※諸般の事情により塩漬けになっていた原稿に手を加えてこちらで公開いたします。
『クィア・アイ』
2000年代も終わりに差し掛かった頃のこと。かつてヘキサゴンのドッキリ企画で、目の前で財布をなくして困っている老人に対し、上地雄輔はどんな行動を取るのかというものがあり、上地は老人にお金を貸したうえに、メモを取っておいた老人の住所宛てに新品の財布を寄贈したそうだ。当時付き合っていた彼女が上地の優しさにとても感動したと言うので「そんなのどうせ仕込みでしょ」と返したところ喧嘩に発展した。
もともと性根は腐っている方だが、多感な時期にウェッティでベタベタしたピュア風のものが世に溢れていたから、その反動で輪をかけてシニカルな性格になってしまった。今にして思えば、そうした態度を取ることは、卑劣で意地汚い心の持ち主はこの世に存在してはいけないというのか、それはそれで心が狭くないか、臭いものには蓋をすれば良いと思っているのかという異議申し立てであったような気もする。ただの言いがかりでしかないのだが、当時は今よりも輪をかけて世間知らずだったから発想が無茶苦茶なのだ。
何事もネタとしてイジる作法を身に着けたのもこの時期のこと。ある種のバラエティ番組や2ちゃんねる、サブカル的なユーモアのあり方をなんとなく内面化してしまっていたのだろう。そうした態度がクレバーかつクール、あるいはヒップだと思っていた。
ウェッティなものを小馬鹿にし、人から嘲笑われる前に人を嘲笑っていれば、心がカラッカラに干からびてしまうことは当然の帰結と言えよう。突飛な服装をしたり、パーマをかけたりしても、どうせイジられるだけだと考えると馬鹿馬鹿しくなり、お洒落をするのもやめてしまった。同様の理由でインテリアにもこだわらなくなった。かくして生活から潤いは消えていく。人を呪わば穴二つではないが、シニシズムは結局自分に対する呪いとなって返ってくる。
2010年代も終わりに差し掛かった頃のこと。ひび割れ、荒れ果てた心にモイスチャーをもたらしたのは『クィア・アイ』だった。ファブ5たちは世界にはサニー・サイドがあることを思い出させてくれた。『クィア・アイ』を観ていなかった自分を想像するとぞっとする。鉢植えの下で蠢くダンゴムシのように暮らし、人を呪い、自らも呪い続けていただろうし、自分は賢い人間なんだと思いたいがために人に意地悪なことを言う愚を繰り返していただろう。そのような愚昧な暮らしぶりは2010年代に置いていこうと思う。