「小鳥のおしゃべり」反省会

今年の7月にこんなことをTwitterで呟いた。


自分の「全ツイート履歴」に記載された月別ツイート数のグラフを見ると、昨年2016年から急激にツイートの数が増え出し、さらに今年に入ると一日平均3~4ツイートするようになった。Twitterを始めたのは2010年の5月で、そこから2014年まで1年の総ツイート数が365を超えることはなかった。それが2015年からやや上昇し始め、気がついたらツイート括約筋がゆるゆる状態になっていた。
今年に入ってツイート数が増えた理由は単純に4年以上使用したXperiaからiPhoneに機種変更して動作がサクサクになったからだろう。また歳を重ねたことにより神経が図太くなって恥ずかしさのハードルが下がったことも要因のひとつだといえよう。
私とインターネットとの出会いは中学1年生のときだ。当時好きだったLIMP BIZKITのファンサイトのBBSに書き込んだり、知らない人たちとチャットしたり(おはつです!)というのが当時のネット上での主な活動であった。その頃からわりとネット弁慶で、調子に乗った厨房に気を悪くした輩に煽られたりもしたが、嫌味ったらしくレスしたりしていた。こういうネチネチした性格は別にネット上に限った話ではない。念のため。
mixiの登場により知人がネット上にその人だとわかる形で存在するという局面を迎え、それ以降は恥ずかしいということもあってネット弁慶的な部分を一部封印しなくてならない状況になった。Twitterの登場以降も何年かそれが続いたが、やはり加齢による居直りまたは増長なのか、ネット弁慶的な資質がこのところ再び現れてきている。
自分の性格や資質には立派なところが一つもないので何か発言しただけでややもすると香ばしくなってしまいがちだ。情緒様御一行という名の団体客が冷静の間で宴会を始めたときに運悪くスマホを手にしていたりすると本当にろくなことにならない。これではまずいのではないかという危機感を最近になって抱くようになった。そこで上半期の自分のツイートを振り返り、反省すべきは反省しようと思った次第ではあるが、もはやそんなことをしたところでは恥の上塗りとしか言いようがない。精神的にくるものがある。また誰かがこれを読んだところで他人酔いして気分が悪くなるだけだろう。自分でさえ自分酔いして気分が悪くなりそうだ。内臓を開けっぴろげに人様に見せるようなもので、そういったことを控えるのが大人のマナーではないのか。
果たしてこれをやるべきかやめておくべきか。自らを恥じ余計なツイートを控えるようになればそれはそれで良いことではないのか。というかそれが本来の趣旨ではなかったか。ひとまず少しやってみることにしよう。少しだけ当たり障りのありそうなものをピックアップして一つ一つ見ていきたい。
1月


この時点ですでにツイート括約筋の弱まりを危惧していた。ペナルティを課すことで、ツイートを控えようという魂胆があった。ところで、わたしはこういうふざけたツイートをしがちなのだが、この手のツイートについて何か言うことは「えーとですね。今のギャグのおもしろいところは…」というお寒いアレと同じなのではないかと思ってしまい、一発目にして意気消沈してしまった。


こういう皮肉っぽいことをつぶやく頻度は今年に入ってたしかに増えた。Twitterというものがむしゃくしゃしたときの駆け込み寺のようになってしまっていることの証左であろう。「ネットの書き込みなんぞ便所の落書きにすぎない」と思っているからこういうことを平気で書いてしまうのだが、このご時世にネットの書き込みを便所の落書きと呼ぶことは時代錯誤であろう。


とにかく早起きというか睡眠不足という状態がいやでいやで仕方なく、早起きするたびに似たような内容のことを呟いている、こういう生理に基づいた不快感を表明することはわりとおこちゃまのすることと言っていいだろう。端的に言えばただのぐずりでしかない。人間として低いステージにいるような気になるからこういうつぶやきは控えたほうが良さそうだ。


こういう公衆道徳に対する皮肉っぽい苦言もよくつぶやいている。マナーというある種の正しさのようなものをバックにつけている気になって強気な発言をしてしまいがちだ。ヤンキーが「ああ?マナー先輩呼ぶぞコラ」と凄んでいるようでザコ感は否めない。毒を吐いたり意地悪を言ったりすることが「でも本当は優しい人なんでしょ」という逆説を生むことはよくあるが、わたしの場合はただ単に露悪的なだけで性根が腐っていることを喧伝する形になってしまっているような気がする。
というような調子で少しやってみたのだが、このように自分の言動に対してクールな態度を取っていると「おまえが呟いたんだろうが!他人事みたいに対応してんじゃねぇよ!」という声が聞こえてきそうだ。お前は誰の目線に立ってものを言っているんだという話である。やたらとクールな反省文を読まされているようなもので、これには苛立ちを禁じ得ないだろう。2時間ぐらい遅刻してきた者にその理由を聞いてみると「ほら、おれって一旦飲み始めると際限なくいっちゃう人じゃない。昨日もそのパターンでさ。だから朝もなかなかスムーズに起きれないんだよね。アルコールのせいで眠りも浅くなるしね。まあまあ。たしかに自己管理が甘いとは思うよ。反省反省。以後気をつけます。なんつって、何度目だよっていうね。そりゃみんなが怒るのもわかるよ。ごもっとも。返す言葉がない」と返された感じか。
クールな眼差しを装うも身振りがひたすら鈍重なために物凄く間抜けである。けれども本人はそのことに気づいていない。そんな状態になってしまっている。自分を相対化することで主体の位置をずらし、なんとなく問題をはぐらかすようなところが自分にはある。自分の行いが常に根本的なところで間違っているという思いを抱いており、その緊張感から逃れるために主体の位置をスライドさせるという手段を取るようになったのではないかと考えている。
広瀬すずが「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「食わず嫌い王決定戦」に出た時に、照明さんについて「どうして生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったんだろう」と発言してやや炎上したことがあった。露悪的ではないものの、これは不用意な発言としか言いようがない。「色んなことにすぐ疑問を持つ子供がたまにラディカルな質問をして大人をぎょっとさせる」みたいなものをイメージした発言なのだろうが明らかに失敗している。かくいう自分もこういう不用意なことを言ってしまうタイプではある。そういうタイプであるゆえに、あえて露悪的なことを言って根本的なところでの物事への認識の誤りをごまかそうとしている節がある。シンプルにズレてる人から毒を持ったユニークな人へうまいことスライドさせようという魂胆だ。自らの聡明さの欠如に対してこのような戦略を取るようになって久しいが、今はもっと泥臭く物事に対応していかなければと思っている。突飛な発言で物事をはぐらかすことは聡明さとはいえない。
2月以降のつぶやきはもはやこれらのバリエーションでしかないので割愛したい。

 

