お気に入りの気に入らないもの

一週間後に31歳になる。おそらくおじさんからみたらガキンチョだが、中高生からしたらもうおじさんに映るだろう。もう決して若くはない。その事実は受け入れるべきだ。「いくつになっても中学生のときの気持ちは忘れないんだぜ」なんて言おうものなら、過去からタイムスリップしてきた14歳の自分に「オマエみたいなオッサンと一緒にすんな」と吐き捨てられ、駅のホームから突き飛ばされても文句は言えない。14歳のときの自分を裏切らないためにも我々は歳を重ねることと向き合っていかねばなるまい。
Zoffで眼鏡を作ろうと思って10年ぶりぐらいにルミネエストに入ったのだが、ここは自分が来る場所ではないと感じた。客層が明らかに若い。自分の周囲だけ色がくすんで見える。店内の明るい照明を弾き返すことができず、その輝きをただ吸い込んでしまっているように感じられた。自分はもう二十代前半ではないのだと改めて思い知らされ、とてもショックを受けた。そして、未だに二十代前半ぐらいの気分でいた自分にも驚かされた。なんとも情けない話だが。
小学生も高学年になってくるとブリーフではなくトランクスを履く者が出てくる。水泳の授業の前など、皆で着替えているときにトランクスを履いているものを発見すると、ああ大人っぽいなと感じたものだ。あるとき、チキンラーメンだったか出前一丁のキャラクターがプリントされたトランクスを履いている者がおり、なんて楽しい下着を履いているのだと思って羨ましくなった。
後日、母がスーパーに行くというのでついていった。2階の衣類コーナーで出前一丁のキャラクターがプリントされたトランクスを発見したので、ねだってみると「こういう代物はいただけない」と退けられた。トランクスが欲しいのなら、ちゃんとしたトランクスを買ってくるから待ってろとのことだった。ちゃんとしたトランクスとはなんなんだ。チェックのトランクスのことか。あんなつまらない下着を履いてたまるかよ。
当時はそう感じたのだが、思春期に差し掛かり、色気づいてくると徐々に「こういう代物はいただけない」という価値観が飲み込めるようになってきた。ブランドのロゴは小さければ小さいほど良い、むしろないのがベター、なんて価値観は当時覚えたもので、未だにそう思うのだが、今は「インスタ映え」という観点からロゴがどんどん大きくなっているなんて話も聞く。
幼い頃、高速道路を走行中に、リアウィンドウにぬいぐるみをたくさん並べている車を見かけ、「なんだあの楽しそうな車は!」と思い、「うちもあの車みたいにしようよ」と提案したら「恥ずかしいからやらないよ」と却下されたこともあった。
「キャラクターグッズは絶対に使わない」と宣言する人の話を聞いていてそんなことを思い出した。年頃の少年少女が言うのならまだしも、大の大人が敢えて「キャラクターグッズは絶対に使わない」と宣言しなければいけないほど、キャラクターグッズは世の中に氾濫しており、また大人がそれを使用したり身につけたりすることがそこまでおかしなことではないとされている、ということなのだろうか。ダンディズムなんて夢のまた夢、真っ当に年を取ることすら困難な状況において、なんとかしてその道を見つけようと模索する我々としては、加齢とキャラクターグッズの問題について改めて考えていく必要がある。
おそらく30年後、例えばサトシとピカチュウのイラストがプリントされたTシャツを着ている爺様なんて存在は特に珍しいものでもなくなっているだろう。けれども現時点においては、年齢に見合わないキャラグッズを身に着けている人を見ると、どうしても大友克洋の「童夢」に出てくるアラレちゃんの帽子をかぶった老人を思い出してしまい、やや恐怖を感じる。
楽器を試奏する際に、有名な曲のリフを演奏するのは恥ずかしいことだとされている。たしかに楽器屋で誰もが聴いたことのあるようなお馴染みのリフが聴こえてくるとこそばゆい気持ちになる。楽器屋に限らずライブハウスでもサウンドチェックの場面などでそれなりに知名度のある曲のリフやリズムパターンを演奏することは恥ずかしいことだといえよう。他人のライブを聴きに行って、サウンドチェックのときにベースの人が”Tighten Up”など弾き始めたら、いくら”Tighten Up”が名曲といえどもやはりどこか落ち着かない気分にさせられるはずだ。そうは言うものの自分もたまにやってしまう。
これはどういうタイプの恥ずかしさなのか。すこし考えてみたい。
あなたがまだ中学生で誰かに恋をしたとする。それは初恋と呼べるものかもしれない。ある日、あなたは片思いした相手が椎名林檎のファンだという情報を得る。そのことを意識し、いかにも自然な感じを装い、それらしいタイミングで「ああ~やられたり~やられたり~♪」とその相手に聴こえるように口ずさんだとする。
そんなことをする自分が許せるか。こういうタイプの微妙な厭らしさないし恥ずかしさに近いものを感じるのだがどうだろう。メッセージの発し方の思い切りの悪さ。いじましさ。
大して馴染みはないが、知らないこともない曲がある場所で流れており、その空間においてはその曲に慣れ親しんでいることがヒップであると予想できるといった状況で、その曲を知っていることを暗に示すためのパフォーマンスとして、その曲に合わせて鼻歌を歌う人がいる。そのときに、頻繁にメロディやリズムから外れたりして、明らかにうろ覚えだとわかる場合、その場に居合わせた者は気まずい思いをするだろう。「あ!この曲知っている!いいよね!」と言うのはいささか直接的すぎるし、あまりスマートではないという理由でこうした行動を取ってしまうのだろうが完全に逆効果で、全然スマートではないしその姿はむしろ滑稽に映る。
出囃子が鳴り響く中、ステージに登場するという演出も耐え難い。本当に。他人がレディへのクリープをバックに肩で風を切ってステージに登場しようが別にどうでも良いが、自分がやるのは絶対に無理。ミッシェルが「ゴッド・ファーザー 愛のテーマ」で登場するのは見事だとしか言いようがない。「やったー!」という気持ちになる。あれこそが演出だ。微妙に外した選曲が一番恥ずかしい。見ているこちらが恥ずかしくなる。2、3人の身内を対象としたユーモアにただ鼻白むのみ。
ファンキー仕立てのジャムセッションほど我々のバイブスを殺すものはない。BPMが125ぐらいでキーはEm。ファンキー風のドラムパターンとファンキー風のベースライン。ニュー・マスターサウンズなどイギリスのジャズ・ファンク・バンドのようなリフをバンドブーム期のバンドのようなタイム感で演奏した感じといえば伝わるか。本当に嫌だ。その嫌さは、このようなファンキー仕立てのジャムセッションを撲滅するのが自分に課せられたミッションなのではないかと思うほどである。似非ファンキージャムセッションはSNSでよく見られる自分が何かすればそれがそのままコンテンツになるといった思い上がりに似ている。誰もが生来的に持っているダサさに対し、我々は蹴りを入れて誰がボスなのか教えてやる必要がある。
幸せって一体何なんだろう。

 

Masamichi Torii