インタビュー考

発売されたばかりのエイサップ・ロッキーの新作を買うために新宿のタワーレコードに寄ったときに、スヌープ・ドッグが表紙のバウンスが気になったので一冊もらってカバンにつめこんで、帰宅してPCを起動させている間にバウンスを手にとりページを数枚めくるとミツメの写真が現れたので、あ、ミツメだ、と思って、中身を読んでみることにした。
それは新しいシングル「めまい」の宣伝のページで、主にミツメへのインタビューで記事が構成されている。そこでミツメの面々は、曲作りのこと、アレンジのこと、演奏のこと、レコーディングのことなどについて答えており、それを読んで、すごくいいなあと思い、そして、とても羨ましくなってしまった。
誰もそのようなことを質問してこないということは、まあ、そういうことなんだろうと察して、もっぱら暖簾に腕を押して鉄の拳を作る日々なのだが、未練がましくも断ち切れない思いがあり、誰に訊ねられたわけでもないのに自ら語ろうとしてみても、その瞬間、気持ちが萎えてしまう。それは、そうした話題を取り上げるときに独白という形式を取ってみても大しておもしろくはならないだろうという予感があるからだ。そのような話題を口にする場合はやはり対話であるインタビューのほうが適しているだろう。
インタビューは本来的に、二人以上の人間がそれぞれの手に持った箸で、ひとつの里芋の煮物を共に持ち上げようとする行為に近いところがある。そして、その行為によって生じる、里芋の描く思いがけない軌道だとか、里芋を介して伝播する各々の力加減だとか、その里芋の行く末だとか、そういった類のものを契機として得られる興奮こそが、迂回を経ようとも却って里芋に生気を与えるのである。食べ物で遊ぶなという話もあるそうだが。
かねてからそれはありふれたものであったが、インターネットの発達によってさらに目についてしまうインタビュー記事の夥しさに鑑みて、インタビューというものは経済的に優れているのだろうなあと考えざるを得ない。それがインタビューと呼ばれるものであれば、内容如何を問わず、何かを読んだ気になれるし、「へえ、なるほど。おもしろい」と口にすることもできるだろう。そして、それが人に対して何かを考えさせるような、何か意見を言わなくてはいけないような雰囲気を醸し出すものであれば尚経済的である。
経済的であることを優先するのならば、里芋で遊ぶなんてことは不経済であると言わざるを得ない。この相反する二つのものを同時に処理するにはどうしたらいいのか。そんなことを考える筋合いはないし、その必要もないからここでは考えないことにする。
結局、今やらなければいけないことは暖簾に腕を押して鉄の拳を作ることにつきるのだが、もし万が一仮に、親切な人が目の前に現れて、何か楽しい質問してきたとしても、例によって何も答えられないと思う。そしてそれは仕方がないことであるとも思う。
だいたい昔から「HEY!HEY!HEY!」とか「うたばん」のようなトーク中心の歌番組が好きじゃなかったし、ミュージシャンという職業がこの世に存在することを認識したのは、小学校高学年の頃に、宇多田ヒカル、椎名林檎、ドラゴン・アッシュといったテレビでおどけた姿を見せることのない神秘的な人たちが登場してからのことである。そういう刷り込みが未だにあるから、言わぬが花というか、沈黙は金というふうにどうしても考えてしまう。問わず語りは野暮の極み乙女。こんなブログは即刻消去して、インターネットから撤退するのが吉だ。

 

Masamichi Torii