そういう話はこれくらいに

例えばエルヴィスの60年代ボックスセットに収録された大瀧詠一による『’60s ポップスとエルヴィス』という解説を読むとただおもしろいと感じるだけでなく背筋が伸びるというか、少し仰々しいかもしれないが畏怖の念のようものを抱いたりもするし自ら勉強することで対象についてより深く理解したいという心持ちになる。『’60s ポップスとエルヴィス』に限らず大瀧詠一の『分母分子論』『ポップス普動説』『日本ポップス伝』『アメリカン・ポップス伝』といった仕事に接したときも同様にその仕事ぶりに圧倒されて少しクラクラする。しかし、その目眩は快楽を伴うものでもあるし、我々の体温を少し上昇させる。
自分など一介の素人に過ぎないが、それでもなお、そういう体験が自分の中にあるので「いっちょ噛み」を積極的に肯定したいとは全く思わない。
さすがにいっちょ噛みを肯定したい人たちのところまわざわざでかけていって水を差そうとは思わないが、ただ珍奇な見立てを思いついたらそれだけで何かが見えてきてしまうほど日本のポップカルチャーとやらの状況はぬるいものなのかと思うと何だか情けない気分にさせられるので、折に触れて日本のポップカルチャーのことはもう放っておいてくれませんかという内容の投書を目安箱に投函したいとは思ったりもする。それで「こんな意見もありました。で、そういう話はこれくらいにしまして」と流されるのも一興だ。
今まで知らずにいた音楽に接したときに「よくわかんないけどなんだか楽しいね」と心が動かされている人のことを指して「いっちょ噛み」と呼ぶような輩は話にならないので放っておけば良い。問題は、論じる対象についてよく知らないにも関わらず何か一言を言わずにいられないという人間で、黒人音楽などろくに聴いたこともないような輩に「日本人に黒人のグルーヴは再現できないよ」というどこかで聞いたような受け売りでもって諭されたり、細野晴臣が好きだと言えば「音楽通ぶったいけ好かない奴らが聴きがち」という決めつけでもっておまえは権威主義だと揶揄されるといった個人的な恨みがあるから彼奴等にはいつかしかるべき制裁を加えなければいけないと考えているし、こういう想像力に欠けた奴らこそ「いっちょ噛み」と呼んで積極的に蔑んでいかねばなるまい。
本来は話にならない連中のことなど放っておいて、知ったふうな口を利くことは恥であるとし、ただ自分の興味関心のあることを突き詰めていけば良いはずだ。しかし、厚顔無恥な連中を許しがたく感じ、ついつい余計なことを言いたくなってしまうのは、自分も「いっちょ噛み」だからなのかもしれない。というような気の利いたことが言いたいという欲望を捨て去ることができたらもっと爽やかに暮らしていけるような気がしている。
それにしても、周囲の意見に煽られて無闇矢鱈とルサン値を上げたり溜飲を下げたりすべきではないことをなぜこうも簡単に忘れてしまうのだろうか。クレーム酔いして良からぬ行いをしないように気を引き締めたい。
で、そういう話はこれくらいにしまして、今日は違う話がしたいのです。これはごく個人的な話に過ぎず、まったくもって一般的な話題ではないだろうが、ここ何年かずっと、内面化されたいわゆるお笑い的なおもしろさがあらゆるものを侵食していくことに関してずっとモヤモヤしたものを感じている。まるで弁当箱の中で黒豆の汁を吸ってしまった白米や揚げ物を食べさせられているような気分だ。それはそれ、これはこれといった判断が許されない状況といっていいだろう。
お笑い的なおもしろさとは直接的に関係があるわけではない作品を、「一般の人」と呼ばれるいささか抽象的といえる層に向けてプレゼンするには訴求力に欠けるという理由からか、その作品をお笑い的なおもしろさでもってベタベタと飾り付けてしまうことがある。洋画の宣伝でよく目にするところだ。自分のことを彼らがいうところの「一般の人」の代表するつもりで、「我々のことを馬鹿にしてるのか」と声を上げると、「一部のマニア」が騒いでいるというような解釈を与えられる場合があり、これも納得がいかない。
なるほど、お笑い的な振る舞いや目配せがコミュニケーションの道具として一般的であるという理由でそれを流通経路として利用することは経済的である。ただ、おもしろさという尺度による排除と選別を通じて、(幾分フェアネスに欠ける言い回しではあるが)名状し難いふくよかさ、あるいは豊かさのようなものが削ぎ落とされることを余儀なくされる状況に対しモヤモヤしている。こういうことは、宣伝を外部に委託した場合のみならず、その作品や活動それ自体に携わるものが自ら進んでお笑い的なおもしろさという価値判断基準を元にして排除と選別を行うこともあり、どちらかというと後者に違和感を抱かざるを得ない。しかし、それに対して異議申し立てしたところで空気の読めない者ないし洒落のわからないものとしてその共同体からは弾かれてしまうことだろう。
「音楽よりもお笑いのほうが人間の本質に近く万人に受けいられやすい。ゆえにお笑いのほうが素晴らしい」といったことを自ら音楽活動に従事する者から言われて膝から崩れ落ちたことがある。それはただ単にお笑いのほうがコミュニケーションの道具としてみたときに経済的に優れているというだけの話ではないのか。音楽がコミュニケーションの道具であることを疑ったりせず自明のこととし、そのうえで音楽とお笑いと比較してお笑いの勝利を謳う音楽関係者とは一体なんなんだろう。
「お笑い的なおもしろさ」と言いさえすればそれで何かを指し示したような気になっている自分も何か「お笑い的なおもしろさ」とは別の約束事に甘んじているといえるし、そこにはもちろん危うさもある。「お笑い的なおもしろさ」と言うだけで「はいはい、あれね」と頷く人との閉ざされたやりとりになってはいないか。一般性を持つお笑い的なおもしろさをベースにしたコミュニケーションの場から逃れた場所が閉ざされたコミュニティであればカルト化は免れない。そうであれば、ここから先どうしていったら良いのか。正直どのように考えていけば良いのかわからない。
笑いあるいは感動といったものもコップの中に収まっているうちは良い。蒸発して湿気になったときが厄介だ。こと我々の住むこの土地においては。なんていう気の利いたようなことが言いたいという欲を捨て去ることができたらもっと爽やかに暮らしていけるような気がしている。

 

