基本的に何をしても暖簾に腕押しという感覚が抜けず、その結果アパシーのような状態になりがちだが、これは「期待は失望の母である」いうナイアガラ語録の通り、何かしら期待するところがあるがためにこのように心が感じてしまうに違いない。いっそ自分のしたこと関わったことに対して、手を離れた瞬間から、ポルターガイストだとかキャトル・ミューティレーションのような主体が判然としない現象のようなものだと考えてしまえば少しは気が楽になることだろう。
それをさらに発展させて、自分のことを透明人間ないし幽霊だと思って暮らしてみるのも良いかもしれない。しかし、それはやり過ぎというもので、他人からしてみれば強い自己愛の裏返しであることがありありと見て取れてとても気持ちが悪いはずである。仮にそのような心づもりであっても他人には言わないのが吉。しかし、自己愛の強い人間に対する世間からの揶揄がある一方で、そういう歯の浮くようなセリフを平然と言ってのける人物が案外スムーズに出世したり人気者になったりモテたりするものだ。だからここはあえて高らかに透明人間宣言をしてみるのも悪くはないだろう。素っ裸になって「ボクは透明人間だぞー!」と叫びながら街中を駆けまわってみたら意外に好評を博すかもしれない。もちろん「嘘をいっては困ります」という指摘もあるだろうが、そんなのはまだ可愛い方で、白字で大きく”N”と書かれたリュックを背負った小学生に「狂い方が凡庸」と一刀両断されて興醒め、なんていう結果を予想することもできる……ポップなことをしようとすることは誠に難儀なことである。地獄の沙汰もキャラ次第なんていう身も蓋もないことわざもあります。
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小学生の頃、友達の妹に散々おだてられた後に、「本当だ。褒められると鼻の穴が広がるってお兄ちゃんが言ってた」とからかわれてとても恥ずかしい思いをした。爾来、人から褒められたりすると鼻の穴が広がっていないか意識してしまうようになった。
顔面に端ない笑みを浮かべた人物がこちらの着ている服をまじまじと見つめて「そういう服ってどこで買うの?」と厭味を言ってきたときのことを反芻しながら、大根や豆腐に針をびっしり刺しているときなど、小鼻あたりが強張ってピキピキ動いているのがわかる。
これら少数の例に鑑みて、自尊心のツボは小鼻にあるのでは、と考えた。鼻は顔のパーツのうち、視界に入れることができる唯一の部分だと指摘する人もいる。そこに自意識が集まってきたって何ら不思議ではない。
そこで、ひとまず人差し指で小鼻付近を揉んだり押したりして刺激を与えてみたところ、まあまあ心地が良い。自尊心を傷つけられたときや、反対にちょっと自惚れてみたいときにやってみたら良いと思います。効果があるのかないのか知らないが。
ある友人が「表情は感情に先立つ」みたいなことを言っていた。例えば、何はなくとも口角をあげていると自ずと楽しい気分になってくるということである。ちょっと試してみてよというので、実際にやってみる。三十がらみの男が二人して口角をあげながら向かい合っている図は、あまり気持ちの良いものではなかろうが、少なからず効果はあったように思う。それが単なる思い込みであろうと。
小鼻にしても、人から褒められたときの鼻の穴の形を思い出してそれを再現すれば、人から賞賛を得たような気持ちに浸れるのではなかろうか。自尊心が傷つけられたときや、反対にちょっと自惚れてみたいときにやってみたら良いと思います。効果があるのかないのか知らないが。
ある日、帰り道に立ち食い蕎麦屋に寄って、今日は一杯飲んじゃおうか、なんて言ってビールを一杯飲んで、蕎麦も頂いて腹八分目。ほろ酔い気分の上機嫌で帰宅して、ハミングなどをしながら何の気なしに鏡に目をやると、無表情の自分が映っていたので思わずビックリ。自分としてはもっとにこやかな顔をしているつもりだったが、無表情というものが顔にぺたりと張り付いているようで異様だった。まさにオーネット・コールマンのDancing In Your Headのジャケを天地逆さにしたような状態で、表情と気分の乖離に非常にショックを受けたのだった。念の為にショックを受けた顔も鏡で確認したところ、やはりこれもまた無表情で、もはや笑うしかなかった。厳密にいえば笑っていないのだが…
