そういう話はこれくらいに

例えばエルヴィスの60年代ボックスセットに収録された大瀧詠一による『’60s ポップスとエルヴィス』という解説を読むとただおもしろいと感じるだけでなく背筋が伸びるというか、少し仰々しいかもしれないが畏怖の念のようものを抱いたりもするし自ら勉強することで対象についてより深く理解したいという心持ちになる。『’60s ポップスとエルヴィス』に限らず大瀧詠一の『分母分子論』『ポップス普動説』『日本ポップス伝』『アメリカン・ポップス伝』といった仕事に接したときも同様にその仕事ぶりに圧倒されて少しクラクラする。しかし、その目眩は快楽を伴うものでもあるし、我々の体温を少し上昇させる。
自分など一介の素人に過ぎないが、それでもなお、そういう体験が自分の中にあるので「いっちょ噛み」を積極的に肯定したいとは全く思わない。
さすがにいっちょ噛みを肯定したい人たちのところまわざわざでかけていって水を差そうとは思わないが、ただ珍奇な見立てを思いついたらそれだけで何かが見えてきてしまうほど日本のポップカルチャーとやらの状況はぬるいものなのかと思うと何だか情けない気分にさせられるので、折に触れて日本のポップカルチャーのことはもう放っておいてくれませんかという内容の投書を目安箱に投函したいとは思ったりもする。それで「こんな意見もありました。で、そういう話はこれくらいにしまして」と流されるのも一興だ。
今まで知らずにいた音楽に接したときに「よくわかんないけどなんだか楽しいね」と心が動かされている人のことを指して「いっちょ噛み」と呼ぶような輩は話にならないので放っておけば良い。問題は、論じる対象についてよく知らないにも関わらず何か一言を言わずにいられないという人間で、黒人音楽などろくに聴いたこともないような輩に「日本人に黒人のグルーヴは再現できないよ」というどこかで聞いたような受け売りでもって諭されたり、細野晴臣が好きだと言えば「音楽通ぶったいけ好かない奴らが聴きがち」という決めつけでもっておまえは権威主義だと揶揄されるといった個人的な恨みがあるから彼奴等にはいつかしかるべき制裁を加えなければいけないと考えているし、こういう想像力に欠けた奴らこそ「いっちょ噛み」と呼んで積極的に蔑んでいかねばなるまい。
本来は話にならない連中のことなど放っておいて、知ったふうな口を利くことは恥であるとし、ただ自分の興味関心のあることを突き詰めていけば良いはずだ。しかし、厚顔無恥な連中を許しがたく感じ、ついつい余計なことを言いたくなってしまうのは、自分も「いっちょ噛み」だからなのかもしれない。というような気の利いたことが言いたいという欲望を捨て去ることができたらもっと爽やかに暮らしていけるような気がしている。
それにしても、周囲の意見に煽られて無闇矢鱈とルサン値を上げたり溜飲を下げたりすべきではないことをなぜこうも簡単に忘れてしまうのだろうか。クレーム酔いして良からぬ行いをしないように気を引き締めたい。
で、そういう話はこれくらいにしまして、今日は違う話がしたいのです。これはごく個人的な話に過ぎず、まったくもって一般的な話題ではないだろうが、ここ何年かずっと、内面化されたいわゆるお笑い的なおもしろさがあらゆるものを侵食していくことに関してずっとモヤモヤしたものを感じている。まるで弁当箱の中で黒豆の汁を吸ってしまった白米や揚げ物を食べさせられているような気分だ。それはそれ、これはこれといった判断が許されない状況といっていいだろう。
お笑い的なおもしろさとは直接的に関係があるわけではない作品を、「一般の人」と呼ばれるいささか抽象的といえる層に向けてプレゼンするには訴求力に欠けるという理由からか、その作品をお笑い的なおもしろさでもってベタベタと飾り付けてしまうことがある。洋画の宣伝でよく目にするところだ。自分のことを彼らがいうところの「一般の人」の代表するつもりで、「我々のことを馬鹿にしてるのか」と声を上げると、「一部のマニア」が騒いでいるというような解釈を与えられる場合があり、これも納得がいかない。
なるほど、お笑い的な振る舞いや目配せがコミュニケーションの道具として一般的であるという理由でそれを流通経路として利用することは経済的である。ただ、おもしろさという尺度による排除と選別を通じて、(幾分フェアネスに欠ける言い回しではあるが)名状し難いふくよかさ、あるいは豊かさのようなものが削ぎ落とされることを余儀なくされる状況に対しモヤモヤしている。こういうことは、宣伝を外部に委託した場合のみならず、その作品や活動それ自体に携わるものが自ら進んでお笑い的なおもしろさという価値判断基準を元にして排除と選別を行うこともあり、どちらかというと後者に違和感を抱かざるを得ない。しかし、それに対して異議申し立てしたところで空気の読めない者ないし洒落のわからないものとしてその共同体からは弾かれてしまうことだろう。
「音楽よりもお笑いのほうが人間の本質に近く万人に受けいられやすい。ゆえにお笑いのほうが素晴らしい」といったことを自ら音楽活動に従事する者から言われて膝から崩れ落ちたことがある。それはただ単にお笑いのほうがコミュニケーションの道具としてみたときに経済的に優れているというだけの話ではないのか。音楽がコミュニケーションの道具であることを疑ったりせず自明のこととし、そのうえで音楽とお笑いと比較してお笑いの勝利を謳う音楽関係者とは一体なんなんだろう。
「お笑い的なおもしろさ」と言いさえすればそれで何かを指し示したような気になっている自分も何か「お笑い的なおもしろさ」とは別の約束事に甘んじているといえるし、そこにはもちろん危うさもある。「お笑い的なおもしろさ」と言うだけで「はいはい、あれね」と頷く人との閉ざされたやりとりになってはいないか。一般性を持つお笑い的なおもしろさをベースにしたコミュニケーションの場から逃れた場所が閉ざされたコミュニティであればカルト化は免れない。そうであれば、ここから先どうしていったら良いのか。正直どのように考えていけば良いのかわからない。
笑いあるいは感動といったものもコップの中に収まっているうちは良い。蒸発して湿気になったときが厄介だ。こと我々の住むこの土地においては。なんていう気の利いたようなことが言いたいという欲を捨て去ることができたらもっと爽やかに暮らしていけるような気がしている。

 

【Playlist】DUM-DUM LLP Presents T.V. PARTY パラソルがソウルからやって来る!ヤァ!ヤァ!ヤァ! 17.08.28 (Mon)


8月28日に新代田FEVERで行われた『DUM-DUM LLP Presents T.V. PARTY パラソルがソウルからやって来る!ヤァ!ヤァ!ヤァ!』でかけた曲のプレイリストです。
Opening
“Biguine Inferno” – O.A.R. – Digital Zandoli
“Barcos De Papel” – Fernando Yvosky – Soul Jazz Records Presents VENEZUELA 70: Cosmic Visions Of A Latin American Earth – Venezuelan Experimental Rock In The 1970s
“I Have Got No Money” – Peace – Black Power
“Lotta Love” – Neil Young – Comes A Time
“My My My” – Elyse Weinberg – Greasepaint Smile
“I Am The Cosmos” – Chris Bell – I Am The Cosmos
“May I” – Kevin Ayers & The Whole World – Shooting At The Moon
“This Time Tomorrow” – The Kinks – Lola Versus Powerman And The Moneygoround, Part One
“What Goes On” – The Velvet Underground – The Velvet Underground
“Shikako Maruten” – CAN – The Singles
Yuki Kikuchi(SPECIAL BAND SET)
“Skiptracing” – Mild High Club – Skiptracing
“Chez les Aborigènes” – Véronique Vincent & Aksak Maboul – Ex-Futur Album
“Margem” – Leonardo Marques – Curvas, Lados, Linhas Tortas, Sujas E Discretas
“Speaking Gently” – BADBADNOTGOOD – IV
“Cha Cha Cha” – Cos – Babel
“Doo-Bee-Doo-Bee” – 49 Americans – We Know Nonsense
“Freedom Of ’76” – Ween – Chocolate And Cheese
バレーボウイズ
“Attention Stockholm” – Virna Lindt – A Young Person’s Guide To Compact
“Walking In The Rain” – Flash & The Pan – Flash and The Pan
“Décollage” – The Honeymoon Killers – Les Tueurs De La Lune De Miel
“I Know What Boys Like” – Waitresses – Wasn’t Tomorrow Wonderful?
“You” – Delta 5 – Singles And Sessions 1979-81
“Big Brown Eyes” – The dB’s – Stands For Decibels
TAWINGS
“Les zouzes” – Aquaserge – GUERRE EP
“Alone Again Or” – Love – Forever Changes
“Tinindo Trincando” – Novos Baianos – Acabou Chorare
“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You” – Caravan – If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You
“Tudo Jóia” – Orlandivo – Orlandivo
PARASOL
“Walk On” – Neil Young – On The Beach
“Oh! Caroline” – Matching Mole – Matching Mole
“Aparecida” – Ivan Lins – Somos Todos Iguais Nesta Noite
“Monkey With the Golden Eyes” – The Muffins – Manna / Mirage

 

