近頃またお腹が出てきた。食後、鏡にお腹を映してみるとなんだかアフリカに生えている木のようだ。見ていてあまり気持ちの良いものでない。インターネットで検索した結果、そのアフリカに生えていそうな木はボトルツリーと呼ばれていることがわかった。
今回お腹が出てきた原因はおそらく夏の間に砂糖がふんだんに使われている炭酸飲料を飲み過ぎたせいだろう。甘い炭酸飲料はラーメンやスナック菓子などよりも太りやすい気がする。
大人になったら甘い飲み物は飲まないものだと思っていたけれど、三十近くなった現在も毎日のようにガブガブ飲んでしまう。子どもの頃に周囲の大人を見て大人は甘い飲み物を飲まないという印象を持っていたから、大人になれば自然と甘い飲み物を飲まなくなると思い込んでいたが、よくよく考えてみたら加齢がもたらす変化よりも生育環境が与える影響のほうが大きいような気もする。彼らは小さい頃に甘い飲み物をそれほど飲んでいなかったはずだ。一方我々は小さい頃から様々な甘い飲み物に慣れ親しんできた。それで大人になっても依然と砂糖を欲する体質になってしまったのではないだろうか。
机の上にライフガードなどの甘い炭酸飲料を置いているとやはりお子ちゃまという感じがして恥ずかしいけれど欲望には抗えない。私にとって砂糖はやはり「幸せの白い粉粒」で、いつでも味わっていたいもの。なぜならいつでも幸せでいたいから。そんなふうに砂糖のことを考えているとなんだか口さみしくてなって落ち着かない。イライラする。今すぐ通りに出て叫び出したい。居ても立ってもいられなくなり思わずお腹の贅肉を両手で力一杯に握りしめた。内出血を起こすほどの強さで。そうすると心なしか砂糖への欲求が去っていくような気がした。ただし痛みは残った。この痛みこそ生の実感。
でもそんなことはもうどうでもよい。金木犀香る今は秋。気の滅入る曇天。地元ではお祭りの季節。うちの地区では厄年の男達が山車を引っ張って町内を練り歩く。神社では櫓が組まれて餅投げが行われる。餅投げは厄年の男たちが櫓の上から餅を投げ、櫓を取り囲んだ人々がそれを拾うというだけの儀式ではなく、餅には賞品が付いているため、この餅投げという昔ながらの風習には賞品を巡る戦いという側面もある。餅はビニール袋に入っていて、そこに親指の爪ほどの大きさの色紙が同封されている。この色紙を後から賞品と交換するという仕組みになっており、たいがいの色紙はポケットティッシュや亀の子束子にしかならないが、金や銀の色紙は電動アシスト自転車や大型テレビといった豪華賞品に交換できる。また、こどもの部というのがあり、これの一等はたしかゲームボーイだったはず。他にも女性の部などもあったような気がする。
それは小学4年生のときのことだったかと思われるが、餅投げの日、少年野球をやっているような発育が良く大柄な同級生たちがこどもの部に飽きたらず一般の部つまり大人の部にも参加するというので、それならばと自分も参加することにした。
餅を入手する方法は、櫓から投げられた餅を空中でキャッチする方法と、地面に落ちた餅を拾う方法の二種類ある。前者は大人たちよりも身長の低い小学生には難しい。だから後者の方法で餅を集める以外に手立てはなかった。
そのような事情から屈んで地面に落ちた餅を集めていたところ不注意にも手を踏まれてしまった。タイミングから察するに、不慮の事故といったものではなく明らかに意志をもって踏んできたように感じられた。ただ、悪意をもって手を踏んできたわけではなく、餅に執心するあまり餅に覆いかぶさった子どもの手をそれと認識せずにただの障害物ぐらいに思って咄嗟に足が出てしまったのだろう。しかし毒を食らわば皿までと思ったのだろうか、そこからさらにぐりぐりと踏みにじって手を退けようとしてきてなかなか足をどけてくれなかった。
相手を見上げると六十がらみの爺様が恨めしそうな目つきでこちらを睨んでいた。表情から察するに「邪魔しやがってこのクソガキが」ぐらいのことは思っていたであろう。
子どもにとって餅投げの大人の部に参加することにはある種通過儀礼のような意味合いがあったかもしれない。櫓の下で繰り広げられるのは興奮状態の老若男女が泥塗れになりながら他人を蹴散らし、欲望をむき出した状態でひたすら餅を拾うという熾烈極まる世界だ。日常の生活に比べるとそれはとてもアナーキーな世界に感じられた。とは言っても、この歳になって改めて参加してみたらそれほど大げさものではなくてもっと可愛らしいものに感じられるとは思う。それでもやはり、ぬくぬくと育てられて、家と小学校の中の世界しか知らないような子どもが、そんな大人の世界にノコノコと出て行ったら面食らうに決まっている。
筋の良い子であれば「あ、世の中ってこういうものなのね」などと言って世の中の対する落とし所がすんなりと見つけられたはずだし、そこから身構えて対処することもできたのであろうが、悲しいかなとても筋の悪い子どもだったので爺様に手を踏まれた瞬間に「あ、ぼくもうこういうの絶対にやりたくないです」と思ってしまった。今思えばそれは生まれて初めて心が折れた瞬間だったのかもしれない。もちろんそれまでにも子どもなりに軽い挫折のようなものは味わってはいたが、どれもその場限りの感情に過ぎず、未来に暗い影を落とすというようなものではなかった。しかしこの一件は、心に暗雲が立ち込めて将来の見通しまで暗くしてしまったようなところがある。そのときに、そこまでして他人を出し抜きたいと思わないし、今後はこのような血生臭い争いごとに一切関わってたまるものかよと思ったことを覚えている。今にしてみれば単に負け癖がついてしまっただけのような気もする。
