうなったときに自分が守ろうとしている本来性がそれに値するものかどうかという判断はつかなくなる。そこで一度本来性の中に入っていくことが肝要となる。以下引用。

本来性というのは、支配者ではなくて、存在に関するフレキシビリティである――私はそのようにしか考えないから、本来性というものは、「自分を活かしてくれるもの」である。それの番人になって、ただ「本来性」として守られるためだけに存在している本来性を守ってもしょうがない。本来性は「自分」の外側にあり、そうである以上、「自分」というものは、常に本来性から排除されている。だから、一遍は本来性の中に入らなければいけない。そのためには、本来性との間で違和を成り立たせる「自分」を、一遍殺さなければならない。そうやって本来性と「自分」とを同化させて、「自分とは無関係に存在させていた本来性」を、「自分を活かすための本来性」に変える――この”変える”のプロセスが、「仏にあったら仏を殺せ」である。私はそのようにしか考えない。
「仏を会ったら仏を殺せ」という素敵な文章に出っ喰わしたのは、三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいた時で、《仏に遭うては仏を殺し、祖に遭うては祖を殺し、羅漢に遭うては羅漢を殺し、父母に遭うては父母を殺し》と、えんえんと続く。今の人は短絡しているから、本当に父母を殺したりもしてしまうが、つまりは、「意味を殺す」である。
「自分」の外側には、強大な「立ちはだかる」とも思えるような「意味を発散するようなもの」がある。つまりは「幻想」である。「幻想だから壊してしまってもいい」と思うと、「すべては幻想である」という接続パイプによって、なんにもなくなってしまう。もう少し冷静になるべきで、それが「幻想」でしかないのは、それが「こちらを排除する形で存在しているから」である。だから、「そこに入る」が必要となる。入って、「自分を排除していた要素」を殺す。それが、「仏に会ったら仏を殺せ」である。そんなにめんどうなこととも思えない。

”本来性というのは、支配者ではなくて、存在に関するフレキシビリティである”というところがミソで、「本来性」をたった一つの「正解」のようなものと考えると何だか非常に窮屈で邪魔臭いものに思えてしまうが、先の引用のように書き換えが可能である柔軟なものと考えればなんとかなりそうなものである。
そして、前後の脈略をすっとばして、再び大滝詠一の他の発言。ロンバケ30周年を記念したレココレ誌上のインタビューより抜粋。

羽生(善治)とか渡部(明)が研究してる升田幸三っていう棋士がいるんだけど、その升田を評して谷川元名人が言っているんだよ。素晴らしい棋士には三要素ある、と。まず勝負師という一面。芸術家という一面。そして研究家という一面。この三つのバランスがとれている人が名人なんだ、と。これはなかなかいい話だと思って。音楽家には研究家が多いんだが、あなたが言ったのは、研究家には芸術家の面が足りないっていう意味なんだと思う。(※)で、芸術家の人って、特に日本では研究面が足りないんだよ。かといって、研究家が勝ちすぎてる人は勝負が弱い。芸術面も研究面も今いちなんだけど、勝負だけできてる人もいる。これが三位一体っていうのは大変なことで。(中略)でも、日本ではね、研究家の人が芸術家でもあると嫉妬を買うのよ。ここが研究家のつらいところなんだな(笑)。しかも、勝負師の面を隠さないといけないのよ。で、研究家で芸術家で勝負師だっていうのがバレたとたん一気に嫉妬を買う。
※当時、ポップスをやっているミュージシャンはコンセプトなどは面白いにしても歌手としてのパフォーマンスがきちんとできていた人は少なかったのではないかという聞き手の意見を受けて。

これはどこか心当たりがあっておもしろいなと思った。また大滝詠一は自身のコロムビア時代を踏まえて「研究家で芸術家の人は時々勝負に負けるとかして嫉妬を買わないようしなとね(笑)。特に日本では。でないと、ただただ石を投げられるという現状があるんだよ。」とも冗談交じりに語っている。
話は前後して、先の引用に嫉妬という言葉が出てきたが、人に嫉妬を買われることよりももっと根深いのは自分が誰かに嫉妬することのほうだ。世の中には偉大な「ジェラスガイ」もいたりするが、自分のような矮小なジェラスガイは嫉妬するとロクなことを起こさない。そこでまた別の人物の、頭に冷水を浴びせるような発言を引きたい。

