先日参加した打ち上げ二次会の最中、ふらふらしながら向かった便所で意識が暗転して、気がつくと目の前に小さな穴の空いたオフホワイトの陶器があり、それはすなわち便器の底だったわけで、今まさに自分が便器に顔を突っ込んで倒れているのだと理解した。それは非常にショッキングな出来事だった。体勢を直すと視界がぐるんぐるんぐるんとなっているし、顎と膝も痛む。情けない。
こんなことは飲み過ぎたときの失敗談の一つとして打ちやっておけばいいことかもしれないが、今こうしていても依然として目の前には便器の底があるように思え、落ち着いて考えれば生活・暮らしぶり全般が使い古しの便器に頭を突っ込んだようなものである気さえする。そういった現状を甘んじて受け入れて改心しこれからは努力して生きて行かなければと思った。
過日、バンドで出演したイベントで自分たちの出番の前にライブをしていた方が「俺はいかにして馬鹿に見つからないように自分のやりたいことだけをやっていくかってことを課題にしている」というようなことをMCの際に言っていた。 こういうことはなかなか言えるものではないと思う。なぜなら角が立つから。しかし、その言葉を聞いてなんだか元気が出た。ここは有り難く便乗させていただきたい。
「馬鹿に見つかる」ことの具体例としては、箸にも棒にもかからぬ馬の骨ブログでその発言を引かれ真意を捻じ曲げられることが挙げられるかもしれないが、まあそれはいいとして。よくないかもしれないが。
「馬鹿に見つかる」というと、どこかから馬鹿の一団が群がってきてああだこうだ好き勝手に思い思いのことを口にしている状態とも思えるが、それだけで済む話であればその後に「自分のやりたいことだけやっていく」とは続かない。やはり人には、人情または業ともいうべきものがあって、称賛の声に気を良くしていらぬ色気を出したり、反対に石を投げられて我を忘れたりということがあるし、思い上がった結果腐る、余計なしがらみにがんじがらめになるうちに本来のあり方を失う、ということが必ずついて回るからなるべく見つかりたくないのである。それは観光地やテレビで紹介された飲食店、深夜からゴールデンに進出したテレビ番組の末路でよく知るところだ。
ちなみに「ブレイクすることは馬鹿に見つかること」と言ったのは有吉弘行で、これは頭の悪い視聴者に見つかることについて言及したわけではなく、業界内のミーハーな人間から人を舐めたような仕事のオファーが来ることを指してこのように言ったそうだ。
「馬鹿に見つかる」という言葉ももはや馬鹿に見つかった感がなきにしもあらずなのだが、他人のことばかり言って、自分の中に馬鹿を見つけるという作業をないがしろにするなら小インテリなんかやめちまえと思うこともあるが、そのことについては今は捨て置きたい。
周囲の声など気にせず元気にワーイとやっていければ万々歳であるが、そこまで人間ができているはずもないわけで、だから、そもそものところを確認すべきだと考えた。大瀧詠一がサンボマスターの山口隆とで行った対談の際に言ったこと。
山口 はっぴいえんどは音があまりにもオリジナルすぎて、当時の日本では誰にもウケないだろうなとか……そんなことは思ってないでしょう。
大瀧 他人にどう思われようとか、そのようなことはゼンゼン。俺は永遠に、未だにずーっとイーハトーブの住人だよ。それ以外、考えたことない。この中から、俺は一ミリも出たことがない。他人がウケているから自分もウケようとか一切思わない。
(中略)
あのね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も他のいろんな名作も、生前には出版されなかったんだよ。本人は自分の作品がこんなにウケているんなんてぜんぜん知らずに死んだんだ。それでもクリエイティヴィティを失わないで、創作し続けたそうなんです。(Quickjapan65号)
ほだほだ、ウケるウケないなん知らぁすか!(三河弁)と言い、「オレの表現」というようなものに拘泥して意固地になるのは早合点で、これは特に避けたいことである。そういうものに固執して本人は純度のようなものを高めているつもりであっても、結局それはただの怠慢としか言えないことが多い。続いて、『橋本治という行き方』に収められている”「自分」を消す”というエッセイで橋本治が書いていたこと。
曰く。古典芸能の世界において主体は「やる自分」にはなく、あくまで古典芸能の側にある。「自分」が出るというのはシロートのやることであり、それは非常に恥ずかしいことで、”古典芸能をやるのに重要なのは古典芸能それ自体が持つ本来性なのだ”という。
そして、それは何も古典芸能に限った話ではなく、ひょっとすると表現一般に関しても同様に思っているかもしれないと続く。”「自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重したほうがずっと確実である”。しかし、それの言いなりになり、ただ従うだけであれば、「自分」は排除され「本来性の番人」になってしまう。そうなったときに自分が守ろうとしている本来性がそれに値するものかどうかという判断はつかなくなる。そこで一度本来性の中に入っていくことが肝要となる。以下引用。