イヤな思い出スワイプしちゃお

地元では毎年10月の中旬になると地区ごとのお祭りが開かれる。私の地区では、厄年の男たちが立派な山車を引いて町内を回ったり、神社の境内に設営された櫓から景品引換券が同封された袋入りの餅を投げたりする。
小三のときだったと思うが小雨が降る中餅投げが行われたことがあった。餅投げは通常一度地面に落ちた餅を拾うものだから地面が泥っぽくなっている場合は手が泥だらけになる。その日も老若男女が入り乱れ泥に塗れて餅を拾っていた。
餅投げが終わり、櫓の周りから人が捌けていく中、その場に突っ立っていたら二十がらみの面識のない男に突然疲れたねと声をかけられた。男は涼しい顔をして両手についた泥を私の着ていたTシャツで拭うと、何事もなかったかのように去っていった。
突然の出来事にしばし呆然としてしまったが、やや間を置いて段々と人間が生れながらにして持つ悪意にじわじわと侵食されていくような心持ちになり気が滅入った。
中二の夏休み、友達と古本屋に行って漫画を立ち読みしようということになり、自転車で移動していたときのこと。自転車に乗った高校生と思しき男二人組が後ろから近づいてきた。自分たちの脇を通って追い抜いていくのかと思いきや、片方の男がわざとらしく「危ない危ない」と言いながら私のほうに自転車を寄せてきた。その男は同級生の兄に似ているような気もしたが確信は持てなかった。咄嗟に避けようとレンタルビデオ屋の駐車場の方にハンドルを切ったが、男はしつこく自転車を寄せてきた。サンダルを履いてむき出しになっていたくるぶしに相手のペダルが擦れて痛かったので我慢ならずブレーキを握りしめ自転車を止めた。
男はこちらを見つめて「もう、危ないなぁ」と言うと、様子を見ていた連れの男の元に戻っていった。連れの男が「どうしたの」と尋ねると、自転車を寄せてきた男は「いや、危なかったからさ」とよくわからない返事をしていた。友人と移動しているときに、咄嗟の思いつきで中学生に嫌がらせをして平然としている高校生の精神構造がまったく理解できなかった。ここでもやはり人間が生まれながらにして持つ禍々しい悪意の一端を見せつけられたような気分になった。
二年前の話。その日は明大前で人と会う用があり、新宿の京王線乗り場を歩いていたら、太ももに鈍い痛みが走った。誰かのカバンでもぶつかったのかと思い周りを見ると、顔を真っ赤にした大学生風の男がこちらを睨んでいた。男の出で立ちは茶髪でいかにも標準的な大学生といったもので特に怪しいところはなかった。何か言うのかと思いしばらく待っていたが特に何も言わないので、その場を立ち去ろうとしたら、後ろにぴったりくっついて付いてくる。立ち止まって振り返ると相手も立ち止まりこちらを見つめてくる。再び何か言うのかと思って待ってみるのだが、特に何か言うわけではない。また歩き始めるとやはり付いてくる。ホームに着いて立ち止まると相手も立ち止まりこちらを見つめている。何か言わなくてはと思ったが何と切り出して良いかわからず咄嗟に「あ」とだけ声が出た。すると相手はすすっと逃げていった。追いかけようかとも思ったが、電車が来てしまったので諦めた。彼の目的は一体何だったのか。鈍い痛みとともにもやっとしたものがいつまでも残っている。
高一の夏、友達と自転車を小一時間ほど走らせてイオンまで行き映画を観た日の帰り道。あまり車の通らない道を走っているときに黒い国産のワゴン車が後ろからやってきて行く手を妨げるように前方で停車した。なんとなく絡まれそうな予感がしたので、反対側の道に移ってやり過ごしたところ、ワゴン車はウィンドウを下ろし、こちらに向かって何かワーワー言っていた。乗っていたのは20前後のややガラの悪い男たちだった。知らんぷりして走り去った。
このようなある種の不条理に出くわすと、因果関係がわからないためにいらぬ心配をする羽目になる。あるとき自転車で斜め横断をしたときに真っ赤なデミオにクラクションを鳴らされ、ドライバーにスーパーの駐車場へ誘導され15分ほど説教されたことがあるが、こういう場合はことの因果関係がはっきりしているから必要以上に不安を感じたり落ち込んだりする必要はない。だが、先に挙げたような不条理の場合は、前後関係がはっきりしないから、思考は底なし沼に引きずり込まれることになる。最終的に自分がこの世界から受け入れられていないという事実の一端を見せつけられたかのような心持ちになってうんざりする。人智を超えた存在にコケにされているような気がしてくる。本当にやめてほしい。
とは言いつつも物事を論理的に考えられない質なので、すべてのことが不条理といえば不条理に思えてしまう。すべてが不条理であることが前提となっているから、ことの次第に何か違和感を覚えてもまあそんなこともあるよねなんて言ってやり過ごしてしまいがちだ。それで判断を誤り人に迷惑をかけることが度々ある。毎度毎度自分なりに納得できるように因果関係を誂えてみるのだが、論理の糸のほころびに気が付くのはいつももっと後のことだ。
物心がついた頃からユニークな人間でありたい、人とは異なる発想をしたいと願い続けたことの副作用なのだろうか。いや、単にめんどくさいという理由で物事を論理的に考えることを避けてきた結果がこれだ。まるで関係のないパズルのピースが複数混入したパズルをやらされている状態が続いている。お願いだから人智を超えた存在には金輪際意図のわかりにくい嫌がらせをしないでもらいたい。できることなら毎日びっくりしたりドキドキしたりせずに過ごしたい。
九死に一生を得た人が死の寸前にこれまでの記憶が走馬灯のように思い出されたなんてことを言う。もしも今際の際にこれまで述べてきたような記憶の総集編を見せられたりしたらたまったものではない。
『ソイレント・グリーン』という映画がある。ディストピア映画のクラシックだ。映画の中の世界では安楽死が合法となっており、登場人物の一人が公営の施設で安楽死を施されるシーンがある。そこでは、大きなスクリーンにかつて存在した美しい自然の映像が映し出され、さらにベートーベンの交響曲第6番「田園」が流れる中、安らかな眠りにつくことになる。
駅前などで待ち合わせしている人が相手を見つけた瞬間にぱっと表情を明るくするところを見る度につられてこちらの気持ちもなんとなく明るくなる。あの瞬間を見るのがとても好きだ。永い眠りにつく際は、自分に関する思い出や美しい自然の映像ではなく、待ち合わせをする人々が相手と出会った瞬間をとらえた映像をまとめたものを観ながら明るい気持ちで眠りにつくのが良いだろうと思っている。

 