「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」
と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」

立川談春の『赤めだか』からの一節で、何かと待遇の良い弟弟子志らくに嫉妬した談春に対して師匠の談志が言ったこの平手打ちのような言葉をいつも肝に銘じておきたい。

 

ポルトガル語でゴルフィーニョ

今ではもうなくなってしまったが、地元に「マンモスプール」と呼ばれる市営の屋外プールがあった。人工的に発生させる波やウォータースライダーが売り物で、夏休みは家族連れや地元のこども達で大変賑わっていた。自宅から自転車を走らせて20分程度の所にあったこともあり、小学生の時分にはよく通ったもので、一学期の終業式に配られる5枚綴りの無料券は言うに及ばず、市の広報誌に付いた無料券を近所の人や親戚に貰っても容易に使いきってしまう程であった。

あるときプールでイルカの姿をした浮きを見て、あれで遊んだらさぞかし愉快だろうなと思い、買い物に付いていったときに親に強請って買ってもらった。その翌日、友達を誘ってさっそくマンモスプールへ向かった。

更衣室で海パンに着替えたら、幾重にも畳まれたイルカを広げ、足で踏んづけると空気が送り込まれる黄色いポンプを使って膨らませていった。ポンプが硬く、膨らませるのにも一苦労であったが、空気を注入するごとにイルカは段々とイルカらしい姿になっていく。そうこうしてついに自分の身長ばかしになったイルカを抱えると、友達とプールへ駆けていった。

水面にイルカを浮かべて、片方が跨り、もう片方の者がそれを押したりして楽しんだ。水を跳ね返すツルツルのビニールの肌に指が擦れる音を聞いて、波に揺られているとなかなかに心地良いものであった。

すると突然、5、6人の男たちがわあきゃあ叫びながらこちらへ駆け寄るやいなや我々とイルカに襲いかかってきた。男たちは「トルゴーレトルゴーレ!」と訳のわからぬことを口走っており、笑みで顔をくしゃくしゃにして心から愉快といった風情であった。歳は我々とそう変わらないように見える。皆よく日に焼けていていかにも活発そうだ。どうやら南米系の少年たちであるらしい。

「彼奴らイルカを奪うつもりでいる」状況を飲み込むと我々は賊に対して必死に応戦した。その間中「トルゴーレトルゴーレ!」という叫び声は間断なくこだましていた。

最初は洒落のつもりだったのかもしれない。しかしあまりにもしつこい。賊の一人などは私の腕を掴んでイルカから引っぺがそうとしてくる。エスカレートする賊の行為に、こちらも段々と腹が立ってきてそれまで必死にしがみついていたイルカの頭を使って近くにいた奴の頭にぶつけてやった。一遍ばかしじゃ足りんと何度も何度も打ち付けた。そうすると賊の行為もヴァイオレンス色を帯び始め、自ずと表情も険しくなった。イルカをめぐる攻防はちょっとした乱闘の様相を呈してきた。もはや「トルゴーレ!」を口にする者はいない。

多勢に無勢じゃ分が悪い。ここいらで退散することにし、行こ!と友だちに声をかけ、イルカを抱え込んで水から上がることにした。最終的には軽い張り手やパンチ、キックなどのリトル暴力行為の応酬があったような気もする。賊の罵声を背に、我々はイルカを抱え更衣室へと向かった。すると背中に何か硬いものが当たった。振り向くと傍らに緑がかったスケルトンカラーのプラスチック製水鉄砲があるのが目に入った。賊の一人が持っていたものだ。それを拾いあげると、賊のいる反対の方向へ思いっきり投げてやった。ざまあみやがれと思う反面どこか後味も悪かった。水鉄砲を遠くに投げられて賊の罵声はより一層激しくなったが、意味はちっともわからないままだ。

「あいつらなんて言ってた?」
「なんかトルゴーレとか言ってたよね?」
「トルゴーレ!」
「トルゴーレトルゴーレ!」

楽しいはずだったイルカのプールデビューも散々な目に遭い、すっかり興が醒めてしまった我々二人はとりあえずイルカを萎ますことにした。地面に置いたイルカに各々体重をかけて空気を抜いていると、友だちがロッカーの下に光るものを見つけた。暗がりを覗きこむとそこには何枚か100円が落ちていた。こりゃしめた。イルカに覆いかぶさって空気を抜くふりをしながら手を伸ばして一枚一枚回収していった。移動しない手はないぜと、中途半端な形状のイルカを抱えて別のロッカーの列に移動し、同じことを繰り返した。あんまりやっても更衣室担当の監視員に怪しまれるかと思い、イルカの空気が抜けきったところでやめた。しめて700円を手に入れた。そのうちの100円をロッカー代に充て、イルカはぞんざいにしまって、再びプールへ向かった。しかしウォータースライダーなどしてもいまいち盛り上がらないので我々は帰ることにした。