イヤな思い出スワイプしちゃお

地元では毎年10月の中旬になると地区ごとのお祭りが開かれる。私の地区では、厄年の男たちが立派な山車を引いて町内を回ったり、神社の境内に設営された櫓から景品引換券が同封された袋入りの餅を投げたりする。
小三のときだったと思うが小雨が降る中餅投げが行われたことがあった。餅投げは通常一度地面に落ちた餅を拾うものだから地面が泥っぽくなっている場合は手が泥だらけになる。その日も老若男女が入り乱れ泥に塗れて餅を拾っていた。
餅投げが終わり、櫓の周りから人が捌けていく中、その場に突っ立っていたら二十がらみの面識のない男に突然疲れたねと声をかけられた。男は涼しい顔をして両手についた泥を私の着ていたTシャツで拭うと、何事もなかったかのように去っていった。
突然の出来事にしばし呆然としてしまったが、やや間を置いて段々と人間が生れながらにして持つ悪意にじわじわと侵食されていくような心持ちになり気が滅入った。
中二の夏休み、友達と古本屋に行って漫画を立ち読みしようということになり、自転車で移動していたときのこと。自転車に乗った高校生と思しき男二人組が後ろから近づいてきた。自分たちの脇を通って追い抜いていくのかと思いきや、片方の男がわざとらしく「危ない危ない」と言いながら私のほうに自転車を寄せてきた。その男は同級生の兄に似ているような気もしたが確信は持てなかった。咄嗟に避けようとレンタルビデオ屋の駐車場の方にハンドルを切ったが、男はしつこく自転車を寄せてきた。サンダルを履いてむき出しになっていたくるぶしに相手のペダルが擦れて痛かったので我慢ならずブレーキを握りしめ自転車を止めた。
男はこちらを見つめて「もう、危ないなぁ」と言うと、様子を見ていた連れの男の元に戻っていった。連れの男が「どうしたの」と尋ねると、自転車を寄せてきた男は「いや、危なかったからさ」とよくわからない返事をしていた。友人と移動しているときに、咄嗟の思いつきで中学生に嫌がらせをして平然としている高校生の精神構造がまったく理解できなかった。ここでもやはり人間が生まれながらにして持つ禍々しい悪意の一端を見せつけられたような気分になった。
二年前の話。その日は明大前で人と会う用があり、新宿の京王線乗り場を歩いていたら、太ももに鈍い痛みが走った。誰かのカバンでもぶつかったのかと思い周りを見ると、顔を真っ赤にした大学生風の男がこちらを睨んでいた。男の出で立ちは茶髪でいかにも標準的な大学生といったもので特に怪しいところはなかった。何か言うのかと思いしばらく待っていたが特に何も言わないので、その場を立ち去ろうとしたら、後ろにぴったりくっついて付いてくる。立ち止まって振り返ると相手も立ち止まりこちらを見つめてくる。再び何か言うのかと思って待ってみるのだが、特に何か言うわけではない。また歩き始めるとやはり付いてくる。ホームに着いて立ち止まると相手も立ち止まりこちらを見つめている。何か言わなくてはと思ったが何と切り出して良いかわからず咄嗟に「あ」とだけ声が出た。すると相手はすすっと逃げていった。追いかけようかとも思ったが、電車が来てしまったので諦めた。彼の目的は一体何だったのか。鈍い痛みとともにもやっとしたものがいつまでも残っている。
高一の夏、友達と自転車を小一時間ほど走らせてイオンまで行き映画を観た日の帰り道。あまり車の通らない道を走っているときに黒い国産のワゴン車が後ろからやってきて行く手を妨げるように前方で停車した。なんとなく絡まれそうな予感がしたので、反対側の道に移ってやり過ごしたところ、ワゴン車はウィンドウを下ろし、こちらに向かって何かワーワー言っていた。乗っていたのは20前後のややガラの悪い男たちだった。知らんぷりして走り去った。
このようなある種の不条理に出くわすと、因果関係がわからないためにいらぬ心配をする羽目になる。あるとき自転車で斜め横断をしたときに真っ赤なデミオにクラクションを鳴らされ、ドライバーにスーパーの駐車場へ誘導され15分ほど説教されたことがあるが、こういう場合はことの因果関係がはっきりしているから必要以上に不安を感じたり落ち込んだりする必要はない。だが、先に挙げたような不条理の場合は、前後関係がはっきりしないから、思考は底なし沼に引きずり込まれることになる。最終的に自分がこの世界から受け入れられていないという事実の一端を見せつけられたかのような心持ちになってうんざりする。人智を超えた存在にコケにされているような気がしてくる。本当にやめてほしい。
とは言いつつも物事を論理的に考えられない質なので、すべてのことが不条理といえば不条理に思えてしまう。すべてが不条理であることが前提となっているから、ことの次第に何か違和感を覚えてもまあそんなこともあるよねなんて言ってやり過ごしてしまいがちだ。それで判断を誤り人に迷惑をかけることが度々ある。毎度毎度自分なりに納得できるように因果関係を誂えてみるのだが、論理の糸のほころびに気が付くのはいつももっと後のことだ。
物心がついた頃からユニークな人間でありたい、人とは異なる発想をしたいと願い続けたことの副作用なのだろうか。いや、単にめんどくさいという理由で物事を論理的に考えることを避けてきた結果がこれだ。まるで関係のないパズルのピースが複数混入したパズルをやらされている状態が続いている。お願いだから人智を超えた存在には金輪際意図のわかりにくい嫌がらせをしないでもらいたい。できることなら毎日びっくりしたりドキドキしたりせずに過ごしたい。
九死に一生を得た人が死の寸前にこれまでの記憶が走馬灯のように思い出されたなんてことを言う。もしも今際の際にこれまで述べてきたような記憶の総集編を見せられたりしたらたまったものではない。
『ソイレント・グリーン』という映画がある。ディストピア映画のクラシックだ。映画の中の世界では安楽死が合法となっており、登場人物の一人が公営の施設で安楽死を施されるシーンがある。そこでは、大きなスクリーンにかつて存在した美しい自然の映像が映し出され、さらにベートーベンの交響曲第6番「田園」が流れる中、安らかな眠りにつくことになる。
駅前などで待ち合わせしている人が相手を見つけた瞬間にぱっと表情を明るくするところを見る度につられてこちらの気持ちもなんとなく明るくなる。あの瞬間を見るのがとても好きだ。永い眠りにつく際は、自分に関する思い出や美しい自然の映像ではなく、待ち合わせをする人々が相手と出会った瞬間をとらえた映像をまとめたものを観ながら明るい気持ちで眠りにつくのが良いだろうと思っている。

 

鳥ちゃんの「ダーティーサーティー喜んで!」

6月16日に30歳になった。そんなものはとうの昔になくしたとも言えるけれど、自分の体から瑞々しさが失われているように感じる。その事実をしっかりと受け入れることがオッサンから遠ざかる一歩だと考えているから、今まで以上に身綺麗にしなくてはと三十を境にして決意を新たにした。洗濯もこまめにしなくてはいけないし、散髪の頻度も多くしなくてはならないだろう。無論、フロスにも一生懸命取り組まねばなるまい。根がものぐさだからこれらは容易なことではないが、オッサンにだけはなりたくないその一心で我慢してやっていかなくてはならない。
思うにオッサンとは、譲歩することなく自分という存在を他人に受け入れさせることを自明とする人間のことで、こういう手合は巷間でよく目にするところであるが、目にする度にこうはなりたくないと思わされる。
世間で散見するオッサンの代表格はクチャラーであろう。クチャラーの多くは動作に落ち着きがないし、股を広げて座りがちだ。おまけに貧乏揺すりをする者もいる。くしゃみにも遠慮がないし、手で口をおさえないことも多い。個人の領域を侵すこのような行為から自我が液だれを起こしていることは明らかだ。唾や痰を路上に吐き棄てるオッサンも駅で人に肩をぶつけるオッサンも同根だ。オッサンは他者に自分を受け入れさせるという関係性の中でしか生きていけない。オッサンは他人に対して常に不均衡な関係を強いる。
譲歩することなく自分を他人に受け入れさせることを自明とする存在をオッサンと呼んだが、ここでいう譲歩とはつまり、身なりを整える、清潔にするといった至って単純なことだ。身なりを整える、清潔にするといったことは自分を美しく保つための行為にあらず、それは他者の存在を受け入れ、相手を慮る行為に他ならない。
オッサンにもタカ派とハト派がいる。痰を吐いたり肩をぶつけるオッサンがタカ派だとすると、クソリプを送るオッサンはハト派のオッサンといえよう。多くの人は誰かにクソリプを飛ばすことに躊躇する。クソリプを飛ばさないという選択肢が予め用意されている。誰かにクソリプを送らないでおくという行為は相手に対して一歩引くという行為であるという点で立派な慮りである。クソリプを送らないことは常識ないし当然のマナーとされているが、当然のマナーとは慮りという積極性によって支えられているものである。そこを勘違いしたオッサンがクソリプを送るのだ。
建物の出入り口等で後からやってくる人のためにドアを押さえておくといった行為は相手に対する能動的な働きかけによって行わるマナーといえるが、反対にクソリプを送らないという行為は相手に対して何もしない言わばゼロの行為だ。ゼロの行為は往々にして見過ごされがちだが、れっきとした行為のひとつだ。しかし、オッサンはゼロの行為が行為であることを理解しようとしない。
オッサンはいつまでたっても自分のことを男子高校生だと認識している節があり、高校生の爽やかさの下に全てが受け入れてもらえると考えがちである。しかし、例えばオッサンのかいた汗はあくまでオッサンの体内から吹き出た水分であって、高校球児たちの爽やかな汗とは質がまったく異なる。傍から見ればオッサンはオッサンでしかない。世の中に美しいオッサンなど存在しない。美しいオッサンというものは矛盾した存在である。美しければあえてオッサンと呼ぶ必要もないだろう。
むしろ青春時代を無闇矢鱈と美化することがそもそものボタンの掛け違いになっているのではないか。自分が高校生だったときのことを思い返すとやはり高校生なりにベタベタしており、決してピチピチツルツルというわけでなかった。風呂に入らなければ当然臭くもなった。青春と呼ばれる美しい時代を生きたという幻想にレールを接いで生きてしまっていることが、オッサンの甘い自己認識のそもそもの原因ではなかろうか。青春とオッサンは地続きのものだ。
オッサンがオッサンたる所以は結局、「でもそんな自分が好き」という中途半端なナルシシズムをいなすことなく何となくそのままにして生きてしまっていることにある。老けていく自分を受け入れるというよりも、ベタベタと甘やかす。さらに問題なのは「でもそんな自分が好き」という思いに続いて、「みんなもきっと好きだよね、そうだよね」という発想が出てきてしまうことだ。密やかなナルシシズムに留めておけば良いものを彼らはナルシシズムを持ちこたえきれずに我々に問いかけてしまう。「みんなもきっと好きだよね、そうだよね」という根拠のない独善的な発想は十中八九拒絶される運命にある。おっさんは自分のことがかわいいのかもしれないが、おっさんがかわいい筈がない。かわいい筈がないので、当然拒絶される。そして、拒絶されたことで、その好意のような気持ちが裏返り、痰を吐くという迷惑行為となって現れる。痰を吐くことと眉を顰められることは対になっている。痰を吐くという行為は自分が受け入れられなかったことへの意趣返しだ。痰を吐くという行為は眉を顰められることによって完結する。
ここで確認しておきたいことは、あくまで30年生きた者の感想に過ぎないが、加齢それ自体は悪ではないということだ。むしろ成熟に対する憧憬は常にある。今なら”Don’t Trust Under 30″と言いたいところだ。年を取ることそれ自体はポジティブなものとして考えている。こと趣味であるところの音楽に関していえば、年々耳の感度は高くなっているし、音楽を聴く楽しさは年を取るにつれて増しているように思う。音楽と青春とを強く結び付けずにいたのが良かった。進学で上京して環境が変わり、自分を組み換えざるを得なかったのも今となっては良かったと思っている。
自分が十代の頃は「青春パンク」と呼ばれる音楽が猛威を振るっていたが、むしろそのおかげで「青春」なんぞというものは眉唾であると考えることができた。同世代の人に「青春」というものにトラウマを持つ者も多かろう。逆に今でも本当に青春が好きで好きでたまらないという人もいるが。
これは、ただの印象論でしかないが、2000年頃から我々は「青春」という円環の中に閉じ込められているのではないかと思っている。もはや青春以外の選択肢は残されていない気さえしてくる。人間らしく生きるとは青春時代を生き続けることのように言われている。
念の為にはっきりとさせておきたいことは、あくまで自分がオッサン的な存在になりたくないと主張しているだけであって、オッサン的な存在を根絶やしにしろといった話は一切していないということ。オッサンを憎んで人を憎まずとでも言おうか。オッサンがオッサンであることを選ぼうが知ったこっちゃない。クチャラーが隣に座ろうが一方的に迷惑だと感じているだけだ。クチャラー人口が増えようが減ろうがどうでも良い。オッサンが徒党を組み、数の暴力で空気を読むことを強要してきたらさすがにこれはやばいとは思うが。こちらはオッサンに対し、好き好んで不快だと感じているだけであり、何に対し不快に感じようがそのことを他人にとやかく言われる筋合いはない。というのは暴論だろうか。暴論だろう。
やはりコータローもびっくりするようなこういった主張がまかり通ると考えてしまっている時点でオッサン化は逃れられないだろう。自分に対する検証を怠たった者はオッサン化する。オッサンとは居直りの権化である。トイレが汚い。ゴミ出しもサボりがち。洗濯もまめにできていない。髭剃りも適当。そんな自分がオッサンに対して偉そうなことが言えるのか。さらに、オッサンの営みへの想像力が欠如している。人に肩をぶつけて駅のホームで唾を吐くオッサンも、深夜に帰宅して子どもの寝顔をそっと見つめることだってあろう。あぐらの窪みにちょこんと座った猫の頭を撫でることもあろう。真に恐ろしいことは想像力の欠如とそれに伴い増長すること、さらにそれを自分で止められなくなることだ。
20代前半まではやっかいな先輩という存在が増長を防ぐリミッターになっていたように思う。縦社会における先輩の理不尽さが我々の行手を阻んでいた。それは白い帽子に書かれたFUCKという4文字のような理不尽さだ。そういった理不尽さを携えた人間と対峙したときに我々は、こういう人間だけは許してはならない、そのためにはもっと賢くならなくてはいけないと強く思うだろう。だから、やっかいな先輩敵な存在を遠ざけないようにすることが肝要であるといえる。微熱少年先生が言うところの敵タナトスを想起せよ!ということか。
「男は敷居を跨げば七人の敵あり」なんてことわざがあるが、果たして自分には敵が7人もいるのだろうか。未だに敷居を跨いでいないということではなかろうか。オッサン以前の問題で、自分がモラトリアムの円環に捕らえられたお子ちゃまでしかないということが今ここで露呈した。青春とトイザらス、どちらかひとつ選べと言われたら迷わずトイザらスを選ぶ。生まれたときから玩具漬けの我々はオッサンも青春も拒否する。我々はお子ちゃまとしてトイザらス五稜郭店に逃げ込み最後まで徹底抗戦するつもりである。

