そういう話はこれくらいに

例えばエルヴィスの60年代ボックスセットに収録された大瀧詠一による『’60s ポップスとエルヴィス』という解説を読むとただおもしろいと感じるだけでなく背筋が伸びるというか、少し仰々しいかもしれないが畏怖の念のようものを抱いたりもするし自ら勉強することで対象についてより深く理解したいという心持ちになる。『’60s ポップスとエルヴィス』に限らず大瀧詠一の『分母分子論』『ポップス普動説』『日本ポップス伝』『アメリカン・ポップス伝』といった仕事に接したときも同様にその仕事ぶりに圧倒されて少しクラクラする。しかし、その目眩は快楽を伴うものでもあるし、我々の体温を少し上昇させる。
自分など一介の素人に過ぎないが、それでもなお、そういう体験が自分の中にあるので「いっちょ噛み」を積極的に肯定したいとは全く思わない。
さすがにいっちょ噛みを肯定したい人たちのところまわざわざでかけていって水を差そうとは思わないが、ただ珍奇な見立てを思いついたらそれだけで何かが見えてきてしまうほど日本のポップカルチャーとやらの状況はぬるいものなのかと思うと何だか情けない気分にさせられるので、折に触れて日本のポップカルチャーのことはもう放っておいてくれませんかという内容の投書を目安箱に投函したいとは思ったりもする。それで「こんな意見もありました。で、そういう話はこれくらいにしまして」と流されるのも一興だ。
今まで知らずにいた音楽に接したときに「よくわかんないけどなんだか楽しいね」と心が動かされている人のことを指して「いっちょ噛み」と呼ぶような輩は話にならないので放っておけば良い。問題は、論じる対象についてよく知らないにも関わらず何か一言を言わずにいられないという人間で、黒人音楽などろくに聴いたこともないような輩に「日本人に黒人のグルーヴは再現できないよ」というどこかで聞いたような受け売りでもって諭されたり、細野晴臣が好きだと言えば「音楽通ぶったいけ好かない奴らが聴きがち」という決めつけでもっておまえは権威主義だと揶揄されるといった個人的な恨みがあるから彼奴等にはいつかしかるべき制裁を加えなければいけないと考えているし、こういう想像力に欠けた奴らこそ「いっちょ噛み」と呼んで積極的に蔑んでいかねばなるまい。
本来は話にならない連中のことなど放っておいて、知ったふうな口を利くことは恥であるとし、ただ自分の興味関心のあることを突き詰めていけば良いはずだ。しかし、厚顔無恥な連中を許しがたく感じ、ついつい余計なことを言いたくなってしまうのは、自分も「いっちょ噛み」だからなのかもしれない。というような気の利いたことが言いたいという欲望を捨て去ることができたらもっと爽やかに暮らしていけるような気がしている。
それにしても、周囲の意見に煽られて無闇矢鱈とルサン値を上げたり溜飲を下げたりすべきではないことをなぜこうも簡単に忘れてしまうのだろうか。クレーム酔いして良からぬ行いをしないように気を引き締めたい。
で、そういう話はこれくらいにしまして、今日は違う話がしたいのです。これはごく個人的な話に過ぎず、まったくもって一般的な話題ではないだろうが、ここ何年かずっと、内面化されたいわゆるお笑い的なおもしろさがあらゆるものを侵食していくことに関してずっとモヤモヤしたものを感じている。まるで弁当箱の中で黒豆の汁を吸ってしまった白米や揚げ物を食べさせられているような気分だ。それはそれ、これはこれといった判断が許されない状況といっていいだろう。
お笑い的なおもしろさとは直接的に関係があるわけではない作品を、「一般の人」と呼ばれるいささか抽象的といえる層に向けてプレゼンするには訴求力に欠けるという理由からか、その作品をお笑い的なおもしろさでもってベタベタと飾り付けてしまうことがある。洋画の宣伝でよく目にするところだ。自分のことを彼らがいうところの「一般の人」の代表するつもりで、「我々のことを馬鹿にしてるのか」と声を上げると、「一部のマニア」が騒いでいるというような解釈を与えられる場合があり、これも納得がいかない。
なるほど、お笑い的な振る舞いや目配せがコミュニケーションの道具として一般的であるという理由でそれを流通経路として利用することは経済的である。ただ、おもしろさという尺度による排除と選別を通じて、(幾分フェアネスに欠ける言い回しではあるが)名状し難いふくよかさ、あるいは豊かさのようなものが削ぎ落とされることを余儀なくされる状況に対しモヤモヤしている。こういうことは、宣伝を外部に委託した場合のみならず、その作品や活動それ自体に携わるものが自ら進んでお笑い的なおもしろさという価値判断基準を元にして排除と選別を行うこともあり、どちらかというと後者に違和感を抱かざるを得ない。しかし、それに対して異議申し立てしたところで空気の読めない者ないし洒落のわからないものとしてその共同体からは弾かれてしまうことだろう。
「音楽よりもお笑いのほうが人間の本質に近く万人に受けいられやすい。ゆえにお笑いのほうが素晴らしい」といったことを自ら音楽活動に従事する者から言われて膝から崩れ落ちたことがある。それはただ単にお笑いのほうがコミュニケーションの道具としてみたときに経済的に優れているというだけの話ではないのか。音楽がコミュニケーションの道具であることを疑ったりせず自明のこととし、そのうえで音楽とお笑いと比較してお笑いの勝利を謳う音楽関係者とは一体なんなんだろう。
「お笑い的なおもしろさ」と言いさえすればそれで何かを指し示したような気になっている自分も何か「お笑い的なおもしろさ」とは別の約束事に甘んじているといえるし、そこにはもちろん危うさもある。「お笑い的なおもしろさ」と言うだけで「はいはい、あれね」と頷く人との閉ざされたやりとりになってはいないか。一般性を持つお笑い的なおもしろさをベースにしたコミュニケーションの場から逃れた場所が閉ざされたコミュニティであればカルト化は免れない。そうであれば、ここから先どうしていったら良いのか。正直どのように考えていけば良いのかわからない。
笑いあるいは感動といったものもコップの中に収まっているうちは良い。蒸発して湿気になったときが厄介だ。こと我々の住むこの土地においては。なんていう気の利いたようなことが言いたいという欲を捨て去ることができたらもっと爽やかに暮らしていけるような気がしている。

 

Masamichi Torii