飲み会などで全く遠慮ということをせずにそれをまだ食べていない人がいようがいまいがお構いなしにパクパクパクパク食べて食べて食べつくす人など見るとどうしても引いてしまう。皆で話しているときに人の話題を奪ったうえで一人で延々と演説を打つ輩も許せない。コンビニでフォーク並びが理解できずに順番抜かしする輩がいるとむかっ腹が立って「このイモ野郎が!」と思わず心の中で毒を吐いてしまう。ビンゴをやっていて列が揃っていても最後までビンゴと言い出せない。それもこれも餅投げで手を踏んづけてきた爺様に対する嫌悪感が影響しているような気がしないでもない。情けないことに「世の中ってそういうものじゃない」なんてふうに未だ折り合いをつけられずにいる。
自分が受け取るはずであった利益が他人によって不当に侵されているというような被害者意識が心のどこかに常にあって、それが思考の根幹に強い影響を与えている気がする。精神科医の春日武彦曰く『人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎない』と。
被害者意識というものは視界を曇らせるから用心しなくてはならない。過度な被害者意識と正義が結びつけば人をとんでもないところまで連れていってしまいがちだ。この組み合わせはもう本当に碌なものではない。自己憐憫の心を煽りつつ水面下で利益を自分の方へと誘導させようと企てる言説全般に対して我々はそれを見つけ次第反吐を浴びせかけてやらねばなるまい。「自分が受け取るはずであった利益が常に他人によって不当に侵されている」と思うのであればその反対のことも必ず検討していく必要がある。つまり「他人が受け取るはずの利益を自分が不当に侵しているのではないか」ということを常に念頭に置いていなければ、エゴは肥大化する一方であろう。というよりそもそもの話、自分がその利益を受け取ることを自明とする心性自体に問題があるのかもしれない。
そういう視点を欠いたまま「東京育ちは心に余裕があって、上京組はガツガツしている」みたいなことを言ってしまったらそれはさすがに不味いのではないか。しかし「東京育ちは心に余裕があって云々」という発言の根幹にあるようなある種の屈託のなさは本来美点として挙げられるべきだろう。むしろそういうものを積極的に擁護していかなければいけないところまで来てしまっているように感じる。及び腰で謙虚なスノビズムなんて毒にも薬にもならないことは火を見るよりも明らかだ。ものすごく低姿勢且つ柔和な語り口で書かれたユーミンの著作「ルージュの伝言」を想像すると、果たしてそれは面白いのかと考えざるをえない。『仁義なき戦い』の名ゼリフに「吐いた唾飲まんどけよ」というのがあるが、後からしおらしくされたところで興ざめするだけだ。DV男じゃないんだから。(ところで、この記事の冒頭の文章で仰っていることはとても素晴らしい!ALL ABOUT CULTURE わたしたちの文化の秋 〜みんなで文化を共有しよう!〜)
ルサンチマンを滾らせて他人が馬脚を露わすのを今か今かと待ちわびている魑魅魍魎が跋扈するインターネット上において、スノビズムを全うするのであればやはり入り口を利休のにじり口みたいにして緊張感を持たせなきゃなかなか難しいように感じるのだがどうだろう。でもそれではたぶん商売にならないだろう。
スノビズムにはやはり愛嬌も必要だと思う。何年か前の早稲田祭で細野晴臣のライブを見たときに感じたことだ。細野晴臣からは禍々しいほどのスノッブさというかノーブルさが放たれていたが、それをあの特有の可愛らしさがかなり中和しているように思えた。
でももうそんなことには構っていられるものか。こんなことが書きたくてブログ(死語)をやっているわけじゃないっつうの。金木犀香る今は秋。気が滅入る曇天が続くけれど、食べ物は美味しい。それが秋というもの。そして、そんな季節に打ってつけのイベントがあるのです。
Music Voyage : DJ solo 鳥居真道 2016.10.18 tue. – トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会 –
こちらを簡潔に説明すると、美味しい料理と美味しいお酒を楽しみながら最高の音で音楽を聴こうという内容のイベントとなっております。その選曲を仕るのが私鳥居というわけなのです。
DJ:鳥居真道(トリプルファイヤー)
2016年10月18日(火)
[DJ time]7:30pm – 9:30pm
Admission Free(入場無料) ※ご飲食代のみ
ご予約はお電話で承ります。TEL : 03-3251-1045
Music Voyage : DJ solo 鳥居真道 2016.10.18 tue. | MUSIC | cafe 104.5
皆様是非是非お越しください。よろしくお願いいたします。