 

悲しき飲食店 / 100%どうでもいい人宣言

今年の6月に30を迎えるのだけど、加齢とともに段々と堪え性がなくなっている。我慢ができない。とは言っても、子どもの頃に比べたら、それはもちろん現在のほうが堪え性はあるだろう。しかし、これから子どもの頃のような性格に回帰していくという予感がある。今後はより一層堪え性がなくなり、不快なもの・ことに対してすぐにグズるようになってしまうかもしれない。ただ、しょうもないことにはいつまでも付き合っていられないと考えるようになり、昔よりも時間を大切にするようになったから良い面がないわけではない。人からケチだと思われる可能性もあるが。
ある日曜の夕方、カタヤキソバが食べたくなり近所の日高屋に入ったところ、なかなか注文を取りに来てくれなかったので帰りますと伝えて店を出た。そこまで混んでいたわけではなかったが、厨房の様子から察するに店を回せていないようだった。以前、同じような状況でカタヤキソバを注文した際に、出てきたのが餡の水分を思いっきり吸いこんだヤワヤキソバのようなものだったことがあり、同じ轍は踏むまいと注文の前に店を出ることにしたのだ。
このような場合、店員に怒りが湧くというより物事が思い通りに行かないことへ苛々する。苛々はすぐに萎れて失望を経てやがて憂鬱へと変わる。本当にやりきれない。自分にとって食事のプライオリティは決して高くはないと言えどもこのような状況はなるべく避けたいところである。
ある日松屋に入ったときのこと。50代後半ぐらいのオッサンが食券を買ったのち、テーブル席に座ろうとし、隣で食事をしていたスーツ姿の30がらみの男性に向けて荷物を反対側に移すように命じた。オッサンがぶっきらぼうな言い方をしたためか、スーツの男性は頭に来たらしく、「うるせーな、クソが!ゴミクズみたいな格好しやがって」などと言い返し、オッサンは少々たじろぎながらも「なんだこの野郎」などと言って応戦。店内には緊張が走ったが、店員が「大丈夫ですか」と声をかけたため、その場は何となく収まったように見えた。けれどもやはり、このまますんなり終わるとは到底思えなかった。
スーツの男性が帰り際にオッサンを軽く小突いたか何かしたようで、オッサンはスーツの男性を蹴り返した。スーツの男性は興奮し、「何すんだよクソが!」などと叫びながら座っているオッサンを踏みつけるようにして蹴りを入れる。オッサンは「オマエが蹴ってきたんじゃねぇか!」と言って立ち上がった。2、3発蹴りの応酬があったところで店員が止めに入った。
そのときの私はというと、蹴り合いが行われているすぐ横で食事をしていたため、とばっちりを喰らわないよう食器を脇のほうへ静かに寄せていた。この動作のなんともいえない滑稽さと凡庸さ。喧嘩を目の当たりにした人が見せる無防備で金魚のように間抜けな顔を自分もしていたと思う。
スーツの男性は店員に押さえられると、顔を真っ赤にさせて身体をぷるぷると震わせながら、もう出るから大丈夫ですと店員に伝えた。オッサンが席に戻ると、スーツの男性は素直に帰るような素振りを見せておいて、オッサンのテーブルに蹴りを一発見舞って店から去っていった。味噌汁まみれになるオッサン。謝罪する店員。すぐに新しいものに取り替えますとのことだが、店員は何も悪くない。まったくもって気の毒なことである。オッサンは気まずそうに「いや、荷物が邪魔だったからさ、あっちに置けって言っただけなんだけどね」と店員に話していた。
「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでわからない」
これはある映画の有名な台詞。ところで、この言い回しが全くピンと来ない原因は日米の文化の違いにあるのだろうか。サム・ライミが監督したスパイダーマンの二作目に、アルフレッド・モリーナが発明品のお披露目会でこんなジョークを言う場面がある。
「この中に輪ゴムで束ねた札束を落とし方はいませんか?輪ゴムが落ちていました」
このジョークが今ひとつピンと来ないのと同様に「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでわからない」という台詞もわかったようなわからないようなところがある。
それはさておき、この台詞に倣うなら以下のようにも言えるだろう。「飲食店はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでわからない」と。いや、わざわざチョコレートの箱に例えるという面倒などする必要はなかった。つまり何が言いたいかというと、実際に入ってみるまでその店の空気ないし状況を掴むことはできないということである。我々は席についてしばらくしてから客の苛立ちと店員の慌てぶりに初めて気づく。当たり前の話だが、店の外からその気配を感じ取る能力さえあれば、入店することもなく、食事の際に嫌な気持ちにならなくて済む。しかし、そんなことはどだい無理な話。行き当たりばったりやっていく他ない。たまにハズレクジを引くこともあるが、間が悪かったと思ってやり過ごすしかない。