本来性というのは、支配者ではなくて、存在に関するフレキシビリティである――私はそのようにしか考えないから、本来性というものは、「自分を活かしてくれるもの」である。それの番人になって、ただ「本来性」として守られるためだけに存在している本来性を守ってもしょうがない。本来性は「自分」の外側にあり、そうである以上、「自分」というものは、常に本来性から排除されている。だから、一遍は本来性の中に入らなければいけない。そのためには、本来性との間で違和を成り立たせる「自分」を、一遍殺さなければならない。そうやって本来性と「自分」とを同化させて、「自分とは無関係に存在させていた本来性」を、「自分を活かすための本来性」に変える――この”変える”のプロセスが、「仏にあったら仏を殺せ」である。私はそのようにしか考えない。
「仏を会ったら仏を殺せ」という素敵な文章に出っ喰わしたのは、三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいた時で、《仏に遭うては仏を殺し、祖に遭うては祖を殺し、羅漢に遭うては羅漢を殺し、父母に遭うては父母を殺し》と、えんえんと続く。今の人は短絡しているから、本当に父母を殺したりもしてしまうが、つまりは、「意味を殺す」である。
「自分」の外側には、強大な「立ちはだかる」とも思えるような「意味を発散するようなもの」がある。つまりは「幻想」である。「幻想だから壊してしまってもいい」と思うと、「すべては幻想である」という接続パイプによって、なんにもなくなってしまう。もう少し冷静になるべきで、それが「幻想」でしかないのは、それが「こちらを排除する形で存在しているから」である。だから、「そこに入る」が必要となる。入って、「自分を排除していた要素」を殺す。それが、「仏に会ったら仏を殺せ」である。そんなにめんどうなこととも思えない。
”本来性というのは、支配者ではなくて、存在に関するフレキシビリティである”というところがミソで、「本来性」をたった一つの「正解」のようなものと考えると何だか非常に窮屈で邪魔臭いものに思えてしまうが、先の引用のように書き換えが可能である柔軟なものと考えればなんとかなりそうなものである。
そして、前後の脈略をすっとばして、再び大滝詠一の他の発言。ロンバケ30周年を記念したレココレ誌上のインタビューより抜粋。
羽生(善治)とか渡部(明)が研究してる升田幸三っていう棋士がいるんだけど、その升田を評して谷川元名人が言っているんだよ。素晴らしい棋士には三要素ある、と。まず勝負師という一面。芸術家という一面。そして研究家という一面。この三つのバランスがとれている人が名人なんだ、と。これはなかなかいい話だと思って。音楽家には研究家が多いんだが、あなたが言ったのは、研究家には芸術家の面が足りないっていう意味なんだと思う。(※)で、芸術家の人って、特に日本では研究面が足りないんだよ。かといって、研究家が勝ちすぎてる人は勝負が弱い。芸術面も研究面も今いちなんだけど、勝負だけできてる人もいる。これが三位一体っていうのは大変なことで。(中略)でも、日本ではね、研究家の人が芸術家でもあると嫉妬を買うのよ。ここが研究家のつらいところなんだな(笑)。しかも、勝負師の面を隠さないといけないのよ。で、研究家で芸術家で勝負師だっていうのがバレたとたん一気に嫉妬を買う。
※当時、ポップスをやっているミュージシャンはコンセプトなどは面白いにしても歌手としてのパフォーマンスがきちんとできていた人は少なかったのではないかという聞き手の意見を受けて。
これはどこか心当たりがあっておもしろいなと思った。また大滝詠一は自身のコロムビア時代を踏まえて「研究家で芸術家の人は時々勝負に負けるとかして嫉妬を買わないようしなとね(笑)。特に日本では。でないと、ただただ石を投げられるという現状があるんだよ。」とも冗談交じりに語っている。
話は前後して、先の引用に嫉妬という言葉が出てきたが、人に嫉妬を買われることよりももっと根深いのは自分が誰かに嫉妬することのほうだ。世の中には偉大な「ジェラスガイ」もいたりするが、自分のような矮小なジェラスガイは嫉妬するとロクなことを起こさない。そこでまた別の人物の、頭に冷水を浴びせるような発言を引きたい。
「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」
と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」
立川談春の『赤めだか』からの一節で、何かと待遇の良い弟弟子志らくに嫉妬した談春に対して師匠の談志が言ったこの平手打ちのような言葉をいつも肝に銘じておきたい。