拾った金を山分けして帰りに売店でフライドポテトを買って食べた。イルカはその日以来一度も空気を入れられていない。

 

どうしようもない恋の日記 Part4

ガンダムを見に行こうとメールで誘われて友人二人とお台場まで自転車を走らせたのは4年前の夏のこと。各々深夜に家を出て、渋谷宮益坂のマクドナルド前に集まった。
寝間着同然の姿で近況報告などしながら銀座六本木を行き、途中、東京タワーに寄って記念撮影をした。前年も同じようなことをしてレインボーブリッジは自転車の通行ができないことを知っていたため、我々は築地からお台場を目指した。
埋立地に架けられた橋の上で自転車を止め、欄干から身を乗り出し夜の海を覗きこむと眼鏡が落ちそうで怖かった。
眼鏡を海に落としたことはないが、ラーメンのスープに落としてしまったことならある。
それはいわゆる家系ラーメンを食べていたときのことだ。ナプキンで拭いたところで気休めにしかならず、レンズは脂で曇ったままだった。帰りに眼鏡屋の店頭に置かれている超音波洗浄器で汚れを落とした。この一件以来、ラーメンを食べるときは必ず、耳たぶと眼鏡の耳あて部分を割り箸で挟んで眼鏡が落ちないように一工夫している。
あるとき、初めて入ったラーメン屋で、用意されている箸が使い回しのプラスチック製のもので困ってしまうことがあった。運ばれてきたラーメンを前に、とりあえずラーメンを口まで運ぶための箸を手にとり、どうしたもんか考えながら固まっていた。
「よかったら使ってください。」
店員さんがカウンターごしに手を差し出した。掌には洗濯バサミが二つ。
「あ、ありがとうございます!」
「眼鏡をかけてらしたんで。」
店員さんの爽やかな笑顔。私はお辞儀して洗濯バサミを受け取り、それを使って耳に眼鏡を固定した。これで安心してラーメンが食べられるぞ。
帰りの電車に揺られながら、「サービスってのはああでなくっちゃ」と心の中でつぶやいた。
「サービスだかなんだか知らねぇけど、そういう洒落たもんに色気エ出すめエ。ンなもんが腹の足しになるってエのかい。うちはずぅっとラーメン一筋でやってきてんだ。それなりに美味いもんを出してるってェ自負もある。それで何か文句あるんなら他所へ行け他所エ。みたいな態度のラーメン屋も多いけど、飲食業もサービス業であるんだから、やっぱり、あれ、なんだか耳が痛むぞ。なぜなんだろう。」
そこでようやく洗濯バサミをつけたまま店を出てしまったことに気がついた。洗濯バサミを外し、返しにいこうかと考えたが、電車賃のことを思い、二の足を踏んだ。悩んでいるうちにだんだんと用済みとなった洗濯バサミが煩わしく思えてきた。そこで、飲み会帰りと思しきいかにも愉快であるといった調子の学生一団がいたので、その中で一番そばにいた学生が背負うリュックサックのストラップにこっそり挟んでくっつけてやった。こういう悪戯が一番心にこたえるということを我々は経験から学んでいる。

 

目撃

田舎から出てきたのが2006年の4月だから、もう7年と3ヶ月という歳月を東京で過ごしたことになる。ふとこうして考えてみると、月日が流れるのは本当に早いもの、そう感じる。それでも、いくら年月が経とうとも、都会の雑踏の中で有名人を見かけると嬉しく思う気持ちだけは未だに変わらない。

