やはりブログには皆が興味のあることを書いたほうが良いのだろう。そこで今回のお題は筋肉。
筋肉にまったく関心のない人っていないと思う。中には、俺は筋肉なんてどうでもいい、と言い張る人もいるかもしれない。しかしあなたは生まれてきた我が子の姿が筋骨隆々だったりしたときに、「あ、マッチョだ」と思わずにいられる自信があるか。ないだろう。得てして人は筋肉から目をそらすことができないのである。
学生時代のある夏、有り余る時間を筋トレだけに当てていたことがある。日中、アパートにこもり腹筋や背筋やダンベルを使った横文字のトレーニングなどした。食事にも気を使いタンパク質を多く摂るようにした。
その夏の暮、サークルの合宿のときに久しぶりに会ったサークル員たちに「鳥居さんマッチョになってません?」と言われる程度には筋トレの成果をみせた。しかしマッチョになったことがちょっとした論争を巻き起こすことになる。
「見せかけの筋肉」論争だ。筋トレでつけた見せかけの筋肉なんぞ無用の長物。実戦で使えない筋肉は筋肉ではない。肉体労働者の筋肉こそが美しい。といったもので、そこでは筋肉の本質が問われた。こうした論争が起こること自体、いかに筋肉が捨て置くことのできないものなのかを表している。
しかし考えてみればこういった論争が起こるのは別に筋肉に限った話ではない。例えば「筋肉」を「勉強」や「お金」に置き換えてみても特に違和感はないはず。これらの本質を問うというテーマは極々ありふれたものだ。
「いくらガリ勉で成績が良くたって最終的に地頭の良い奴が社会では勝つ」
「いくら金を稼いで貯蓄したところで、金の使い道を知らなきゃ意味がない」
こうした物言いは頻繁に耳にするところだ。
こういった本質論みたいな話が出る度にハッとしてしまう。ついつい「おまえは似非だ」と言われているような心持ちになるからだ。 「〇〇ぶりやがって」「自意識がちらくつく」「あざとい」などと聞いてもハッとする。これらの言葉は本質的なものを良しとする発想から生まれてくるものと考えて差し支えないだろう。ファッション○○や雰囲気イケメン、今日的な意味合いの「サブカル」に対する風当たりの強さなどもおそらく似たようなところから出てきている。
こういうものに拘泥していると体力を奪われるから非常に疲れる。何をするにしても逡巡が付きまとう性格とは基本的に折り合いが悪い。
しかし本質の何が嫌ってそのゆとりのなさだよ。電車の座席に大股開いて座ってるおっさんみたいなもんで、隣に座られたら狭っ苦しくてしょうがない。密着しないように身を縮めるとその分だけ体を広げてくるからなおきつくなる。
互いの間に共有できる空間が少しでもあればちょっとした身動きもできようものだが、本質はそういう空間を有無を言わさず占拠して行くところがある。それゆえ本質がのさばる世の中は息苦しい。
だから「純粋な」とか「魂の」といったゼロ距離の褒め言葉にもちょっと辟易するところがある。もっと心地良い距離感があったって良いじゃないかと思う。
「音楽は余裕のもんじゃねぇか。」と言った大滝詠一にあやかって今年のテーマを「趣味趣味音楽」とした。これがなかなかどうも難しい。