こういうことは書かないほうが無難だと理解しつつも涼しい顔を繕っているが実際は腸が煮えくり返っており身体中を恨みつらみが渦巻いているのが彼という人物だなんて知ったようなことを言われたりするのも癪なのでいっそのこと書いてしまおう。
もう何年も前の話だけど、あるライブの後、自分の出番が終わってフロアでウロウロしていたら、「わたしトリプルファイヤー好きなんですよ」という言葉が耳に飛び込んできた。その言葉の主は私の知人と話しているところで、知人が「そうなの?そこにトリプルファイヤーいるよ。鳥居くーん!」と言ったところ、その人物は「いや、私吉田派なんでえ」と高らかに宣言。確かに自分は人間として最低のステージにいるため --いや、人間と同じステージだなんて痴がましい、俺は犬畜生だ!そう、所詮ワンコロに過ぎない存在!いや、ワンコロというよりコロコロクリーナーに貼っ付いたポテトチップスの食べかすだ!畜生!なんてことだ!実際はそれ以下の存在だ!-- 人様からこのような仕打ちを受けるのも已む無し、と納得しようとしたところでなかなか上手くはいかない。なぜなら人には自尊心があるから。
仮に自分がパフュームファンで、さらにのっち派だったとして、人からかしゆかを紹介されたときにわざわざ「いやでもボクのっち派なんで!」とは言わないだろう。もちろん相手があーちゃんだったとしてもそんなことは決して言わない。さらに、小木に向かって「えー、矢作は?矢作来てないの?矢作来てなかったら意味なくない?」とも言わないし、ジョン・レノンに向かって「ぼくブラックバードすごい好きなんですよ!めっちゃいい曲ですよね!ついでに歌ってくれたら嬉しいなぁ!」とも言わない。その辺の山に向かって「なーんだ!富士山じゃないのかぁ」なんてことは言わないし、日本海に向かって「これが太平洋だったらどんなに良かったことか!」とも言わない。なぜなら、人は惻隠の情を持つべきだと考えるからだ。昔から一寸の虫にも五分の魂と言うではないか。さらに人は自らの分を弁えなければならないとも考えている。
しかし、分を弁えるということを云々しすぎると吉田派の人物を遠回しに身の程知らずと言っていると取られかねないし、そういうオマエも相当尊大な野郎だなという話になってしまい、それはそれで不本意であるが、構わず続けることにしよう。
「自らの分を弁えるべき」だと考えるのであれば、自分のことを棚に上げず、やはり食べかす以下という己の身分に鑑みて、人から何と言われようと、またいくらぞんざいに扱われようと、歯を食いしばり耐え忍ばなくてはいけないのかもしれない。しかし、自分が食べかす以下かどうかなんてせめて自分で決めさせてくれないか。他人を捕まえてその人が食べかす以下かどうかを決められると考えるのは奢りではないのか。そういったことは他人の関知する領域ではないはずだ。なぜいちいち「おまえは食べかす以下の人間だ」と指摘し、そのことを本人に認めさせようとするのか。そんなのは支配欲に取り憑かれた人間の所業だろう。いや、誰もそこまで言ってないよという指摘があれば、ごもっともですねと返す他ない。それに食べかすと言い出したのは自分の方だ。
食べかすであることはもうどうしようもないことだ。それを笑い飛ばしてしまおう。みんなにも笑ってもらおう。そんな「コンプレックスは笑いに昇華しろ。そして他人にいじらせろ」といった意見もあるが、なんとなく「下の口は正直だな」という言葉に通じるいやらしさを感じてしまって首肯できない。また、オッサン的マチズモの一種ではなかろうか。おまえの笑いの種のために惨めったらしい気持ちに浸っているわけではないぞと言いたい。何様なんなんだ本当に。
しかし、意地になってノートの隅に”Torii rules!”と落書きし、人からの指摘に聞く耳を待たず心を閉ざしてはいけないとも思う。「オフィスのドアは開けたままにしておく。話したいことがあったらいつでも気軽に訪ねて来てくれ。」これが私のモットーである。もっともこれは嘘のモットーではあるが、嘘であることを差し引いたとしても「あんたって食べかす以下だよね」という前提で話を進めようとする人物にも胸襟を開いていかねばなるまいとは思っている。
思い返してみると、テレビを見ているときのテム・レイのように興味の対象がハッキリとしている人と遭遇することも度々あった。新宿のタワレコでレコ発を行った際、急遽特典の手渡し兼握手会をやることになったのだが、その列の中にあからさまに「三下のバーターは引っ込んでな」という態度を取る人がいた。もう少し具体的に言うと、その人は「眼中にない」という表現を比喩ではなく目線で表現したということだ。「脇目もふらず」と言い換えることもできよう。これにはさすがに文字通り手も足も出ず、自分も主役の一人であると言っても過言ではないイベントにもかかわらずタワレコの明るい店内でただの木偶の坊と化すことがあり、いかに自分が無力かつ無能かということを存分に思い知らされた。そこにはある種のマゾヒスティックな快感がなかったとは言い切れないのだが、やはり自分が可愛いと思う心が邪魔をして快楽に浸りきれないところがあった。その人のややパフォーマンスじみた大仰な振る舞いも少し引っかかった。
たしかに「選ばれてないことの安堵一つわれにあり」といった思いもないわけではない。「どうでも良い人」という自己認識が、布団の冷たい部分に足が触れたときのような心地良さをもたらすときもある。ただの負け犬根性だと言ってしまえばそれまでだが。しかし、こちらとしても相手が人間である以上、神ならまだしもおまえさんが選ぶの?とどこかで思ってしまう。何だか腑に落ちない。さらに、自分が選ぶ立場にあることをそこまで自明としちゃっていいわけ?とも感じてしまう。けれども、ごちゃごちゃ言ったところでどうにもならない。もはや触れるべきではない領域に片足を突っ込んでしまっているのでこのへんで止めておこう。相手がどうあれ結局はこちら側の解釈の問題でしかない。この件に関しては行って来いで感情的には損益なしだったことが唯一の救いだったといえよう。
また、敢えてどことは言わないが、都でも府でも県でもないところ(※北海道)でライブをした日のこと。打ち上げの席で、目の前にいる女子がずっと某SSWのOh(※王舟さん)さんに向かってミで始まってメで終わる三文字のバンド(※ミツメ)の各メンバーの性格ついて根掘り葉掘り質問し、王舟さんが答えるたびに「えー!」「そうなんだ!」などと言ってとても良いリアクションをするので、そんなのってありぃ!?と思ったことがある。
冷静になって考えてみるまでもなく、これらの経験がある程度は仕方がないものだということは重々承知している。生きてりゃそんなこともあるよね、というものである。決して全員が桃太郎役の学芸会や全員が一等賞の徒競走みたいなものが横行する世界を望んでいるわけではない。「飢えて植えた上には上がいる 認って慕った下には下がいる」なんて歌もある。「選ぶこと/選ばないこと」及び「選ばれること/選ばれないこと」がジャングルの掟のように苛烈なものであるとは頭では理解しているつもりだ。ただ、ジュースをこぼしてしまった後の机のようにベトベトしたあの惨めったらしい気分が問題なのだ。いや、大して惨めったらしくもないか。惨め度でいうと、スミスの”Heaven Knows I’m Miserable Now”ぐらいのやや軽快な感じか。あーた、惨めさにちょっと酔ってるね、というような。では何が一番の問題なのだろう。
他人に迷惑をかけないように心掛けて大人しく生きているのだから最低限のリスペクトぐらいよこせという傲慢さが一番の問題ではないのか。飲みの席で初対面の子から掛けられた第一声が「おめぇじゃねぇよ!」という冷たい一言で、家に帰ってからもずっとモヤモヤが消えずにいたことがあったが、それも最低限のリスペクト問題に絡んでくるような気がする。
理想は会う人会う人に「あなたって本当にどうでも良くない人物ですね!一角ですよ、ヒトカド!」などと言われることであろうが、寝ているだけで毎日銀行口座に10万円振り込まれたらいいよなぁといった妄想並に馬鹿げている。
人間誰しも生きてるだけでひとまずのリスペクトは受けられると考える自分が甘いのだろうか。甘いのだろう。三十路が近づこうと心根はお子ちゃまのままだ。リスペクトやプロップスは自ら勝ち取っていかねばならないものなのだということに皆はいつ気がついたのか。
さらに、自分が誰に対してもきちんと敬意をもって接しているのかと問われれば、自信を持ってイエスと答えることはできない。例えば5人以上で行動している学生(牛丼屋やラーメン屋、または立ち飲み屋などカウンター席がメインで二人がけのテーブルが少し置いてあるような店に5人以上で入店しようとする学生。ものすごく失礼な言い方だけどこういった学生たちの行動を「馬鹿の液状化現象」と呼ばせてもらうことにしよう)に対して敬意を払えと言われても「ちなみにそれって時給発生したりします?」と答えてしまいそうだ。そのような人物にリスペクトを送る人などいるものか。”And, in the end, the love you take is equal to the love you make”という歌詞が思い出される。
プライドに関わる利害を絶えず調整し続けることこそが社会で生きるということなのかもしれない。なんて言うと少し大げさかもしれないが。「○○のくせに無駄にプライドが高い」なんて言い方をする人もいるが、プライドがそれ相応だったことなど一度だってあるものか。分を弁えるとは自分を低めに見積もることではないだろう。かといって卑屈さと尊大さの宙づりに耐えきれずに居直ってしまえばただのオッサンになってしまうことに留意せねばなるまい。オッサン的感性こそ唾棄すべきものだ。オッサンとは居直りの権化であり、ダンディズムの対極といえる存在だ。同じ歳の人物のうち、もっともヒップな存在と思われるケンドリック・ラマーも”Be humble”と言っている。しかし、ときにはプライドのためにストラグルしなければいけないこともある。例えそれが負け戦だとわかっていようと。ブルージーな体験もなかなか味わい深いところがあって決して悪いものではない。
などと言いつつも、他人から与えられた「どうでも良い人」という認識を背負い込んで、それでも健気にちまちま努力したり、そんな自分をいじらしく思ったりすることははっきり言って馬鹿馬鹿しいと感じている。どうでも良さとどうでも良くなさの濃淡の中で、何か自分なりの色を出そうとするような小賢しさを我々は超えていくべきではないのか。他人と比べたときに相対的に冴えているかどうかは何の問題にもならない。惨めったらしい日々の営みやいじましい自尊心とは無関係な、絶対的な意味での「どうでも良い人」として新たな宇宙の発生のようなものに立ち会うことが理想といえば理想。

 

躍動するリズムを捉えるために(ピストンと車輪のリズム指南)