こっちに出てきて初めて見たのは「間違いない」の決め台詞で有名な芸人Nさんだった。中野駅の改札から出てくるところを目撃。学生時代にアルバイトをしていた原宿では、バイト中、店先を掃除しているときに同郷の女性芸人Mさんを見かけた。小学生の頃から彼女がレギュラー出演している土曜8時の番組を毎週見ていたから感慨も一入だった。下北沢では、ライブを観に行った帰り、会場で一緒になった友人たちとラーメン屋に立ち寄った際、テンポの良いショートコントでお馴染みのコンビEのボケの方を見たり、近頃はマラソンランナーとしても活躍中のNさんが収録している場面に遭遇したりもした。新宿では、テレビ東京で子供向け番組のレギュラーを務める吉本所属のコンビFのボケ担当Mさんや、伊勢丹の紙袋柄のセットアップを衣装にする芸人さんが私服で歩いているのを見かけたり。池袋では「アリケン」に出ていたチクワ芸人のKさんに気づいたことも。なぜだか、街中で、あ!と思うのは芸人さんばかり。

そんなつもりはないけれど、それでもちょっと、確かに、自慢かもなって、思う。

でも、有名人を見かけても、遠くから見ているだけで、声をかけたり、握手やサイン、写メをねだったりということは一度もしたことがない。そういうことをするのはドキドキするから、なかなかその一歩が踏み出せない。

昔、下北沢に住んでいた友人が体験した話。近所を歩いていると突然知らない女の子に声を掛けられたという。
 「あの、松山ケンイチさんですか?」
私は松山ケンイチさんの友人ではないから、彼が松山ケンイチさんでないことは改めて言うことでもないかもしれないけれど、確かに彼は松山ケンイチさんに似ているところがあった。「いえ、違います。」と言ってその場を去りつつ、彼は笑いをこらえるのに必死だったとのこと。

人違い。大いにありえる話。自分が今までに見かけたと思っている有名人も、ちゃんと確かめてみたら半数以上が思い過ごしだった、なんてこともあるかもしれない。そんなことを考えだすとますます声がかけにくくなる。

「あの、すいません、K DUB SHINEさんですか?」
「ああ?」
「あ、K DUB SHINEさんじゃないですか?」
「K DUBじゃねぇよ、てめぇ喧嘩売ってんのかよ、ちょっと来いよ。」
「ひい!」

こんなことも考えられる。

「あの、すいません、菊地成孔さんですか?」
「え?」
「あ、菊地成孔さんじゃないですか?」
「うん?イヤ、違うけど。」
「あ、大江千里さん・・・ですよね?」
「うん、そうだけど・・・似てるか?」
「え?いやぁ、すいません・・・。」

これは気まずい。

こんなことを考えだしたら怖くてもう声なんて掛けられない。何にも行動には移さず、「有名人を見たんだ」と心の中にだけ、そっと留めておくのが良いかもしれない、なんて思ったり。

それでも、街中で偶然見かけただけで心をハッピーにしてくれる有名人の皆さんに、感謝!です。

 

