再びリズム論のためのメモ

頭に拳銃を突付けられて以下のように書けと誰かに脅迫を受けているわけでもないのになぜこんなことを書かなければいけないのかという疑問もあるし、いささかオカルトめいていてヤバイなとも思うのですが、敢えて言ってしまうと、音楽や音それ自体が情緒や共感など知ったこっちゃないという顔で聴く者の期待などお構いなしにそこかしこを所狭しと奔放に動き回るものであるという事実に対し、我々がこうも無関心なのは、音楽が音楽として機能することを阻み、音楽なんぞ耳を傾けるに値せず日本語として意味が通じさえすればそれで充分だという態度で音楽の自律性を排除し、音楽が比喩表現の一種であったことなど未だかつて一度たりともなかったにも関わらず、そのように扱ったほうが何かと都合が良いという理由で音楽にその役割を押し付け、その絶えず動き回るものを日本語の枠内に押し込めて安心せんとする日本語一派の末裔だからではないかとついつい考えてしまいます。誰かが自らを音楽関係者と称し、いかにもスマートなリアリストといったツラを装って音楽業界の現状分析などをしながら逆説的に音楽なんか時代錯誤で退屈だから聴かなくて良いよ、それよりもこっちをお食べ、などといって一口サイズの駄菓子状になった日本語を配布して回ると、訝しながらもそれを受け取り、口の中に充満した甘みにウットリとするうちに、自らの頭部に耳という器官が付いていることを忘れ、その駄菓子状になった日本語を舌で撫で回した後、今まさに咀嚼されつつあるぐちゃぐちゃになった日本語を口を開いて人に見せたかと思えば、ただその日本語について語ることにかまけるばかりで、音楽は聴くものであるというとりあえずの前提を有耶無耶にしてしまいがちです。今は気が利いたようなコメントをSNSなどで呟いてさえいれば何か音楽に寄与した気分に浸れるのかもしれませんが、音楽に耳を傾けずともちょっとした来歴やインビュー記事、他人による見解など文字による情報を目で追っただけで言えてしまうような頓智ないし屁理屈などは音楽そのものとは一切関係がないことだし、例えば一時期流行した高速4つ打ちと呼ばれるスタイルに対して遺憾の意を表明することも、音楽的良心の発露や音楽の退廃を憂う素振りに見えてその実、一口サイズとなった日本語の流通経路の拡充に加担することに他ならず、そういう態度こそが退廃を加速させているとしか言いようがありませんが、あくまでその退廃は我々自身の退廃であって、まかり間違っても音楽自体の退廃ではないのだから、そんなものは放っておけば良いとは思うものの、そういう取り違えを無自覚なまま繰り返した挙句、謙遜のつもりなのか、それとも音楽を貶めることで自己の優位を示したいのか、やはり音楽関係者を自認しながらも、文学やお笑い、スポーツなどの他ジャンルに比べると音楽なんぞ大したものではないと訳知り顔で嘯く者もおり、それが個人の趣味の問題に帰することは重々承知のつもりですが、それでもやはりこのような手合は放っておくと、仮にダーツの矢が顔面に二三本刺さっていたとしても痛いとも痒いとも感じることもなく、他人から、ちょっとあなた、顔に何か刺さっていますよと指摘されるまでそのことに気付かないほど厚くなったツラの皮を引っ提げて大した根拠も持たずしてつけあがる一方なので、どこかでしかるべき制裁が下される必要があると考えますが、かといって、そのツラの皮の厚さを面白がってその人物の顔面を物陰からこっそり吹き矢の的にして、刺さった、刺さったと喜んだりするのはやはり人の道から外れた行為だから決してやってはいけないことだよなあ、と思いつつ、しかし、このようなことを書き連ねること自体が物陰からこっそり他人の顔面を吹き矢の的にして遊ぶ行為に他ならないかもしれないよなあ、と思いさすがにしのびない気持ちにもなったりしますが、それでも尚そういった不遜な台詞が何の逡巡もなく口からぽろんと出てきてしまう人物に対し、大したことがないのは果たして音楽の方なのか、例えば大したことがないのはお前の耳であるという可能性はありはしまいかと一考を促すことが我々がみせるべき唯一の親切心ではないかとは思うものの、根っからの日本語一派にありがちなことですが、例え試合に負けさらには勝負にも負けたとしても最終的に頓智や屁理屈を捻り出して彼らが論破と呼んでいる得体の知れない呪文のようなものを下卑た笑みを浮かべ下卑た調子で唱えさえすれば、いつでも一発逆転できるだろうと高をくくっているので、耳がどうのといったところで、いかにも日本語以外信ずるに値せずという態度で、やれ本質だの、やれ自意識だの、やれ本当に○○な人は△△だの、やれ純粋さがどうしただの、やれ人としての器がどうしただの、やれそんなことを言っている奴はモテないよだの、夏休みや冬休みに成田空港で取材されている小学生のほうがもっと気が利いたことを言ってくれるであろうと思わずにはいられないような十年一日のごときクリシェをしたり顔で言い返すのが関の山で、まったく冴えたところのない大学2年生がぬるいニヒリズムから口走りがちなフレーズをこの期に及んでまだ言うかと思わんでもないのですが、たまにはそういった対話を通じて何があろうと決して変わらないものの良さを味わいながら、故郷の山並みなどに思いを馳せてみたりするのも一興かもしれませんが、そうは言いつつも変化を希求する素振りを見せながらも何をしたところで決して何も変わらないという現実に自足しきって、長年住み馴れた淀みに対し、それがどんな腐臭を放っていようと、愛着や一抹の安らぎを感じてしまう自分も確実にそこにいるわけで、自分のことを棚に上げて他人になんのかんの言えた義理などどこにもないよなあ、余計なお世話だよなあ、脊髄反射的にクリシェに対してクリシェで返しているだけだよなあ、脊髄反射でものを言うようになったらいよいよヤバイよなあ、こんなことではたしかにモテナイよなあ、といった具合に少しは前頭葉を使って反省してみせる必要があるのかもしれませんが、今そんな悠長なことをしていられるほどの余裕はありません。我々に課せられた急務は再びリズムについてじっくりと取り組むことであり、リズムについて日本語で語ることの滑稽さ、無様さを改めて知ることでありますが、それはまた別の機会に譲りたいと思います。

 

Masamichi Torii