鳥ちゃんの「ダーティーサーティー喜んで!」

6月16日に30歳になった。そんなものはとうの昔になくしたとも言えるけれど、自分の体から瑞々しさが失われているように感じる。その事実をしっかりと受け入れることがオッサンから遠ざかる一歩だと考えているから、今まで以上に身綺麗にしなくてはと三十を境にして決意を新たにした。洗濯もこまめにしなくてはいけないし、散髪の頻度も多くしなくてはならないだろう。無論、フロスにも一生懸命取り組まねばなるまい。根がものぐさだからこれらは容易なことではないが、オッサンにだけはなりたくないその一心で我慢してやっていかなくてはならない。
思うにオッサンとは、譲歩することなく自分という存在を他人に受け入れさせることを自明とする人間のことで、こういう手合は巷間でよく目にするところであるが、目にする度にこうはなりたくないと思わされる。
世間で散見するオッサンの代表格はクチャラーであろう。クチャラーの多くは動作に落ち着きがないし、股を広げて座りがちだ。おまけに貧乏揺すりをする者もいる。くしゃみにも遠慮がないし、手で口をおさえないことも多い。個人の領域を侵すこのような行為から自我が液だれを起こしていることは明らかだ。唾や痰を路上に吐き棄てるオッサンも駅で人に肩をぶつけるオッサンも同根だ。オッサンは他者に自分を受け入れさせるという関係性の中でしか生きていけない。オッサンは他人に対して常に不均衡な関係を強いる。
譲歩することなく自分を他人に受け入れさせることを自明とする存在をオッサンと呼んだが、ここでいう譲歩とはつまり、身なりを整える、清潔にするといった至って単純なことだ。身なりを整える、清潔にするといったことは自分を美しく保つための行為にあらず、それは他者の存在を受け入れ、相手を慮る行為に他ならない。
オッサンにもタカ派とハト派がいる。痰を吐いたり肩をぶつけるオッサンがタカ派だとすると、クソリプを送るオッサンはハト派のオッサンといえよう。多くの人は誰かにクソリプを飛ばすことに躊躇する。クソリプを飛ばさないという選択肢が予め用意されている。誰かにクソリプを送らないでおくという行為は相手に対して一歩引くという行為であるという点で立派な慮りである。クソリプを送らないことは常識ないし当然のマナーとされているが、当然のマナーとは慮りという積極性によって支えられているものである。そこを勘違いしたオッサンがクソリプを送るのだ。
建物の出入り口等で後からやってくる人のためにドアを押さえておくといった行為は相手に対する能動的な働きかけによって行わるマナーといえるが、反対にクソリプを送らないという行為は相手に対して何もしない言わばゼロの行為だ。ゼロの行為は往々にして見過ごされがちだが、れっきとした行為のひとつだ。しかし、オッサンはゼロの行為が行為であることを理解しようとしない。
オッサンはいつまでたっても自分のことを男子高校生だと認識している節があり、高校生の爽やかさの下に全てが受け入れてもらえると考えがちである。しかし、例えばオッサンのかいた汗はあくまでオッサンの体内から吹き出た水分であって、高校球児たちの爽やかな汗とは質がまったく異なる。傍から見ればオッサンはオッサンでしかない。世の中に美しいオッサンなど存在しない。美しいオッサンというものは矛盾した存在である。美しければあえてオッサンと呼ぶ必要もないだろう。
むしろ青春時代を無闇矢鱈と美化することがそもそものボタンの掛け違いになっているのではないか。自分が高校生だったときのことを思い返すとやはり高校生なりにベタベタしており、決してピチピチツルツルというわけでなかった。風呂に入らなければ当然臭くもなった。青春と呼ばれる美しい時代を生きたという幻想にレールを接いで生きてしまっていることが、オッサンの甘い自己認識のそもそもの原因ではなかろうか。青春とオッサンは地続きのものだ。
オッサンがオッサンたる所以は結局、「でもそんな自分が好き」という中途半端なナルシシズムをいなすことなく何となくそのままにして生きてしまっていることにある。老けていく自分を受け入れるというよりも、ベタベタと甘やかす。さらに問題なのは「でもそんな自分が好き」という思いに続いて、「みんなもきっと好きだよね、そうだよね」という発想が出てきてしまうことだ。密やかなナルシシズムに留めておけば良いものを彼らはナルシシズムを持ちこたえきれずに我々に問いかけてしまう。「みんなもきっと好きだよね、そうだよね」という根拠のない独善的な発想は十中八九拒絶される運命にある。おっさんは自分のことがかわいいのかもしれないが、おっさんがかわいい筈がない。かわいい筈がないので、当然拒絶される。そして、拒絶されたことで、その好意のような気持ちが裏返り、痰を吐くという迷惑行為となって現れる。痰を吐くことと眉を顰められることは対になっている。痰を吐くという行為は自分が受け入れられなかったことへの意趣返しだ。痰を吐くという行為は眉を顰められることによって完結する。
ここで確認しておきたいことは、あくまで30年生きた者の感想に過ぎないが、加齢それ自体は悪ではないということだ。むしろ成熟に対する憧憬は常にある。今なら”Don’t Trust Under 30″と言いたいところだ。年を取ることそれ自体はポジティブなものとして考えている。こと趣味であるところの音楽に関していえば、年々耳の感度は高くなっているし、音楽を聴く楽しさは年を取るにつれて増しているように思う。音楽と青春とを強く結び付けずにいたのが良かった。進学で上京して環境が変わり、自分を組み換えざるを得なかったのも今となっては良かったと思っている。
自分が十代の頃は「青春パンク」と呼ばれる音楽が猛威を振るっていたが、むしろそのおかげで「青春」なんぞというものは眉唾であると考えることができた。同世代の人に「青春」というものにトラウマを持つ者も多かろう。逆に今でも本当に青春が好きで好きでたまらないという人もいるが。
これは、ただの印象論でしかないが、2000年頃から我々は「青春」という円環の中に閉じ込められているのではないかと思っている。もはや青春以外の選択肢は残されていない気さえしてくる。人間らしく生きるとは青春時代を生き続けることのように言われている。
念の為にはっきりとさせておきたいことは、あくまで自分がオッサン的な存在になりたくないと主張しているだけであって、オッサン的な存在を根絶やしにしろといった話は一切していないということ。オッサンを憎んで人を憎まずとでも言おうか。オッサンがオッサンであることを選ぼうが知ったこっちゃない。クチャラーが隣に座ろうが一方的に迷惑だと感じているだけだ。クチャラー人口が増えようが減ろうがどうでも良い。オッサンが徒党を組み、数の暴力で空気を読むことを強要してきたらさすがにこれはやばいとは思うが。こちらはオッサンに対し、好き好んで不快だと感じているだけであり、何に対し不快に感じようがそのことを他人にとやかく言われる筋合いはない。というのは暴論だろうか。暴論だろう。
やはりコータローもびっくりするようなこういった主張がまかり通ると考えてしまっている時点でオッサン化は逃れられないだろう。自分に対する検証を怠たった者はオッサン化する。オッサンとは居直りの権化である。トイレが汚い。ゴミ出しもサボりがち。洗濯もまめにできていない。髭剃りも適当。そんな自分がオッサンに対して偉そうなことが言えるのか。さらに、オッサンの営みへの想像力が欠如している。人に肩をぶつけて駅のホームで唾を吐くオッサンも、深夜に帰宅して子どもの寝顔をそっと見つめることだってあろう。あぐらの窪みにちょこんと座った猫の頭を撫でることもあろう。真に恐ろしいことは想像力の欠如とそれに伴い増長すること、さらにそれを自分で止められなくなることだ。
20代前半まではやっかいな先輩という存在が増長を防ぐリミッターになっていたように思う。縦社会における先輩の理不尽さが我々の行手を阻んでいた。それは白い帽子に書かれたFUCKという4文字のような理不尽さだ。そういった理不尽さを携えた人間と対峙したときに我々は、こういう人間だけは許してはならない、そのためにはもっと賢くならなくてはいけないと強く思うだろう。だから、やっかいな先輩敵な存在を遠ざけないようにすることが肝要であるといえる。微熱少年先生が言うところの敵タナトスを想起せよ!ということか。
「男は敷居を跨げば七人の敵あり」なんてことわざがあるが、果たして自分には敵が7人もいるのだろうか。未だに敷居を跨いでいないということではなかろうか。オッサン以前の問題で、自分がモラトリアムの円環に捕らえられたお子ちゃまでしかないということが今ここで露呈した。青春とトイザらス、どちらかひとつ選べと言われたら迷わずトイザらスを選ぶ。生まれたときから玩具漬けの我々はオッサンも青春も拒否する。我々はお子ちゃまとしてトイザらス五稜郭店に逃げ込み最後まで徹底抗戦するつもりである。

 

悲しき飲食店 / 100%どうでもいい人宣言

今年の6月に30を迎えるのだけど、加齢とともに段々と堪え性がなくなっている。我慢ができない。とは言っても、子どもの頃に比べたら、それはもちろん現在のほうが堪え性はあるだろう。しかし、これから子どもの頃のような性格に回帰していくという予感がある。今後はより一層堪え性がなくなり、不快なもの・ことに対してすぐにグズるようになってしまうかもしれない。ただ、しょうもないことにはいつまでも付き合っていられないと考えるようになり、昔よりも時間を大切にするようになったから良い面がないわけではない。人からケチだと思われる可能性もあるが。
ある日曜の夕方、カタヤキソバが食べたくなり近所の日高屋に入ったところ、なかなか注文を取りに来てくれなかったので帰りますと伝えて店を出た。そこまで混んでいたわけではなかったが、厨房の様子から察するに店を回せていないようだった。以前、同じような状況でカタヤキソバを注文した際に、出てきたのが餡の水分を思いっきり吸いこんだヤワヤキソバのようなものだったことがあり、同じ轍は踏むまいと注文の前に店を出ることにしたのだ。
このような場合、店員に怒りが湧くというより物事が思い通りに行かないことへ苛々する。苛々はすぐに萎れて失望を経てやがて憂鬱へと変わる。本当にやりきれない。自分にとって食事のプライオリティは決して高くはないと言えどもこのような状況はなるべく避けたいところである。
ある日松屋に入ったときのこと。50代後半ぐらいのオッサンが食券を買ったのち、テーブル席に座ろうとし、隣で食事をしていたスーツ姿の30がらみの男性に向けて荷物を反対側に移すように命じた。オッサンがぶっきらぼうな言い方をしたためか、スーツの男性は頭に来たらしく、「うるせーな、クソが!ゴミクズみたいな格好しやがって」などと言い返し、オッサンは少々たじろぎながらも「なんだこの野郎」などと言って応戦。店内には緊張が走ったが、店員が「大丈夫ですか」と声をかけたため、その場は何となく収まったように見えた。けれどもやはり、このまますんなり終わるとは到底思えなかった。
スーツの男性が帰り際にオッサンを軽く小突いたか何かしたようで、オッサンはスーツの男性を蹴り返した。スーツの男性は興奮し、「何すんだよクソが!」などと叫びながら座っているオッサンを踏みつけるようにして蹴りを入れる。オッサンは「オマエが蹴ってきたんじゃねぇか!」と言って立ち上がった。2、3発蹴りの応酬があったところで店員が止めに入った。
そのときの私はというと、蹴り合いが行われているすぐ横で食事をしていたため、とばっちりを喰らわないよう食器を脇のほうへ静かに寄せていた。この動作のなんともいえない滑稽さと凡庸さ。喧嘩を目の当たりにした人が見せる無防備で金魚のように間抜けな顔を自分もしていたと思う。
スーツの男性は店員に押さえられると、顔を真っ赤にさせて身体をぷるぷると震わせながら、もう出るから大丈夫ですと店員に伝えた。オッサンが席に戻ると、スーツの男性は素直に帰るような素振りを見せておいて、オッサンのテーブルに蹴りを一発見舞って店から去っていった。味噌汁まみれになるオッサン。謝罪する店員。すぐに新しいものに取り替えますとのことだが、店員は何も悪くない。まったくもって気の毒なことである。オッサンは気まずそうに「いや、荷物が邪魔だったからさ、あっちに置けって言っただけなんだけどね」と店員に話していた。
「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでわからない」
これはある映画の有名な台詞。ところで、この言い回しが全くピンと来ない原因は日米の文化の違いにあるのだろうか。サム・ライミが監督したスパイダーマンの二作目に、アルフレッド・モリーナが発明品のお披露目会でこんなジョークを言う場面がある。
「この中に輪ゴムで束ねた札束を落とし方はいませんか?輪ゴムが落ちていました」
このジョークが今ひとつピンと来ないのと同様に「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでわからない」という台詞もわかったようなわからないようなところがある。
それはさておき、この台詞に倣うなら以下のようにも言えるだろう。「飲食店はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでわからない」と。いや、わざわざチョコレートの箱に例えるという面倒などする必要はなかった。つまり何が言いたいかというと、実際に入ってみるまでその店の空気ないし状況を掴むことはできないということである。我々は席についてしばらくしてから客の苛立ちと店員の慌てぶりに初めて気づく。当たり前の話だが、店の外からその気配を感じ取る能力さえあれば、入店することもなく、食事の際に嫌な気持ちにならなくて済む。しかし、そんなことはどだい無理な話。行き当たりばったりやっていく他ない。たまにハズレクジを引くこともあるが、間が悪かったと思ってやり過ごすしかない。