前口上

「リズムを点で捉えるな。円で捉えろ」なんてことをよく言いますが、わかっている人には当たり前すぎて「地球は丸い」といった話程度にしか感じられず、「別に改めて言うほどのことか」と思われるでしょうし、全くピンと来ない人は「なんだかわかったようなわからないようなことを言うなよ」と思われるのではないでしょうか。
リズムは絶えず運動し続けるものだと認識しています。バスケットボールをつくときのような、トランポリンの上で飛び跳ねるときのような、ホッピングで跳ね回っているときのような、フラフープを腰で回すときのような躍動を想起させてやまないものです。その一方で全く躍動しないリズムというものも世の中には散見されます。カップ焼きそばの湯切りに失敗して麺をシンクにぶちまけてしまったときのような感覚のリズムです。もはやそれをリズムと呼んで良いのかわかりませんが。
太平洋を挟んでお隣の国、アメリカには「It Don’t Mean A Thing (If It Ain’t Got That Swing) 」なんて曲があるそうですが、私も同じように躍動しなけりゃ意味がないね、と思うわけです。リズムにおける躍動感は食べ物における旨味成分のようなものだと考えています。躍動感のないリズムはさしずめ出汁の出てない味噌汁と言ったところでしょうか。なんだか味気ない。
出汁というものの存在を知っているにも関わらず、それを使うことができない状況に対してここ何年かずっともどかしさを感じていました。出汁の利いていない演奏は聴く側も演奏する側もともにあまり楽しくないものです。(もちろんこれは音楽のスタイルにもよりますけれど。微妙に躍動感を馴らしたような演奏にも魅力があります。先日亡くなったヤキ・リーベツァイトの演奏にそういったものを感じます。)
今に至るまで、リズムが躍動する感覚、またはその捉え方をなんとか言葉にして説明できないものかと思案してまいりました。これは自転車の乗り方を口で説明するようなものですから、七面倒くさく、また困難を伴うものです。いくつものフレーズが脳裏をかすめては消えていきました。例えば、「ホースの口を絞る」「リズム圧」「ウラとオモテにおける緊張と脱力あるいは筋肉の伸縮」「休符で本当に休む奴がいるか(帰れと言われて本当に帰る奴がいるか)」「リズムの円運動」「心臓ないしポンプ」「ヨーヨーの要領」「子音と母音の問題」「タンギング」「タオルをパシーンと鳴らすように」「遠心力」「急ブレーキ」「ジェットコースターの急降下と急上昇」「ゴムボール」「ドミノ倒し」などといったものです。これらを説明しようとしてみてもひとりよがりで終わることが多かったです。さらにこういったものは胡散臭くなりがちで、書いているうちに空気が淀んできて気分が悪くなってくることもあります。
正直なところ、こういったことは早々にクリアした上で、「これはやっぱさぁ、ディラ以降の感覚だよねぇ」みたいなことを語りたい。あるいは「おっちゃんのリズム」「1拍子」「The One」といったキラー・フレーズをガツンとかまして終わりにしたい。自転車と同様に乗れて当たり前、出来て当たり前の世界の話をわざわざ云々するのは野暮だし、「みなまで言うな」とつっぱねる態度がやはり粋だと思うのですが、生憎それを貫くだけの才覚を持ちあわせて居ないため、愚直に泥臭く取り組んで行く他ありません。

鳥居のリズム革命

ブーツィー・コリンズがジェイムズ・ブラウンの「The One」というコンセプトについて説明する動画がYouTubeに何本か上がっています。ブーツィーがベースを持ち実演しながら説明してくれるのですが、その際ブーツィーは頭をテンポに対してジャストではなく後ろからゆっくり追いかけるように揺らしています。一方、下半身は太ももを上げての足の裏でイーブンに近い感覚で拍を取っています。これら二つの動作を見て、なんとなく上下運動と円運動の連動がリズムの躍動を生むのではないかと考えるようになりました。(別にブーツィーが頭で円を描いていたわけではないので、話にやや飛躍がありますが。)さらにこれは機関車のピストンによる往復運動が車輪を回転させる仕組みと似たものではないかと思いつきました。おそらくどこかで見聞きした種々のアイデアがここに来て結実したのでしょう。そこで音楽を聴きつつ実際に体を機関車に見立てて動かしてみるとなんともしっくる来る。思わず”Eureka!”と叫び出す勢いでした。
スネアにはただ下に落ちていくだけのスネアとバウンドして天に向かって飛んでいくようなスネアがあるとかねてより感じておりました。それは音色やアクセントではなくタイミングが決定するものであると考えていたのですが、「上下運動と円運動の連動」というコンセプトで今一度そのことに取り組んでみたら、その仕組みがわかったような気がしました。ただの思い込みなのかもしれませんが、収穫があったような気がして気分が甚だ高揚しております。

「All Night Long」に合わせてお蕎麦を頂く

これより上下運動と円運動を連動させる過程を説明してみたいと思います。同時にこれは音による躍動を体の動きに変換していく作業でもあります。回りくどくて七面倒臭いと思われるかもしれませんが、暇でやることがねぇなぁという方はお付き合いください。
まずは音源を用意します。今回はMary Jane Girlsの「All Night Long」でいってみましょう。ちなみにこの曲で聴くことのできるキックとスネアの音はオーバーハイムのDMXというドラムマシンの音です。

まずは噺家さんが蕎麦を食べるときのような仕草でリズムを取ってみます。最初に拍のオモテ(この曲ではキックとスネアが鳴るタイミング)で蕎麦をつゆに浸します。オモテは英語で”Down Beat”といいますので、文字通りに箸の位置を下に落とします。箸を下げるというよりは箸を落とすといった感覚で行ってください。腕をリラックスさせてただ下に落とすだけで良いです。さらに器をサンプラーのパッドに見立てて自分がキックとスネアを鳴らしていると思い込んで取り組むのがベターです。
次に拍のウラで箸を口元に持っていきます。この曲は1小節に8回ハットが鳴るので、頭から順に数えて偶数のときに鳴っているハット、つまりキックとスネアの間で鳴っているハットがウラとなります。ウラは英語で”Up Beat”と言います。文字通り箸で蕎麦を持ち上げて口元に近づけてください。このとき腕の重さを十分に感じながら上へと持ち上げます。(これよりウラ・オモテとは言わずダウンビート・アップビートという表記に統一していきたいと思います。動きの向きを指し示す後者のほうがより伝わりやすいかと考えて採用することにします。というわけで、以下、ウラ=ダウンビート、オモテ=アップビート)こちらもアップビートと同様に、口元にサンプラーのパッドがついていて、箸の先で自分がハットを鳴らしていると思い込むと良いでしょう。
これでアップビートとダウンビートによる上下運動が完成しました。ついでに箸の動きに連動させてつま先と顎を上げ下げするとさらに良い感じになるかもしれません。さらに「1 and 2 and 3 and 4 and」と声に出してカウントを取ってみるのも有効であります。このダウンビートとアップビートによる上下運動はリズムの土台となるもの非常に重要なものです。
次に腕全体を使って蕎麦を上げ下げしていきます。現在、箸の上下運動は肩もしくは肘が支点となっていると思います。今度はこれらの支点をなくし肩自体の上げ下げによって腕ごと箸を動かします。これを肩の力だけで行うと非常に疲れるので、お腹と背中を使って肩及び腕全体を上下させます。下っ腹にトランポリンが設置されているようなつもりでやってみると良いでしょう。または自分がバスケットボールになって誰かにドリブルされてるところをイメージするのも有効かもしれません。箸は出来るだけ大きく上下させてください。このように肩全体の上下運動でリズムを取ったときのほうがキックとスネアに重みが感じられるのではないでしょうか。
これで機関車におけるピストンの部分が完成しました。次は車輪を動かしていきたいと思います。

“The train kept a-rollin all night long”

先ほどまで箸を上下させていた分の高さを円の直径とし、縦に円を描いていきます。円が回転する方向は車輪が前進するときと同じです。要はモーニング娘。の「恋愛レボリューション21」の「ウォウウォ、ウォウウォ、ウォウウォ」の振り付けを片手だけでやる、みたいなことです。これを右から覗き込むと時計回りとなります。これからアナログ時計に例に出すつもりなので、決して円を左側から覗きこまないでください。早速時計に例えますが、円を描くときに6時に通過するのがアップビート、つまりキックとスネア、12時に通過するのがダウンビートのハットとなります。1拍で12時間が経過するということになりますね。各ポイントを通過するタイミングは日本の電車のように正確でなくて構いません。なんとなくで良いです。円を描く速度も一定ではなく、曲のテンポに合った自然なスピードになるように調整してください。しかし肩の上下運動はダウンビートおよびアップビートに合わるつもりで。つま先の上下運動でガイドを出してやると良いかもしれません。さらに音楽と手の動きをシンクロさせるためにキックやスネアの余韻を指で撫でるようなつもりが取り組んでみてください。音楽が描く円の軌道上にのっかるイメージですので、宇宙空間におけるランデブー飛行と同様のものだといえるでしょう。
このように円を描きながらリズムを取ってみると拍がボールのようにバウンスする感覚と、前へ前へと進んで行く感覚が得られるのではないでしょうか。

“Get up for the down stroke”

これをさらに発展させていきます。円を縦に割って、自分に近い方の弧を「アップビートの弧」、反対側の弧を「ダウンビートの弧」と捉えます。円を描く指の進行方向を考えればすぐにわかることかと思われます。弧は英語で”arc”なので、”Down Beat Arc”、”Up Beat Arc”なんと呼ぼうかと思いましたが、「アラサーの人が高校生の頃にやってたバンドの名前」みたいなのでやめておきましょう。しょうもないことを言っていますが、この「アップビートの弧・ダウンビートの弧」というコンセプトは重要なものです。
ここで重力という要素を取り入れて今まで以上に腕の重みを意識しながら円運動に取り組んでいきたいと思います。まず腕をリラックスさせることが重要です。力を抜いてアップビートから出発し、重力に従って腕を落としてダウンビートの弧を通過していきます。上半身の体重を腕にのせるようなつもりでやると良いです。そして、腕が落下していくときのエネルギーが最大となる瞬間をキックやスネアのアタックが鳴るタイミングに合わせて、重力に逆らうつもりで腰で弾みをつけて腕を持ち上げ、アップビートの弧に突入します。腕がダウンビートを通過する瞬間に下から強く息を吹きかけて再び腕を上昇させるといったイメージを持つとわかりやすいかもしれません。(パーカッション奏者の浜口茂外也さんが「ブランコの理論」ということを提唱されていますが、それに近い感覚なのではないかと思われます。浜口茂外也さんインタビュー Vol.1
さらに、アップビートの弧を通過する際に、指先の運動エネルギーがヘソの下辺りから背骨に沿って頭のてっぺんまで通過していくといったイメージを持って取り組むと体重が移動していく過程を体感しやすくなると思われます。チャクラを下から上に向かって通過していくイメージです。
これで一連のサイクルが出来上がりました。コツがつかめてくるとだらりと脱力させた腕を腹の力だけで回転させられるようになります。このようにできれば長時間この作業に取り組んでいてもあまり疲れないと思います。
これら一連の動作を通じて、手がアップビートの弧を通過するときに筋肉は緊張した状態で、ダウンビートの弧を通過するときは弛緩した状態だということが判明しました。手を自分の方に引き寄せるときにぐっと力を入れなくてはなりません。ボートに例えるとアップビートの弧を描くことがオールで水を掻くことに相当しますから、これは力が必要です。一方、ダウンビートの弧に沿って手を前方に放り投げるときは大して力を使う必要はありません。
よく芸人さんが「緊張と緩和が笑いの基本」なんてことを言いますが、リズムの基本も同様であると言えるかもしれません。ここでは、ダウンビートを弛緩、アップビートを緊張としましたが、音楽のスタイルによってこれが逆になる場合もあります。ジャンル名の硬度が高くなれば高くなるほどにその傾向は顕著になると言えるでしょう。注意すべきは、我々がどのようなスタイルの音楽に対しても「ダウンビートを緊張、アップビートを弛緩」であると捉えがちという点です。
また、ダウンビートの弧、アップビートの弧という捉え方をすると、ダウンビート・アップビートというものが、実際は限りなくアップビートに近いダウンビート、または限りなくダウンビートに近いアップビートであることが感じられるかと思います。このように解釈してみると単純な上下運動で捉えるよりもダウンとアップを繰り返す作業が滑らかに感じられるのではないでしょうか。
上に向かって飛び跳ねているように聴こえるスネアがあるということは既に述べました。スネアのタイミングというのは点で捉えるならダウンビートなのですが、スネアの余韻が響いてる時間はアップビートの弧に属します。これがスネアが上に向かって飛び跳ねて聴こえる理由なのではないかとひとり合点がいっている次第であります。冒頭の「リズムを点で捉えるな。円で捉えろ」という言葉を自分なりに改変すると「リズムを上下運動と円運動の連動で捉えろ」となりますが、キラー・フレーズ感ゼロでとても残念な限りです。
パーラメントの曲に”Up For The Down Stroke”というものがございます。アルバムのタイトルにもなっています。この”Up For The Down Stroke”というタイトルが今回のテーマにうってつけなので、ここで聴いてみることにしましょう。もちろん上下運動と円運動の連動でリズムを取りながら。途中でトリッキーな仕掛けがありますが、どうにか乗り切ってください。この箇所に円運動がすっぽりハマることができたら脳内麻薬が分泌されること請け合いです。
ちなみに、こちらの曲でベースを弾いているのはブーツィー・コリンズでございます。JB仕込みの「On The One」を感じさせるリズムとなっております。つきましては、4拍目から1拍目に向かう円の軌道を大きく取ってみてください。つまり、”The Down Stroke”のための”Up”の弧を大きく描くということです。このように捉えてみるとリズムにしっくりハマるはずですのでどうぞご確認ください。

