鳥ちゃんの「ジャスト・ワン・ヴィクトリイ」

季節の変わり目はいつも調子がいまひとつ。気持ちも塞ぎがちだ。寝ても寝ても疲れが取れない。休日に8時間しっかり寝て、さらには昼寝までしたにも関わらずまったく気力が湧かない。身体中の筋肉がこわばっている。頭がぼーっとする。胃腸の調子も芳しくない。何をやっても面白くない。全てが茶番に思える。気を抜くと虚無に襲われる。毎朝、絶望とともに目覚め、毎晩、諦念を抱いて眠りにつく。
こんなことを言うと「また大袈裟な」と思う人もいるだろう。自分でも大袈裟だと感じる。大袈裟ではあるが、こういう状態なのだから仕方がない。季節の変わり目に感じる絶望や虚無は花粉みたいなものだからただじっと耐えてやり過ごす他ない。大袈裟であっても決して深刻な事態ではないから別にどうということはないが。
こうした状態のとき、それなりに刺激があり咀嚼しやすい形で提示された情報を欲するようになり、ついついSNSというかTwitterばかり見てしまう。特にフォローしているわけでもないが、知り合いの知り合いぐらいの関連性がある人で、時事問題に対して常に適切な反応を示しフォロワーからプロップスを得ているインテリというよりもクレバーないしスマートと形容すべきアカウントのツイートをだらだらと読みがちだ。決して暴論を呟いてしばらくしてから該当ツイートを消したりしないタイプで隙がない。きっと仕事ができるに違いないと言う印象を抱かせる。実生活も充実していそう。
こういうアカウントを見ているとなぜか新進気鋭の読モのinstagramを見たときのように軽くヘコむ。おそらくその人と自分を比べたときに自分の鈍臭さがより明確になるからだろう。自分は「オシャレをしないことでより本質に近づくことができる」と考えるタイプでないので当然「鈍臭い人間のほうがより本質に近づくことができる」とも考えない。それゆえにへこんだ気持ちを梃子にして鈍臭い自分を上位に位置づけることができない。できないというかそんなことしてもしょうがないと思っている。
このように自分と比較してその人物のことを判断しつつ同時に自分の性質を意識してしまうときは視点が主観に固定されてしまっている証拠だ。主観というか自分との関連性でしか物事が見れなくっている状態を「自分酔い」と勝手に呼んでいる。「主観酔い」と言っても良い。ひどいときはすべてのことが自分に対するあてこすりに感じられてしまう。最近はそこまで悪化することはないが、20歳前後はそういう症状に悩まされることが度々あった。
「自分酔い」したまま勢いよく一生を終える人もいそうだが、自分の場合「シラフな奴でいたいんだ」願望があるので無理。と言いながらまた比較してしまっている。自分の影を振り払うことは不可能なのだろうか。いや日陰に入れば良い。寄らば大樹の陰ってね。深いねこれがどうも。
取り扱いが今ひとつ苦手であるところの時事問題に関してひとつ言及すると、稲村亜美さんに中学生球児が押し寄せた件は本当に胸クソ悪くなった。「ま、男子中学生なんて性のことしか頭にないから、こうなるわな。しゃあないわな」といった意見も散見されたが、全然しゃあなくない。あれが「男子の悪ノリ」として片付けられてしまうのなら、我々は「男子」からも「悪ノリ」からも一生逃げて逃げて逃げ続ける必要がある。
話は逸れるが、高校生の頃、保健体育の授業で体育教師が「性欲が全くないなんて男がいたらちょっとどこかおかしい。そんな男は気持ち悪い」というようなことを言っていたのを思い出した。当時からこの発言に違和感があったが、改めて独善が過ぎると感じる。決して「性欲は幻想である」とは思わないが、それにしたって決めつけ方に遠慮がないというかなんというか。「性欲は誰もが持つもの。恥ずかしがって変に抑えつけたりしなくても良いんだよ」ということが言いたかったのだとしたらそうやって言えば良いだけの話。「そんなことは絶対に言わないよ!」ってことだったらごめんなさいなんだけど、こういう手合は「下の口は正直だな」とか言いそう。悩める人を見つければ「風俗に行け」とアドバイスしそう。
できることならば、いくつになっても男子中高生のような精神を死守せねばならないという観念からは距離を置いて暮らしたい。いくつになっても男子中高生のような精神を死守せねばならないと考える人たちは性に関して明け透けで、下ネタを介したコミニュケーションで連帯を強めようとしがち、というのはステレオタイプだろうか。「性欲こそが人間の本質であり、性欲に従順になることがもっとも人間らしい振る舞いである」という前提を彼らは共有しているのだろうが、個人的には共有したくない前提だ。そんな前提の下で人間を正直者もしくは嘘つきに分類できるというのなら嘘つきのほうにカテゴライズしてくださって結構でございます。
ついでにいうと予てから「本質」という言葉が気に食わない。おそらく「気取り」の対義語として「本質」という単語を使っているのだろう。「気取り」という皮を剥いていてくと「本質」が現れるらしいが、玉ねぎの皮を剥くのと同様、いくらそんなものを剥いたところで何も出てこない。端から世の中には「本質」なんてものは存在しない。それでも尚「本質」という単語を使うのならその「本質」とやらの内容を明示すべきだ。それを明示しないまま都合の良く場当たり的に「本質」という単語を使うのはカルト集団と同様のやり口ではないのか。
こうしたことをこのブログを始めた頃からずっと書き続けているから、5年も同じ内容を度々書き連ねていることになる。人間の「本質」はそう簡単には変わらないということなのでしょうか。初心に帰って色々と頑張りたいと思います。

 

Masamichi Torii