こういうことは書かないほうが無難だと理解しつつも涼しい顔を繕っているが実際は腸が煮えくり返っており身体中を恨みつらみが渦巻いているのが彼という人物だなんて知ったようなことを言われたりするのも癪なのでいっそのこと書いてしまおう。
もう何年も前の話だけど、あるライブの後、自分の出番が終わってフロアでウロウロしていたら、「わたしトリプルファイヤー好きなんですよ」という言葉が耳に飛び込んできた。その言葉の主は私の知人と話しているところで、知人が「そうなの?そこにトリプルファイヤーいるよ。鳥居くーん!」と言ったところ、その人物は「いや、私吉田派なんでえ」と高らかに宣言。確かに自分は人間として最低のステージにいるため --いや、人間と同じステージだなんて痴がましい、俺は犬畜生だ!そう、所詮ワンコロに過ぎない存在!いや、ワンコロというよりコロコロクリーナーに貼っ付いたポテトチップスの食べかすだ!畜生!なんてことだ!実際はそれ以下の存在だ!-- 人様からこのような仕打ちを受けるのも已む無し、と納得しようとしたところでなかなか上手くはいかない。なぜなら人には自尊心があるから。
仮に自分がパフュームファンで、さらにのっち派だったとして、人からかしゆかを紹介されたときにわざわざ「いやでもボクのっち派なんで!」とは言わないだろう。もちろん相手があーちゃんだったとしてもそんなことは決して言わない。さらに、小木に向かって「えー、矢作は?矢作来てないの?矢作来てなかったら意味なくない?」とも言わないし、ジョン・レノンに向かって「ぼくブラックバードすごい好きなんですよ!めっちゃいい曲ですよね!ついでに歌ってくれたら嬉しいなぁ!」とも言わない。その辺の山に向かって「なーんだ!富士山じゃないのかぁ」なんてことは言わないし、日本海に向かって「これが太平洋だったらどんなに良かったことか!」とも言わない。なぜなら、人は惻隠の情を持つべきだと考えるからだ。昔から一寸の虫にも五分の魂と言うではないか。さらに人は自らの分を弁えなければならないとも考えている。
しかし、分を弁えるということを云々しすぎると吉田派の人物を遠回しに身の程知らずと言っていると取られかねないし、そういうオマエも相当尊大な野郎だなという話になってしまい、それはそれで不本意であるが、構わず続けることにしよう。
「自らの分を弁えるべき」だと考えるのであれば、自分のことを棚に上げず、やはり食べかす以下という己の身分に鑑みて、人から何と言われようと、またいくらぞんざいに扱われようと、歯を食いしばり耐え忍ばなくてはいけないのかもしれない。しかし、自分が食べかす以下かどうかなんてせめて自分で決めさせてくれないか。他人を捕まえてその人が食べかす以下かどうかを決められると考えるのは奢りではないのか。そういったことは他人の関知する領域ではないはずだ。なぜいちいち「おまえは食べかす以下の人間だ」と指摘し、そのことを本人に認めさせようとするのか。そんなのは支配欲に取り憑かれた人間の所業だろう。いや、誰もそこまで言ってないよという指摘があれば、ごもっともですねと返す他ない。それに食べかすと言い出したのは自分の方だ。
食べかすであることはもうどうしようもないことだ。それを笑い飛ばしてしまおう。みんなにも笑ってもらおう。そんな「コンプレックスは笑いに昇華しろ。そして他人にいじらせろ」といった意見もあるが、なんとなく「下の口は正直だな」という言葉に通じるいやらしさを感じてしまって首肯できない。また、オッサン的マチズモの一種ではなかろうか。おまえの笑いの種のために惨めったらしい気持ちに浸っているわけではないぞと言いたい。何様なんなんだ本当に。
しかし、意地になってノートの隅に”Torii rules!”と落書きし、人からの指摘に聞く耳を待たず心を閉ざしてはいけないとも思う。「オフィスのドアは開けたままにしておく。話したいことがあったらいつでも気軽に訪ねて来てくれ。」これが私のモットーである。もっともこれは嘘のモットーではあるが、嘘であることを差し引いたとしても「あんたって食べかす以下だよね」という前提で話を進めようとする人物にも胸襟を開いていかねばなるまいとは思っている。
思い返してみると、テレビを見ているときのテム・レイのように興味の対象がハッキリとしている人と遭遇することも度々あった。新宿のタワレコでレコ発を行った際、急遽特典の手渡し兼握手会をやることになったのだが、その列の中にあからさまに「三下のバーターは引っ込んでな」という態度を取る人がいた。もう少し具体的に言うと、その人は「眼中にない」という表現を比喩ではなく目線で表現したということだ。「脇目もふらず」と言い換えることもできよう。これにはさすがに文字通り手も足も出ず、自分も主役の一人であると言っても過言ではないイベントにもかかわらずタワレコの明るい店内でただの木偶の坊と化すことがあり、いかに自分が無力かつ無能かということを存分に思い知らされた。そこにはある種のマゾヒスティックな快感がなかったとは言い切れないのだが、やはり自分が可愛いと思う心が邪魔をして快楽に浸りきれないところがあった。その人のややパフォーマンスじみた大仰な振る舞いも少し引っかかった。
たしかに「選ばれてないことの安堵一つわれにあり」といった思いもないわけではない。「どうでも良い人」という自己認識が、布団の冷たい部分に足が触れたときのような心地良さをもたらすときもある。ただの負け犬根性だと言ってしまえばそれまでだが。しかし、こちらとしても相手が人間である以上、神ならまだしもおまえさんが選ぶの?とどこかで思ってしまう。何だか腑に落ちない。さらに、自分が選ぶ立場にあることをそこまで自明としちゃっていいわけ?とも感じてしまう。けれども、ごちゃごちゃ言ったところでどうにもならない。もはや触れるべきではない領域に片足を突っ込んでしまっているのでこのへんで止めておこう。相手がどうあれ結局はこちら側の解釈の問題でしかない。この件に関しては行って来いで感情的には損益なしだったことが唯一の救いだったといえよう。
また、敢えてどことは言わないが、都でも府でも県でもないところ(※北海道)でライブをした日のこと。打ち上げの席で、目の前にいる女子がずっと某SSWのOh(※王舟さん)さんに向かってミで始まってメで終わる三文字のバンド(※ミツメ)の各メンバーの性格ついて根掘り葉掘り質問し、王舟さんが答えるたびに「えー!」「そうなんだ!」などと言ってとても良いリアクションをするので、そんなのってありぃ!?と思ったことがある。
冷静になって考えてみるまでもなく、これらの経験がある程度は仕方がないものだということは重々承知している。生きてりゃそんなこともあるよね、というものである。決して全員が桃太郎役の学芸会や全員が一等賞の徒競走みたいなものが横行する世界を望んでいるわけではない。「飢えて植えた上には上がいる 認って慕った下には下がいる」なんて歌もある。「選ぶこと/選ばないこと」及び「選ばれること/選ばれないこと」がジャングルの掟のように苛烈なものであるとは頭では理解しているつもりだ。ただ、ジュースをこぼしてしまった後の机のようにベトベトしたあの惨めったらしい気分が問題なのだ。いや、大して惨めったらしくもないか。惨め度でいうと、スミスの”Heaven Knows I’m Miserable Now”ぐらいのやや軽快な感じか。あーた、惨めさにちょっと酔ってるね、というような。では何が一番の問題なのだろう。
他人に迷惑をかけないように心掛けて大人しく生きているのだから最低限のリスペクトぐらいよこせという傲慢さが一番の問題ではないのか。飲みの席で初対面の子から掛けられた第一声が「おめぇじゃねぇよ!」という冷たい一言で、家に帰ってからもずっとモヤモヤが消えずにいたことがあったが、それも最低限のリスペクト問題に絡んでくるような気がする。
理想は会う人会う人に「あなたって本当にどうでも良くない人物ですね!一角ですよ、ヒトカド!」などと言われることであろうが、寝ているだけで毎日銀行口座に10万円振り込まれたらいいよなぁといった妄想並に馬鹿げている。
人間誰しも生きてるだけでひとまずのリスペクトは受けられると考える自分が甘いのだろうか。甘いのだろう。三十路が近づこうと心根はお子ちゃまのままだ。リスペクトやプロップスは自ら勝ち取っていかねばならないものなのだということに皆はいつ気がついたのか。
さらに、自分が誰に対してもきちんと敬意をもって接しているのかと問われれば、自信を持ってイエスと答えることはできない。例えば5人以上で行動している学生(牛丼屋やラーメン屋、または立ち飲み屋などカウンター席がメインで二人がけのテーブルが少し置いてあるような店に5人以上で入店しようとする学生。ものすごく失礼な言い方だけどこういった学生たちの行動を「馬鹿の液状化現象」と呼ばせてもらうことにしよう)に対して敬意を払えと言われても「ちなみにそれって時給発生したりします?」と答えてしまいそうだ。そのような人物にリスペクトを送る人などいるものか。”And, in the end, the love you take is equal to the love you make”という歌詞が思い出される。
プライドに関わる利害を絶えず調整し続けることこそが社会で生きるということなのかもしれない。なんて言うと少し大げさかもしれないが。「○○のくせに無駄にプライドが高い」なんて言い方をする人もいるが、プライドがそれ相応だったことなど一度だってあるものか。分を弁えるとは自分を低めに見積もることではないだろう。かといって卑屈さと尊大さの宙づりに耐えきれずに居直ってしまえばただのオッサンになってしまうことに留意せねばなるまい。オッサン的感性こそ唾棄すべきものだ。オッサンとは居直りの権化であり、ダンディズムの対極といえる存在だ。同じ歳の人物のうち、もっともヒップな存在と思われるケンドリック・ラマーも”Be humble”と言っている。しかし、ときにはプライドのためにストラグルしなければいけないこともある。例えそれが負け戦だとわかっていようと。ブルージーな体験もなかなか味わい深いところがあって決して悪いものではない。
などと言いつつも、他人から与えられた「どうでも良い人」という認識を背負い込んで、それでも健気にちまちま努力したり、そんな自分をいじらしく思ったりすることははっきり言って馬鹿馬鹿しいと感じている。どうでも良さとどうでも良くなさの濃淡の中で、何か自分なりの色を出そうとするような小賢しさを我々は超えていくべきではないのか。他人と比べたときに相対的に冴えているかどうかは何の問題にもならない。惨めったらしい日々の営みやいじましい自尊心とは無関係な、絶対的な意味での「どうでも良い人」として新たな宇宙の発生のようなものに立ち会うことが理想といえば理想。