“Hold On, I’m Comin'” 円周上の演習

もういい加減にしてくれよとお思いの方もいることでしょう。このページを開いたのが10人いたとしたら、ここまで辿り着いたのはたった1人ぐらいではないでしょうか。これまでに費やした5900文字がただの徒労に終わる予感をひしひしと感じていますし、これもまた独りよがりになっている気がしています。しかし独りよがりついでにもう少し続けます。今度は「上下運動と円運動の連動」を応用してサザンソウルなどに見られる後ろに引っ張ったようなバックビートに取り組んでみたいと思います。次の課題曲はアル・ジャクソンのドラムによります”Hold On, I’m Comin'”でございます。演奏するのはもちろんBooker T. & the M.G.’sの面々ですが、各楽器のギヤがキッチリ噛み合っており馬力のある四輪駆動の自動車を感じさせるようなものの見事な演奏です。アンサンブルかくあるべし!

こちらの曲も例のごとく上下運動及び円運動でリズムを捉えていきます。この曲の場合、正円つまりまん丸の円で捉えてしまうとこの曲のもつダイナミズムを見失ってしまいます。この曲の躍動感を味わうために、今回は小さな楕円と大きい楕円を用意します。汚くて恐縮ですが、図にしてみたのでご確認ください。

(手書きの図を使うと一気に危ないムードが漂ってきますね。CGで描かれた謎のイメージ画像などを使用したらさらにヤバい感じになりそうです。これ、本当は時計回りのつもりで書いたのですが、縦の円を左側から覗き込んでしまったために矢印の向きが反時計回りになってしまっています。方向音痴なんです。)
この図を見てもよくわからないと思います。さらにこれを文章にしたらもっとわからなくなると思いますが、続けます。

お手玉で遊んでみよう!

上記の図は一体なんなんでしょう。要はアル・ジャクソンの叩く「遅れて聴こえるスネア」のタイミングに合わせて円の軌道を大きくしようということです。お手玉に例えると少しわかりやすくなるかと思います。まず中に鈴が入ったお手玉をひとつ用意します。もちろんこれはイマジナリーお手玉で構いません。まず、このイマジナリーお手玉を目線の高さまで放り上げます。次にダウンビートのタイミングでお手玉をトスします。このとき鈴が鳴ります。つまりお手玉の中の鈴の音でダウンビートを刻んでいくわけです。目線の位置はアップビートの位置だと思ってください。
この一連の動作を”Hold On, I’m Comin'”のドラムに合わせてやってみましょう。2、4拍目で鳴るスネア、つまりバックビートが遅れて聴こえるということは既に述べました。この遅れたスネアのタイミングに合わせてお手玉の鈴を鳴らすためにためにはどうしたら良いでしょう。お手玉をトスないしキャッチ&リリースするタイミングを遅らせてやれば良いわけですから、その位置を下げてやれば良いということになります。1、3拍目に肩の高さでトスしていたのを、2、4拍目では手の位置を下げてへその下あたりでトスしてやれば鈴の鳴るタイミングは自ずと遅れます。へそあたりでトスするときもアップビートの位置である目線の高さまで放り上げるというのがミソです。2、4拍目でトスする位置を下げて鈴の鳴るタイミングを遅らせて分、お手玉に勢いをつけないとアップビートのタイミングで目線の高さまで達しません。そうしないことにはリズムになりませんのでご注意ください。

重うてやがて素早きバックビートかな

次にこのお手玉の上下運動を例によって円運動に変換していきます。1、3拍目と2、4拍目、それぞれの上下運動の高さを直径として小さい円と大きい円にします。上記の図がそれを指し示してますので今一度ご確認ください。
これらの円が”Hold On, I’m Comin'”にばっちり合うように指先を回転させていきます。今回は図のように楕円形に捉えてみると良いでしょう。肩および上半身全体を軽く上下させることも忘れずに。この曲の持つダイナミズムと体の動きをシンクロさせるためにはちょっとしたコツがいるような気がします。
小さな円と大きな円が交差するポイントである1、3拍目のアップビートのタイミングでふっと力を抜いて重力に身を任せます。授業中に居眠りしていて頭が下にカクンと落ちるときの要領です。軽めの急ブレーキを踏まれて上半身にGがかかった状態ともいえます。約5kgほどあるらしい頭の重さを腕に乗せる感覚でやると良いでしょう。そして、ダウンビートとアップビートが折り返す瞬間をアル・ジャクソンのバックビートのタイミングに合わせます。しかし、このままでは下に落ちていくばかりで回転が止まってしまい、アップビートに帰ることができません。そこで回転を止めないために腕が下降する際のエネルギーが最大となった瞬間に浜口先生の「ブランコの理論」のごとく腰で弾みをつけて腕を上昇させます。授業中に船を漕いでいる状態で、頭がカクンとなった反動で上半身が元の位置に戻るのと同じような動きとなります。このとき、さきほどのお手玉と同様にダウンビートのポイントを下げてタイミングを遅らせて分、アップビートに間に合うように勢いをつけてやる必要があります。例のごとく下っ腹にトランポリンが設置されていると思って一気に腕を引き上げてアップビートの弧を通過させると良いです。さらに、上で待っているアップビートに向かって”Hold On, I’m Comin’!”と叫ぶと気合が入ってモアベターです。
これで遅れて聴こえるバックビートを大小の円で捉えるための一連の流れが完成しました。このように円周上の緊張と弛緩の流れというコンセプトに基づいて実際に体を使いながらアル・ジャクソンのバックビートを捉え直してみると、そのアタックは腹にズシンと重く響いて感じられ、またその余韻は天に向かって加速していくということが感じられたのではないでしょうか。こういったことは例えば楽譜のように横軸だけで捉えていてもなかなかわかりづらい事柄であると思われます。遅れて聴こえるバックビートの捉え方をディアンジェロの『Voodoo』に応用してみるときっと楽しいはずです。”Feel Like Makin’ Love”などは月面を散歩しているような感覚が味わえて最高です。この曲をアップビートの弧を無視して聴いた場合、きっと下に沈んでいくだけの、眠りを誘う音楽に聞こえてしまうことでしょう。
これまで述べてきた作業は言わばリズムに沿って体を動かすときの上半身における体重移動の過程を一旦腕を使って体感した後にその感覚を上半身まで波及させるといったものです。一度この動作が会得できてしまえば、毎度毎度律儀に手で円を描く必要はないはずです。チャック・レイニーあるいは細野晴臣といった躍動感の塊のようなベーシストが演奏中にあまり動かないことに鑑みて、むしろ動かずとも感じられるものであると考えます。

“Free Your Mind and Your Ass Will Follow” 結びにかえて

このように文章していく過程で完全に拍を見失ってしまいました。音楽に対して全くピントが合いません。どうしたら良いのでしょう。
それにしても、リズムによってもたらされる心地よさを言葉するだけでこうも息苦しいものになるとは。まったく躍動感のない文章であります。端からそんな予感はしておりましたが。こういったことはなるべくなら止して、金言をかまして終わりにするほうが絶対に良いと改めて痛感しております。仮にそれができるのであればの話ではありますがそのほうが確実にヒップです。ただ、体を使って今まで述べてきたようなことばかり何日か続けていたら、踏切のカーンカーンという音がアップビートに聴こえたり、心臓の鼓動が円を描き出したり、歩いているときに自然にダウンビートを感じられたり、自分のくしゃみがJBの”Hit me!”(4拍目)に聴こえたりするようになったで身体に対して何かしらの作用はあったと言えます。
これら一連の動きだったり円周上を点が移動していく様をアニメーションにすることができたらもっとわかりやすくなるのではと考えています。似たようなものは既にあるようですが、こちらはリズムの構造を時計をモデルとして図式化するものなので運動を図式化しようする当方のコンセプトとは別物となります。(それはそれで興味深い内容となっているのでご紹介しましょう。A different way to visualize rhythm – John Varney
さて、このへんでそろそろ黙ることにします。ファンカデリックの”Free Your Mind and Your Ass Will Follow”という素晴らしい標語を結びと代えさせていただきます。
https://www.youtube.com/watch?v=PeeYUXjp_ro

 