どうしようもない恋の日記 Part3

線路の上をとぼとぼ歩いていたら背後から急に電車が来たことに驚いて、カッとなり、あぶねぇなこの野郎と怒ることがあまりないのは、やはり線路内に立ち入ったこちらが悪いという意識があるから、というよりも、そもそも普段より線路の上を歩いたりしないからだ。しかし、例えば、早稲田通りを自転車で走っているときに背後からやってきた都営バスがスピードを出して、袖に触れそうな程近くを通り過ぎて行ったりすると都営だからって偉そうに運転するな!と怒ることはある。人の多い駅前通りをベンツやBMWといった購入するのに多額の費用を要する自動車が荒い運転で無理やり通行人をどかして走っているのを見ると高いからって偉そうに運転するな!と怒ることもある。アルマーニのスーツを着た人が人混みの中で他人を蹴散らしながら走っている所は一度も見たことはないが、仮にそういう場面に出くわしたときに高級スーツだからって偉そうに走るな!と思うかどうかは定かではない。大体、すれ違う人の着ているスーツをあれは高級、あれは安物、といちいち判別する能力がない。とは言ったものの、目を凝らして見れば案外それはわかってしまうものかもしれない。今まで意識しなかっただけで、シルエットや、生地のきめ細かさ、光沢、風合いなどから素人目に見てもそれが高級かどうか見分けがつくように思える。そうでなくては高級であることの存在意義がない。こういうことを言うと、いや、”タグ”にしかその価値はないよ、製品そのものはそこらの安物と違いはないさ、と気の利いた風のことを返す人もいるだろう。そういう人は「無印良品ももはやブランド化している」みたいなことを言うのが大好きだし、工夫を凝らしてカレーを作ることをライフワークとする人たちが集まって、玉ねぎは飴色になるまで炒める、ローリエは絶対使う、インスタントコーヒー、チョコレート、ヨーグルト、バナナ、胃薬を隠し味に使ってみたり、でもまあ結局、ガラムマサラってところあるよね、などとを得意になって散々話して皆満足気な笑みを浮かべている段になって、突然口を開いたかと思うと、いやでもルーの箱の裏に書かれている説明通りに作ったカレーが一番美味しいらしいけどね、などというNHKから得た情報を披露し水を差すことも忘れない。
ところで、自動車を正面から見ると顔のように見える。心霊現象を扱ったテレビ番組に出演していた人がフリップに、黒丸を3つ、正三角形を逆さにしたときに角にあたる部分に描いて、これ、人の顔に見えませんか、心霊写真ってそういうものなんですよ、というような講釈していたのを思い出す。あれはたしかテリー伊藤ではなかったか。テリー伊藤ではなかったかもしれない。細かい所は覚えていない。しかしテリー伊藤なら言いそうなことだ。いかにもテリーって感じ。あんまりテリー伊藤のことをテリーって呼ばないけど…
自動車以外にも正面から見ると顔に見えるものがある。電車がまさにそれに該当する。機関車はそうでもない。機関車を指さして、あ、ほらほら、のっぺらぼうと言う子どもがいたら、おそらくそれは機関車トーマスの影響によるものである。確かに機関車トーマスに登場する色々な乗り物には顔がついているし、そこに混じって顔のない機関車、というより現実世界の一般的な機関車が登場したらすこぶる異様で、恐ろしく感じられることだろう。しかし本物の機関車とはそういうものであって、元々顔なんてついていないのだ。夢がないことを言うようだけど。
西武鉄道の新しい車両は正面から見たときに虫の顔のように見える。虫が苦手だからあまり見ていていい気分はしない。虫は、血を吸ったり痒くしたり巣を張ったり耳元で高速で翅を高速でばたつかせて不快な音を発したり野菜を食ったり毒で攻撃したりして人の嫌がることばかりする。しかもそれらの行為をポーカーフェイスで行う。薄気味の悪いものどもである。西武鉄道の新しい車両もポーカーフェイスで不審な所もないわけではないが、今のところは運んでくれたりして人の役に立つことをしてくれている。それでも私はあの車両のことを信頼してはいない。
おまえはそうやって虫を悪く言うけどな、それは人間側の身勝手な見方ではないか、と自分で自分に問いかけてみたりも一応はする。念の為に。もしも近い将来、人類と、地下世界で独自の進化を遂げた高度な知能を有した虫とが手を結ばずには地球滅亡を免れないという局面に陥ったりしたら?そういう状況を迎えたとしても、虫と仲良くやっていく自信はあまりない。そこんとこハヤオはどう思うワケ?
以上、ヤザワでした。ヨロシク。

 

卒業

ああ 卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう
卒業式のシーズンでもなんでもないのだが、いきなり現れたるこのフレーズは松本隆のペンによる「卒業」(斉藤由貴)の歌詞の一部分である。「卒業」では、卒業式の日に進学か何かで東京へ行ってしまう男との来し方行く末を想う女の子の心情が歌われている。この女の子は卒業式では泣かない。さらに、そのために周囲の者から「冷たい人と言われそう」とも考えており、他人の目を少し気にしている。別に卒業式に対して冷めているから泣かないわけではない。
卒業というシチュエーションに限らず、周りが素直に行なっているようなことをしないせいで人から冷たい人とか薄情者とかネガティブな印象をもたれるのではないか思案してしまうということは往々にしてあることだと思う。
橋本治は憎悪というものに対して次のように言っている。曰く、「素直に通って行く筈の“好き”という感情をねじまげられると、これが湧く」。
「卒業」における好意は「冷たい人と言われそう」という他人の視線を想定した捻りが入ったものの通じてはいる。しかし、この捻りが過剰になり好きという感情が素直に通らない場合もある。あれをすればああ言う人もいるだろうし、これをすればこう言われるに違いない、などと思案するうちに神経を磨り減らし、周りからはスレた人などと言われるようになる。憎悪が外側に向けば皮肉でもって発散させられ、内側に向いた場合は自虐や卑屈という形で現れる。
「卒業」の女の子の好意が素直に通っているのは自分と相手との関係に対して本来性を見据えていたからではなかろうか。自分のことだけ、あるいは相手のことだけを顧みるのではなく、その間にある関係性の糸のようなものを中心として、そこから自分と相手というものを考えていく。関係性の糸のようなものを弛ませず、千切れない程度の力加減で気持よくピンと張らせるためには、二人の距離感の塩梅がとても肝要である。
彼女はシビアに二人の行末を捉えている。さらに関係というものが固定的なものでなくて、たえず変化するものだという当たり前のことをきちんと前提にしている。
でも もっと哀しい瞬間に 涙はとっておきたいの
「卒業」の女の子が卒業式で泣かない理由は上の通りだ。 この先の「もっと哀しい瞬間」を見据え、涙を「とっておきたい」といって保留する。それがやせ我慢であろうと、心構えは凛としており、ある意味で余裕のようなものさえ生み出していると言える。
なるほどこのような態度は素直一本槍の場において気取り屋などと揶揄されたりして「ウケ」が悪いかもしれないが、二人の関係の中に本来性を見据えることができる彼女には「ウケ」などどこ吹く風街ろまんであってほしい。