 

夜ごとに太る男のために

Notoriious B.l.G.読者の皆、あけましておめでとう。今年もNotoriious B.l.G.をよろしく頼む。最高の一年にしよう。
大晦日の夜、実家に帰ったら大きくなったねと言われた。体重計に乗ってみたらと言うので、素直に従って体重計に乗ってみると一年前と比べて10kgも太っていたことが判明した。ひどい。
実家の風呂場で体を洗うときに鏡で自分の姿を見てみると、わんぱく相撲のこども力士のような体型になっていたから、ああ、さすがにこれは太ったなとは思ったものの、まさか10kg分も脂肪がついていたとは。
しかし、未だにスリムだった学生の頃のサイズ感で生きているから、ズボンは常に腹を圧迫しているし、Tシャツも腰回りや二の腕に絡みついた状態。しゃがんだりすると尻の上部が露出してしまったりする。自らの体型に対する認識が甘すぎると我ながら思う。かようにして人は自己を省みるという行為をおざなりにしてダーティーサーティーに突入していくのだろう。
「オッサン」とはとどのつまり自省することを放棄した男性のことである。ある特定の年齢を過ぎたもう決して若いとは言えない男性のことをいうのではない。オッサンは自分を中心に世界を見ている。これをオッサン天動説と呼ぶ。心ある人であれば通常、自分の言動が起こした反響音に耳を傾けるものであるが、オッサンはそういった反響などまるでお構いなしだ。だから食事をするときに自分がヌチャンヌチャンと咀嚼の音を発していることにも気が付かない。電車の座席や飲食店のカウンターで隣に人がいる場合においても股を広げて座る。足を組んで靴の裏を人の方に向ける。くしゃみをするときに口を手で覆わない。便所でスマホを見ながら用を足す。他人に肩をぶつける。居酒屋やインターネットで若い女の子に絡む。つまらない駄洒落を馬鹿でかい声で言う。自分の笑い声が大きすぎて相手の愛想笑いが耳に届いていない。
こういったダーティーなオーバーサーティーになってたまるかよ、と思う一方で、恥という感覚のない世界で生きていたら心地よいのではないかとも思う。世間に気を使い、人の顔色を窺って縮こまっている人に比べたら、恥のない世界で生きている人のほうが生活の充実度は高いのではないだろうか。だがしかし仮にそうであったとしてもやはり恥の感覚を放棄したいとは考えない。ダーティーな振る舞いをする自分を許すことはできない。
オッサンとは居直りの権化とでも言うべき存在だ。自分の存在を自明のものと考えている節がある。在り方として大変に楽ではあると思うが、そういう人物に決してなってはいけないというオブセッションが強く自分の中にある。昔から惹かれるのは決まって含羞を漂わせる人物だ。
居直りの権化のような人物がアメリカ合衆国の大統領に選ばれたことは世の趨勢を象徴しているのだろうか。どうあれいかなる状況下においても慎みや慮りといったものを失わずにいたい。

 

愛新カルマ溥儀 VS Notoriious B.l.G.