夜ごとに太る男のために

Notoriious B.l.G.読者の皆、あけましておめでとう。今年もNotoriious B.l.G.をよろしく頼む。最高の一年にしよう。
大晦日の夜、実家に帰ったら大きくなったねと言われた。体重計に乗ってみたらと言うので、素直に従って体重計に乗ってみると一年前と比べて10kgも太っていたことが判明した。ひどい。
実家の風呂場で体を洗うときに鏡で自分の姿を見てみると、わんぱく相撲のこども力士のような体型になっていたから、ああ、さすがにこれは太ったなとは思ったものの、まさか10kg分も脂肪がついていたとは。
しかし、未だにスリムだった学生の頃のサイズ感で生きているから、ズボンは常に腹を圧迫しているし、Tシャツも腰回りや二の腕に絡みついた状態。しゃがんだりすると尻の上部が露出してしまったりする。自らの体型に対する認識が甘すぎると我ながら思う。かようにして人は自己を省みるという行為をおざなりにしてダーティーサーティーに突入していくのだろう。
「オッサン」とはとどのつまり自省することを放棄した男性のことである。ある特定の年齢を過ぎたもう決して若いとは言えない男性のことをいうのではない。オッサンは自分を中心に世界を見ている。これをオッサン天動説と呼ぶ。心ある人であれば通常、自分の言動が起こした反響音に耳を傾けるものであるが、オッサンはそういった反響などまるでお構いなしだ。だから食事をするときに自分がヌチャンヌチャンと咀嚼の音を発していることにも気が付かない。電車の座席や飲食店のカウンターで隣に人がいる場合においても股を広げて座る。足を組んで靴の裏を人の方に向ける。くしゃみをするときに口を手で覆わない。便所でスマホを見ながら用を足す。他人に肩をぶつける。居酒屋やインターネットで若い女の子に絡む。つまらない駄洒落を馬鹿でかい声で言う。自分の笑い声が大きすぎて相手の愛想笑いが耳に届いていない。
こういったダーティーなオーバーサーティーになってたまるかよ、と思う一方で、恥という感覚のない世界で生きていたら心地よいのではないかとも思う。世間に気を使い、人の顔色を窺って縮こまっている人に比べたら、恥のない世界で生きている人のほうが生活の充実度は高いのではないだろうか。だがしかし仮にそうであったとしてもやはり恥の感覚を放棄したいとは考えない。ダーティーな振る舞いをする自分を許すことはできない。
オッサンとは居直りの権化とでも言うべき存在だ。自分の存在を自明のものと考えている節がある。在り方として大変に楽ではあると思うが、そういう人物に決してなってはいけないというオブセッションが強く自分の中にある。昔から惹かれるのは決まって含羞を漂わせる人物だ。
居直りの権化のような人物がアメリカ合衆国の大統領に選ばれたことは世の趨勢を象徴しているのだろうか。どうあれいかなる状況下においても慎みや慮りといったものを失わずにいたい。

 

ゆく鳥居くる鳥居(2016年営業報告)

年の瀬なのでこの一年の活動についてだらだらと振り返っていきたいと思う。ここでは個人活動を主とし、バンド活動については振り返らない。なぜなら手に負えなくなりそうだから。
おい、ちょっと待て、活動を振り返ると言われてもこっちはお前が誰なのか知らないぞ、お前は誰なんだ、鳥居とは何者なんだ、中にはそんなことを思った方もおられるかもしれない。そういった方にも名前が知られるように襟を正して来年一年の活動に取り組んでいく所存です。

2月16日 トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会

齢28にして初の冠イベント。タイトルをダジャレにしてしまう自らの悲しき体質を再認識。会場はブルーノート東京プロデュースのcafe104.5。神田淡路町にあるとても素敵なお店。料理とお酒も美味しい。このときのテーマは「ラテン風味のアメリカ音楽」だった。詳細についてはすでに記事にしたのでそちらを参照されたし。
選曲管理委員会 [Feb. 16, 2016]

3月9日 世木トシユキ『西陽の影』発売

学生時代に所属していたサークル「British Beat Club(a.k.a. ビート研)」の先輩がMIDIからデビューするというのでびっくり。2曲ギターで参加。事前に世木さんと話し合いつつアレンジを固めた。こういう状況では、ついつい気が利いた風なことをやりたくなってしまいがちだが、最終的には愚直に取り組むべきだと実感した。レコーディング自体が行われたのは2015年の11月。やはり緊張したもののエンジニアの方(上野洋さん)に上手くノセていただいて良い感じに終了。我ながら根っからのロマンチストぶりを発揮したソロが弾けたと思う。けれども基本的にフレーズを歌わせて弾くということをしないから情感は希薄。使ったアンプは確かフェンダーのHot Rod系の何か。

4月18日 otori×DUM-DUM「ノーをウェーブする」

久しぶりのライブハウスでDJ。今年はこの一回のみ。お客さんが「この曲なんですか?」などの反応を示してくれて楽しかった。詳細についてはすでに記事にしたのでそちらを参照されたし。どうでも良いことだが新しいメガネを下ろしたのはこの日だった。
otori×DUM-DUM「ノーをウェーブする」のDJプレイリスト

4月20日 スカート『CALL』発売

スカートの4枚目のアルバムに『CALL』にギターで2曲参加。どちらもギターソロでの参加です。「はじまるならば」ではThe Only Onesの”Another Girl, Another Planet”をイメージした弾きまくり系のアプローチしたつもりが結局別物に。湿度高め。「想い(はどうだろうか)」のソロは個人的にはイギリス的だと感じるがどうだろうか。まさか自分のギターとストリングスが絡む日が来るとは。感動!ちなみに使ったアンプはスタジオにあったVOXのAC30。

5月27日 スカート「CALL」発売記念 ワンマンライブ

渋谷WWWでのスカートワンマンにゲストで数曲参加。2016年で最も緊張した日。緊張で頭がおかしくなるかと思った。仁丹一粒程度の己の肝っ玉の小ささを再確認。スカートチームのみんなは飄々としていてかっこよかった。アンコールで演奏した新曲ではお客さんがかなり盛り上がっていた!スカートの愛されっぷりを実感!

6月7日 PETER BARAKAN × MASAMICHI TORII Music Voyage DJ 6.7 tue.

なんとピーター・バラカンさんと二人でBtoB!15年前の自分に教えてやりたいみたいな月並みな言い方があるけれど、未来の出来事について聞かされた15年前の自分にはハリソン・フォードのように”I know.”と言ってもらいたい。不遜な態度に「は?お前なんなの?」と返すけどね。会場は「選曲管理委員会」と同じくcafe104.5。詳細についてはすでに記事にしたのでそちらを参照されたし。
Music Voyage DJ (June 7, 2016) ピーターバラカン×鳥居真道

6月20日 新間P「不明なアーティスト」

学生時代に所属していたサークル「British Beat Club(a.k.a. ビート研)」の先輩新間さんにお誘いいただいて「不明なアーティスト」に池田若菜さんとともに出演。高円寺円盤にて。一人っきりで人前に立って楽器を演奏するというのは中学校のときの音楽の授業でやらされたリコーダーの発表以来ではなかろうか。この日もまた仁丹一粒程度の肝っ玉を再確認した日となった。詳細についてはすでに記事にしたのでそちらを参照されたし。やたらとくすぐりが多くて他人が書いたみたいな文章!
ノトリイアス・ビー・エル・ジー『不明なアーティスト』を振り返る

7月10日 スカート サポート(シャムキャッツ EASY TOUR 仙台enn 2nd)

優介くんの代打でスカートのサポート。「シリウス」のイントロのエレピのフレーズをギターで弾かせてもらったり、「想い(はどうだろうか)」をバンドアレンジでやったりと楽しかった。「出番前だから見とくか」と言って佐久間さんがスマホで見せてくれた金魚草というバンドが衝撃だった。夜はビジネスホテルに宿泊!一人一部屋!翌日はパラダイスレコードというスーパーぐらいの広さのあるレコード屋に行く。思い出すだにクラクラするようなものすごい量のレコードがあった。

8月26日 乙女フラペチーノ「私ほとんどスカイフィッシュ / 乙女の炎上」発売

乙女フラペチーノは小島みなみさん、紗倉まなさんによるユニット。「私ほとんどスカイフィッシュ」の作詞を吉田、作曲を鳥居、演奏をトリプルファイヤーで担当。ガールズポップを作りたいという密かな夢が思わぬ形で実現した。一丁前に歌入れに立ち会っていわゆるところのプロデューサー的な指示を飛ばすなどした。PVにも出演。是非フル尺で聴いていただきたい。

10月18日 Music Voyage : DJ solo 鳥居真道(トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会)

第二回選曲管理委員会!会場は前回同様cafe104.5。前回は「ラテン風味のアメリカ音楽」という個人的な研究テーマを発表するといった趣向でやっていたが、ずっと研究を怠っていたために発表するものがなくひとまず大雑把に「ギター特集」というテーマを決めて選曲。詳細についてはすでに記事にしたのでそちらを参照されたし。
“Music Voyage DJ solo” MASAMICHI TORII -トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会 Oct. 18, 2016

10月19日 トクマルシューゴ『TOSS』発売

2014年にレコーディングに参加したトクマルさんのアルバムが完成!早速聴いたという人から「クレジットを見ないで聴いたけど鳥居のギターは一瞬で判別ついた」と言われた。良いのか悪いのか。悪いことはないか。参加したのは「Lita-Ruta」「Taxi」「Hollow」の三曲。参加というよりは断片を提供という趣で、出来上がったものを聴くと不思議な感覚に襲われる。12月11日にWWW Xで行われたワンマンにも2曲参加。ゲストという立場ではあるけれどあれだけの数のお客さんを前にして演奏したのは初めて。トクマルさんにステージ上で「何か言いたいことはありますか?」と振られるが上手いこと返せず!トクマルさんのライブに参加するのはトクマルシューゴPlusを含めると3回目で、様々な楽器および名うてのミュージシャンと一緒に演奏するところを俯瞰的に聴いて記憶に留めたいという欲があるものの、必死にやっているうちにいつも一瞬で終わってしまう。