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無印良品で買った自転車を乗り回して9年程経過した。チェーンが経年変化によりだるんだるんに弛んでおり、上り坂を登っているときや急いでいるときなどに高い負荷をかけると簡単に外れてしまう。この自転車を運転しようと思ったらチェーンが外れないように配慮して慎重にペダルを漕がねばなるまい。
現在使用しているスマホにしても2012年に購入したものだからすこぶる動作が遅く、外出中に急いで調べ物をしなくてはいけないときなど毎回イライラしてしまっていたが、最近はもうそういうものだから仕方がないとあきらめて、負荷のかかるような使い方をしないようにしている。
仮に機能が充分に果たされていなかったとしても、人間が道具の都合に合わせるということがあっても良いのかもしれない。そんなことを思った。いくら相手が我々の作り出した道具といえども何でもかんでも人間の思い通りにいくと思ったら大間違いだ。そんなことで毎度毎度ストレスを貯めているようでは長生きできないだろう。
などと言っておけば何となく収まりが良いのかもしれないが、有効に使われるはずだったエネルギーが穴の空いたバケツから駄々漏れになっていると考えるとむかっ腹が立って仕方がない。所詮道具は道具。使うのはあくまで人間のほうであって、その主従関係ははっきりとさせなくてはならない。
かの村上”ポンタ”秀一はテレホンショッキングに出演した際に、設置されたドラムセットに蹴りを入れて「ドラムはネ、こうやって言うことを聞かせるんスよ」と言って演奏を始めた。
運転免許合宿の最中、頭をパンチパーマにしているクールなオバチャン教官に当ったときに、おっかなびっくりアクセルを踏んでいたら普段の冷静でドスの利いた口調からは想像できない明るい調子で「ぶっ飛ばせー!車はぶっ飛ばすもんだー!」と言っていた。
かようにして道具どもに一体誰がボスなのかということをわからせてやらなくてはなるまい。人間が道具に合わせてペースを落とす必要などまるでなし。使えない道具はコンクリートの壁などに力一杯叩きつけて今すぐ買い替えてしまおう!
さて、エネルギー駄々漏れ問題は相手が道具であればある程度対処のしようがあるが、相手が人間の場合はどうだろう。一緒に働いている人がいちいち右クリックでコピー&ペーストをしているのに気づいてしまったときなどどうしますか。イライラしますか。
また、集団で一丸となり、何かに取り組まなくてはいけないような感じの雰囲気が醸成されつつある気配がみられるときなど、いかにして各々のエネルギーを効率良く伝達し、目標を達成していくべきか。これについては話がややこしくなりそうなので何も言わないのが吉だろう。
ひとつだけ言えることは、集団における各人のエネルギーの投入についても「ロー出しハイ受け」がより好ましく最も効率の良い方法ということだ。つまり個人が投入すべきやる気や情熱にも適量というものがあるということである。そして情熱のはけ口をどこに見定めるかということも肝要だといえよう。何でもかんでもやたらめったら情熱を注ぎこめば良いというものではない。(山王戦でゴリが回想するビターなエピソードを思い出してみよう。そして、期待は失望の…何だっけ?)
文化祭などの行事になると、気分の高揚から無闇矢鱈と張り切りって余計な仕事ばかり増やす人がいる。なんとエネルギー効率の悪いことか。やはりその時々の環境に見合った熱量を注がなくてはならない。だから場合によっては前向きな気持ちを胸に抱いたまま何もしないで横になっているのが最も効率的なんてこともある。むしろ、いついかなる状況であろうと何もしないで横になっていることが最良の選択であることを我々は経験から学んでいる。
なんて言っておきながら、大人しく横になって寝ておけばいいものを、ここ数日間は「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」などとブツブツ唱えながら、夜なべしてミックステープを作成しています。”Dancing Crab”に向けて。我ながら物事の優先順位がおかしいと思いますが。最近は自分のことを例えるなら紳士服店の一角を借りておはぎを売ろうとしている人ではないかと考えるようになりました。もう良い歳なので「私はクリープ。私はウィアード」とは思いませんが、”What the hell am I doing here?”と思うことはしばしば。ひとまず経済の仕組みについて一から勉強したほうが良さそうです。
ライブは日付変わって本日5月13日。場所は渋谷NEST。どうぞよしなに。
https://www.youtube.com/watch?v=xdK8Hq7RmJ0