近所に住む友人に誘われて野方にある秋元屋のような雰囲気のやきとん屋で飲み。やきとんって味噌だれなのに美味しいから不思議。地元愛知では「つけてみーそ、かけてみそー」などと歌いながら何にでも味噌をかけて食べてしまいがちなのだが、地元というか名古屋の味噌だれは甘ったるいので全然好きではなかった。だから味噌カツもあまり好きじゃない。でも、やきとんの味噌だれは美味しいと思う。好き。
ちょっと待て、やきとんの味噌だれが美味しいからって名古屋の味噌だれを貶す必要はないじゃないか。そんなことを言う人がいるかもしれない。お前は相対的な優劣でしかものを語れていない、美味い不味いは絶対的な評価を下してしかるべきものではないのか、と。わかる。その意見すごくわかる。
二軒目。バーに移動。一年に一回のペースで通っているお店に久々に行ってみたのだがお店の人が名前を覚えていてくれて感動。酔った友人がトリプルファイヤーがどうのこうの言い出してなぜかお店の大型モニターで知らないお客さんと一緒に一年前のクアトロのライブ映像を見る羽目に。どうして地獄のような仕打ちを受けなきゃいけないのかと思ったけれど、見始めたら別になんてことはなかった。他人がオススメするわりとどうでもいいオモシロ動画を見させられているときのように、とまではさすがに言わないにしても、心はすこぶる冷静および無風状態。凪。ただ自分の姿がとってもスリムなことには驚いた。1年ぐらい前のことだからランニングを始めて3ヶ月ぐらい経過して10kmを完走できるようになった頃。すごい。
現在はじわじわと着実に脂肪がつき始めている。太ってくると人から「ガタイ良くなった?」と聞かれる場合が多い。みんな優しいね!太った原因はやはり晩酌か。
諸々の作業が一段落したのが先月の頭ぐらいで、それ以降、毎日のように晩酌をするようになった。スーパーでホワイトベルグを久々に見つけたので買って飲んでみたところこれがなかなか美味しくて思わずamazonでケース買いしたことがきっかけ。ここ何週間はそれを飲みながらコメディ番組などを観てウヒャヒャヒャヒャと笑うトラッシュな余暇を過ごしていた。こんなことではダメだ。


去る11月26日に開催されたRecord Snore Day(以下RSD)は楽しいイベントだった。選曲リストはRSDのサイトに随時アップされる予定。一番手小柳さんのプレイリストはすでにアップされている。

https://www.tumblr.com/recordsnoreday/154078440802/record-snore-day1-%E5%B0%8F%E6%9F%B3%E5%B8%9D-set-list


私以外みなレコードを駆使してDJをしており、100%CDでDJを行った私は少し体裁が悪かった。レコードはなんというか伊達やダンディズムというとちょっと違うけれど、意地を通す感じが良いなと思った。やはりムッシュの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の3番的な世界観は何があっても支持していかねばなるまい。
イベント終了間際にお客さんの一人が話しかけてくれた。今日はCDばかりだったけどレコードも持っているんですか?どんなレコードを持っているんですか?と聞かれたので、何があったっけ?と考えてみたが、自分でも何を持っているのかわからなかった。5年ぐらい前に金策のために粗方売ってしまったうえに、たまに思い出したかのように1、2枚買ったりするので、手元に何があるかキチンと把握できていないのだ。そんな質問をされてからというもの、そのことが気になって気になって早く確かめたく仕方がなかった。しかしレコード棚の前にはCDがちょっとした摩天楼のように山積みになっていてそれをどかさないことには確かめられない。部屋には物が溢れ返っていて全てが連動しあっているから、どこか一箇所をを片付けようと思っても、スライドパズルのように目的のものを移動させるためにまず周辺のものを空いているスペースに移動させなければいけない。つまりCD周辺の衣類、書籍、楽器・機材なども片付けなければいけいないというころだから非常に手間がかかる。そんなことをするのは億劫だ。それでもやはり気になる。そこで掃除も兼ねてCD摩天楼を移転させることにした。
CDの移動には2時間ほどかかった。早速レコード棚を漁ってみる期待したものがなくて非常に残念な気持ちになった。ビリー・ジョエル、ロギンス&メッシーナ、ELOみたいなラインナップ。実際にはそれらのレコードは一枚も持っていないのだが、こう言えば何となく雰囲気は伝わるだろう。これではレコードでDJすることなど無理。
その日は帰宅する前に新宿のアルタにあるHMVのレコード屋に寄っていた。Jo Mamaの2ndが100円で売られていたので購入。他にベティ・エヴェレットの『Happy Ending』などを購入した。『Happy Ending』は編曲にジーン・ペイジ、バッキングにジョー・サンプル、デヴィッド・T・ウォーカーなどが参加しているアルバム。”God Only knows”のカバーが聴きたくてネットで探してみたものの入手が難しそうで諦めていたがちょうどタイミング良く発見できたので嬉しかった。嬉しかったなどと言って馬鹿みたいに欲しいと思ったものを何でも買っていたら懐が危ないので、値段が3ケタのものしか買わないというルールを自分に課することにする。
飽きっぽいのでこの熱がいつまで続くかは不明。ゆえにRecord Snore Dayの定期開催を希望する!

 