11月23日 スカート『静かな夜がいい』発売

5月27日に行われたスカートのワンマンでのアンコールに演奏された新曲がシングル化!渋谷でばったり澤部くんに遭遇しこれは何かの縁だということでレコーディングにお誘いいただく。学生時代にこんなギターが弾きたいなあと思っていたギターが弾けた。ちなみに使ったアンプはスタジオにあったVOXのAC30。自分のギターからどことなく漂ってくるロビー・ロバートソンっぽさを再認識。それはさておき、「静かな夜がいい」という作品からはすごく良いバイブス的なものが放出されているように感じる。何度も聴きたくなる。

11月26日 Record Snore Day #1

代々木八幡にあるCAFE BARNEYにて小柳帝さん、ミツメのまおくん、nakayaanとDJイベント。お三方の選曲に大いに刺激を受けた。レコード欲が高まったおかげでずっと手つかずだった家のレコード棚周辺の整理整頓ができた。さらにそこから発展して読まない本を買い取りに出したために部屋が若干広くなった。そんなことイベントとは関係ないじゃないかと言う人もいるかもしれない。しかし良いイベントというのは人に自分も何かしなくちゃと思わす力を持っていると思う。イベントする側が言うのはおかしな話かもしれないが。来年もまたやりたい。私の選曲リストはこちら。

https://www.tumblr.com/recordsnoreday/154246663262/record-snore-day-1-%E9%B3%A5%E5%B1%85%E7%9C%9F%E9%81%93-set-list

むすび

さすがにこうしてまとめると「自分酔い」していささか気分が悪くなってくる。こういったことは本来弟子などに命じてやらせることなのかもしれない。しかしそんな身分ではないから自分でやる他ない。いじましさに涙がちょちょぎれんばかりだ。
このような一年を経てなんとなく感じることは、ある一日を輝かせるのはそれ以外の一人きりで過ごす地味な一日の地味な時間だということ。スケッチブックのある一箇所を輝かせるために他の部分を黒く塗りつぶすがごとく、何かを成すためには、なんでもない平日を黒く塗りつぶしていくことが肝要ではなかろうか。地味な一日の地味な時間に耐え切れず、無為に過ごせば余白は依然として余白のまま。見せられる方の立場からすればそんな薄いもの見せられてもねえという話。むしろそういった軽薄さが心地よいということもあるかもしれないが決して惹かれはしない。そのようなものには奥行きが感じられない。さらに一見軽薄なように見えてもバネができていないからいざというときに鈍重になりがちだ。(それにインターネットなどでそれらしい情報を発信していれば、何か大層なことにでも従事しているかのような気分が容易く味わえてしまう昨今である。だがしかしSNSとの付き合い方についてはもはや何も言うまい。あれはもう審美的感覚の問題だろう。皆が皆、自己を省みるわけでは無いし。それに「腹が減った。何か食うかな」といった呟きの数々がどこかで花開く可能性が絶対にないとは言い切れない。絶対にないけど。)さすがに良い齢になってきたということもあり、ここに来て時間の残酷さが如実に現れてきたように感じる。
このような、何か上手いこと言おうとしてこのように失敗するぐらいなら、最初から「ローマは一日にして成らず」というセイム・オールドな言い方をすべきだったかもしれない。ただ、日の当たらない何でもないような一日を黒々とした濃ゆい時間に変えて、とんでもない境地へと辿りついてしまった方々とこの一年でご一緒する機会を得たことは自分にとって何よりも幸なことだし、大いに刺激を受けた。音楽に従事していて良いと思えるのはこういった気持ちが単純な言葉として流通していくのではなく、再び音楽に姿を変えて人と人との間を循環していくということ。
近頃はお酒とYouTubeに逃げて無為に過ごしてしまいがちなので反省をしなければいけない。かといって堅苦しく禁欲的に物事に取り組もうとしたってきっと長続きはしないだろうから、粛々と趣味に興じるつもりで過ごしていきたいと思う。来年のテーマは「趣味粛々」で決定。「趣味悠々」にまだ早い。
年末ご多忙の折ではございますが、お身体にお気をつけて良き新年をお迎えください。来年も何卒よろしくお願いいたします。
https://www.youtube.com/watch?v=6lgtk79GQlA

 

愛新カルマ溥儀 VS Notoriious B.l.G.

近所に住む友人に誘われて野方にある秋元屋のような雰囲気のやきとん屋で飲み。やきとんって味噌だれなのに美味しいから不思議。地元愛知では「つけてみーそ、かけてみそー」などと歌いながら何にでも味噌をかけて食べてしまいがちなのだが、地元というか名古屋の味噌だれは甘ったるいので全然好きではなかった。だから味噌カツもあまり好きじゃない。でも、やきとんの味噌だれは美味しいと思う。好き。
ちょっと待て、やきとんの味噌だれが美味しいからって名古屋の味噌だれを貶す必要はないじゃないか。そんなことを言う人がいるかもしれない。お前は相対的な優劣でしかものを語れていない、美味い不味いは絶対的な評価を下してしかるべきものではないのか、と。わかる。その意見すごくわかる。
二軒目。バーに移動。一年に一回のペースで通っているお店に久々に行ってみたのだがお店の人が名前を覚えていてくれて感動。酔った友人がトリプルファイヤーがどうのこうの言い出してなぜかお店の大型モニターで知らないお客さんと一緒に一年前のクアトロのライブ映像を見る羽目に。どうして地獄のような仕打ちを受けなきゃいけないのかと思ったけれど、見始めたら別になんてことはなかった。他人がオススメするわりとどうでもいいオモシロ動画を見させられているときのように、とまではさすがに言わないにしても、心はすこぶる冷静および無風状態。凪。ただ自分の姿がとってもスリムなことには驚いた。1年ぐらい前のことだからランニングを始めて3ヶ月ぐらい経過して10kmを完走できるようになった頃。すごい。
現在はじわじわと着実に脂肪がつき始めている。太ってくると人から「ガタイ良くなった?」と聞かれる場合が多い。みんな優しいね!太った原因はやはり晩酌か。
諸々の作業が一段落したのが先月の頭ぐらいで、それ以降、毎日のように晩酌をするようになった。スーパーでホワイトベルグを久々に見つけたので買って飲んでみたところこれがなかなか美味しくて思わずamazonでケース買いしたことがきっかけ。ここ何週間はそれを飲みながらコメディ番組などを観てウヒャヒャヒャヒャと笑うトラッシュな余暇を過ごしていた。こんなことではダメだ。


去る11月26日に開催されたRecord Snore Day(以下RSD)は楽しいイベントだった。選曲リストはRSDのサイトに随時アップされる予定。一番手小柳さんのプレイリストはすでにアップされている。

https://www.tumblr.com/recordsnoreday/154078440802/record-snore-day1-%E5%B0%8F%E6%9F%B3%E5%B8%9D-set-list


私以外みなレコードを駆使してDJをしており、100%CDでDJを行った私は少し体裁が悪かった。レコードはなんというか伊達やダンディズムというとちょっと違うけれど、意地を通す感じが良いなと思った。やはりムッシュの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の3番的な世界観は何があっても支持していかねばなるまい。
イベント終了間際にお客さんの一人が話しかけてくれた。今日はCDばかりだったけどレコードも持っているんですか?どんなレコードを持っているんですか?と聞かれたので、何があったっけ?と考えてみたが、自分でも何を持っているのかわからなかった。5年ぐらい前に金策のために粗方売ってしまったうえに、たまに思い出したかのように1、2枚買ったりするので、手元に何があるかキチンと把握できていないのだ。そんな質問をされてからというもの、そのことが気になって気になって早く確かめたく仕方がなかった。しかしレコード棚の前にはCDがちょっとした摩天楼のように山積みになっていてそれをどかさないことには確かめられない。部屋には物が溢れ返っていて全てが連動しあっているから、どこか一箇所をを片付けようと思っても、スライドパズルのように目的のものを移動させるためにまず周辺のものを空いているスペースに移動させなければいけない。つまりCD周辺の衣類、書籍、楽器・機材なども片付けなければいけいないというころだから非常に手間がかかる。そんなことをするのは億劫だ。それでもやはり気になる。そこで掃除も兼ねてCD摩天楼を移転させることにした。
CDの移動には2時間ほどかかった。早速レコード棚を漁ってみる期待したものがなくて非常に残念な気持ちになった。ビリー・ジョエル、ロギンス&メッシーナ、ELOみたいなラインナップ。実際にはそれらのレコードは一枚も持っていないのだが、こう言えば何となく雰囲気は伝わるだろう。これではレコードでDJすることなど無理。
その日は帰宅する前に新宿のアルタにあるHMVのレコード屋に寄っていた。Jo Mamaの2ndが100円で売られていたので購入。他にベティ・エヴェレットの『Happy Ending』などを購入した。『Happy Ending』は編曲にジーン・ペイジ、バッキングにジョー・サンプル、デヴィッド・T・ウォーカーなどが参加しているアルバム。”God Only knows”のカバーが聴きたくてネットで探してみたものの入手が難しそうで諦めていたがちょうどタイミング良く発見できたので嬉しかった。嬉しかったなどと言って馬鹿みたいに欲しいと思ったものを何でも買っていたら懐が危ないので、値段が3ケタのものしか買わないというルールを自分に課することにする。
飽きっぽいのでこの熱がいつまで続くかは不明。ゆえにRecord Snore Dayの定期開催を希望する!

 

Ultimate Party Nov. 18, 2016

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  1. Two Oldtimers – Moebius & Plank
  2. By This River – Brian Eno
  3. Zopf: In A Sydney Motel – Penguin Cafe Orchestra
  4. Lagoon – Latin Playboys
  5. Le Grande Compositeur Vu De Face – ZNR
  6. La Bolla – Picchio Dal Pozzo
  7. A Sprinkling Of Clouds – Gong
  8. Kekse – Harmonia
  9. Oostend, Oostend – Cos
  10. Tout arrive – aquaserge
  11. Speaking Gently – BADBADNOTGOOD
  12. Homage – Mild High Club
  13. A Dream Goes On Forever – Todd Rundgren
  14. Til I Die – The Beach Boys
  15. Xl-30 – Shuggie Otis
  16. Flying – The Beatles
  17. Spoon – CAN
  18. Les zouzes – Aquaserge
  19. Nave Maria – Tom Zé
  20. Uccallin Del Bosco – Picchio Dal Pozzo
  21. The Legend Of The Golden Arches – Frank Zappa & The Mothers
  22. I Be Later – 49 Americans