 

どうしようもない恋の日記 Part2

ある時期暇で暇で仕方のない日々を過ごしていた。というのは嘘だ。暇であったことは本当だけれど、決して仕方のない日々だとは思っていなかった。
受験生だった頃は、毎日、市の図書館に通っていたのだが、司書の人に「あの子毎日来るけどよっぽどやることがないのね」と思われてはいまいかと心配になることもあった。
体面さえ気にしなければ暇ほど良いものはない。
暇を謳歌していた当時、何かに誘われて難色を示すとどうせ暇でしょと言ってくる人がいた。こういう人と自分とでは暇に対する認識にズレがあるように思う。こちらは暇がしたくて予定を空けているのだ。こういう手合いは人の部屋に上がるなり部屋を隅々見渡した挙句、決まって次のようなことを口走る。
「ここのデッドスペース、もったいないねぇ」
一人でテトリスでもやっておけと思う。こういう輩は自分と他人の区別がいまいちついていないらしく、一度、他人の上着をおふざけで着てみたかと思うと、「これでかくない?」などという間抜けなことを言うのを聞いたことがあった。なぜ互いの体格の差をすっ飛ばしてそんなことが言えてしまうのか。おそらく、その人なりの強がりなのだろうが、なぜ強がる必要があるのか謎である。どのような精神のバランスの取り方なのだろうかと思ってしまう。
そんなことはどうでも良い。暇についてだ。確かに行動力とか積極性というものは持っていてしかるべき特性かもしれない。しかしその一方で、何もしたくないということが信条であるものぐさが生む洗練というものもある。
世に煩わしいもの。それは家事全般。ここでは洗濯を挙げたい。
洗うところまでは良い。なぜなら洗濯機がやってくれるから。洗濯機が終了の合図を出してからが問題だ。干すとなるとこれは自分でやる他ない。乾燥機のことは言わないでおいてほしい。
干すことは面倒である。いや、干すということに限って言えば案外その動作は容易いものであるかもしれないが、干すに至るまでの屈んだり拾いあげたり広げたり通したり掛けたり下げたり留めたりする動作の連続、これが非常に煩わしい。その煩わしさゆえに洗濯カゴに取り込まれた衣類はトイレに行くときに行く手を阻むもの程度にしか認識されずに放置されるのだ。
しかし不思議なものでことさら干すということをしなくても濡れた衣類というのは放っておけば自然と乾いてしまうものだ。そこで「待てば海路の日和あり」なんて呑気なことを言っていられれば良いのだが、実際のところはこのようにして乾かした衣類は使い物にならない。理由はお察しの通りである。鼻が利く人ならわかることだろう。
さて、問題なのは明日履く靴下がない場合である。これは困ったことである。さてこの生乾きの靴下をどうしたものか。
7年ぐらい使っているMacBookの排熱が酷くて困っていたのだが、逆転の発想で、これに目をつけた。
寝る前に洗濯カゴからつがいの靴下を取り出してMacBookの上にそっと添えて床につく。朝起きるとそこに温かい靴下が出来上がっているのである。これをものぐさが生んだ洗練と言わずして何と呼ぶか。