再びリズム論のためのメモ

頭に拳銃を突付けられて以下のように書けと誰かに脅迫を受けているわけでもないのになぜこんなことを書かなければいけないのかという疑問もあるし、いささかオカルトめいていてヤバイなとも思うのですが、敢えて言ってしまうと、音楽や音それ自体が情緒や共感など知ったこっちゃないという顔で聴く者の期待などお構いなしにそこかしこを所狭しと奔放に動き回るものであるという事実に対し、我々がこうも無関心なのは、音楽が音楽として機能することを阻み、音楽なんぞ耳を傾けるに値せず日本語として意味が通じさえすればそれで充分だという態度で音楽の自律性を排除し、音楽が比喩表現の一種であったことなど未だかつて一度たりともなかったにも関わらず、そのように扱ったほうが何かと都合が良いという理由で音楽にその役割を押し付け、その絶えず動き回るものを日本語の枠内に押し込めて安心せんとする日本語一派の末裔だからではないかとついつい考えてしまいます。誰かが自らを音楽関係者と称し、いかにもスマートなリアリストといったツラを装って音楽業界の現状分析などをしながら逆説的に音楽なんか時代錯誤で退屈だから聴かなくて良いよ、それよりもこっちをお食べ、などといって一口サイズの駄菓子状になった日本語を配布して回ると、訝しながらもそれを受け取り、口の中に充満した甘みにウットリとするうちに、自らの頭部に耳という器官が付いていることを忘れ、その駄菓子状になった日本語を舌で撫で回した後、今まさに咀嚼されつつあるぐちゃぐちゃになった日本語を口を開いて人に見せたかと思えば、ただその日本語について語ることにかまけるばかりで、音楽は聴くものであるというとりあえずの前提を有耶無耶にしてしまいがちです。今は気が利いたようなコメントをSNSなどで呟いてさえいれば何か音楽に寄与した気分に浸れるのかもしれませんが、音楽に耳を傾けずともちょっとした来歴やインビュー記事、他人による見解など文字による情報を目で追っただけで言えてしまうような頓智ないし屁理屈などは音楽そのものとは一切関係がないことだし、例えば一時期流行した高速4つ打ちと呼ばれるスタイルに対して遺憾の意を表明することも、音楽的良心の発露や音楽の退廃を憂う素振りに見えてその実、一口サイズとなった日本語の流通経路の拡充に加担することに他ならず、そういう態度こそが退廃を加速させているとしか言いようがありませんが、あくまでその退廃は我々自身の退廃であって、まかり間違っても音楽自体の退廃ではないのだから、そんなものは放っておけば良いとは思うものの、そういう取り違えを無自覚なまま繰り返した挙句、謙遜のつもりなのか、それとも音楽を貶めることで自己の優位を示したいのか、やはり音楽関係者を自認しながらも、文学やお笑い、スポーツなどの他ジャンルに比べると音楽なんぞ大したものではないと訳知り顔で嘯く者もおり、それが個人の趣味の問題に帰することは重々承知のつもりですが、それでもやはりこのような手合は放っておくと、仮にダーツの矢が顔面に二三本刺さっていたとしても痛いとも痒いとも感じることもなく、他人から、ちょっとあなた、顔に何か刺さっていますよと指摘されるまでそのことに気付かないほど厚くなったツラの皮を引っ提げて大した根拠も持たずしてつけあがる一方なので、どこかでしかるべき制裁が下される必要があると考えますが、かといって、そのツラの皮の厚さを面白がってその人物の顔面を物陰からこっそり吹き矢の的にして、刺さった、刺さったと喜んだりするのはやはり人の道から外れた行為だから決してやってはいけないことだよなあ、と思いつつ、しかし、このようなことを書き連ねること自体が物陰からこっそり他人の顔面を吹き矢の的にして遊ぶ行為に他ならないかもしれないよなあ、と思いさすがにしのびない気持ちにもなったりしますが、それでも尚そういった不遜な台詞が何の逡巡もなく口からぽろんと出てきてしまう人物に対し、大したことがないのは果たして音楽の方なのか、例えば大したことがないのはお前の耳であるという可能性はありはしまいかと一考を促すことが我々がみせるべき唯一の親切心ではないかとは思うものの、根っからの日本語一派にありがちなことですが、例え試合に負けさらには勝負にも負けたとしても最終的に頓智や屁理屈を捻り出して彼らが論破と呼んでいる得体の知れない呪文のようなものを下卑た笑みを浮かべ下卑た調子で唱えさえすれば、いつでも一発逆転できるだろうと高をくくっているので、耳がどうのといったところで、いかにも日本語以外信ずるに値せずという態度で、やれ本質だの、やれ自意識だの、やれ本当に○○な人は△△だの、やれ純粋さがどうしただの、やれ人としての器がどうしただの、やれそんなことを言っている奴はモテないよだの、夏休みや冬休みに成田空港で取材されている小学生のほうがもっと気が利いたことを言ってくれるであろうと思わずにはいられないような十年一日のごときクリシェをしたり顔で言い返すのが関の山で、まったく冴えたところのない大学2年生がぬるいニヒリズムから口走りがちなフレーズをこの期に及んでまだ言うかと思わんでもないのですが、たまにはそういった対話を通じて何があろうと決して変わらないものの良さを味わいながら、故郷の山並みなどに思いを馳せてみたりするのも一興かもしれませんが、そうは言いつつも変化を希求する素振りを見せながらも何をしたところで決して何も変わらないという現実に自足しきって、長年住み馴れた淀みに対し、それがどんな腐臭を放っていようと、愛着や一抹の安らぎを感じてしまう自分も確実にそこにいるわけで、自分のことを棚に上げて他人になんのかんの言えた義理などどこにもないよなあ、余計なお世話だよなあ、脊髄反射的にクリシェに対してクリシェで返しているだけだよなあ、脊髄反射でものを言うようになったらいよいよヤバイよなあ、こんなことではたしかにモテナイよなあ、といった具合に少しは前頭葉を使って反省してみせる必要があるのかもしれませんが、今そんな悠長なことをしていられるほどの余裕はありません。我々に課せられた急務は再びリズムについてじっくりと取り組むことであり、リズムについて日本語で語ることの滑稽さ、無様さを改めて知ることでありますが、それはまた別の機会に譲りたいと思います。

 

“Music Voyage DJ solo” MASAMICHI TORII -トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会 Oct. 18, 2016

10月18日にcafe104.5にて行われた『”Music Voyage DJ solo” MASAMICHI TORII -トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会』にお越しいただいた皆様、ありがとうございました!(タイトルの日付が間違っていたので直しました…わちゃあ)
ところで、cafe104.5に置いてあるビールって本当に美味しいですね。ビールに明るくないので下手なことはいえませんが、エールっていうのですか。少し酸味があってフルーティな香りがするビール。エールに分類されるビールがおしなべてそのような味がするというわけではないのかもしれませんが、それはともかくとても美味しいです。そしてすごく飲みやすい。いかんせん味音痴なもので、黒ラベルと一番搾りの違いがあまりわからないというところはありつつも、繊細な鼻と舌の持ち主なんです。安い海産物などは臭みが気になって食べられないほどです。と言いつつも結局食べますけどね。酸っぱくなった味噌汁はさすがに飲めませんが。それは誰でも一緒か。何はともあれ、美味しさは保証付きなので安心してください。いや、おまえに保証されるまでもなくわかってらい!っていう話ですね。失礼いたしました。
既にSNSで公開済みではありますが、こちらがプレイリストとなります。

  1. Guitar Man – Elvis Presley
  2. Guitar Child – Duane Eddy
  3. Guitars And Bongos – Lou Christie
  4. Hop, Skip And Jump – Speedy West & Jimmy Bryant
  5. Mr. Sandman – Les Paul & Mary Ford
  6. No Good Lover – Buddy Miller feat. Ann McCrary
  7. Mystery Train – The Band
  8. Crop Dustin’ – Steve Cropper
  9. Soul Man – Sam & Dave
  10. Higher & Higher – Geoff Muldaur
  11. Crusin’ – Smokey Robinson
  12. You Sure Love To Ball – Marvin Gaye
  13. You’ve Been Around Too Long – Carole King
  14. Now That Everything’s Been Said – The City
  15. Machine Gun Kelly – Jo Mama
  16. For Sentimental Reasons – Danny kortchmar
  17. You Told Me Baby – Bonnie Raitt
  18. Washita Love Child – Jesse Davis
  19. The More I Give – Dr. Feelgood
  20. Lipstick Traces – Snooks Eaglin
  21. Don’t Cry No Tears – Neil Young
  22. Neil Jung – Teenage Fanclub
  23. Miss Williams’s Guitar – The Jayhawks
  24. September Gurls – Big Star
  25. Hang Down Your Head – Tom Waits
  26. Voice Of Chunk – The Lounge Lizards
  27. Tropical Hot Dog – Captain Beefheart
  28. Hear My Brane – The Soft Boys
  29. Another World – Richard Hell & The Voidoids
  30. Third Man Theme – The Band
  31. The Model – Snakefinger
  32. Whole Wide World – Wreckless Eric
  33. Gee Baby Ain’t I Good To You – Geoff Muldaur
  34. Please Send Me Someone To Love – Paul Butterfield’s Better Days
  35. Midnight At The Oasis – Maria Muldaur

冒頭の3曲を見ればすぐにわかることですが、今回のテーマは「ギター」です。ジャンルに偏りが出ないようなテーマは何かと考えた結果、このようなテーマになりました。そんなことを言っても結局偏ってしまうのですが。心なしか秋冬仕様になっているような気がします。しかし、これ持ってこりゃ良かった!という後悔は毎回つきものですね。
ひとつ気になるのは、ボニー・レイットの”You Told Me Baby”の右チャンネルから聴こえるカリンバのようでもありプリペアドピアノのようでもある楽器。フレーズ的にギターのように演奏されています。こちら調べてみると”steel drum” guitarとクレジットされているそうで、演奏しているのは当該曲の中で素敵なギターソロを披露しているジョン・ホールでございます。ブリッジ付近に空き缶を甘めに押し付けて弾くとそれっぽい音になるのですが、実際はどのように工夫して録音したものなんでしょう。それとも”steel drum” guitarという楽器が実際に存在するのでしょうか。問い合わせてみたいものですが、どこに問い合わせたら良いのやら。
ここで改めまして、当日お越しいただいた皆様に感謝を申し上げたいと存じます。誠にありがとうございました。今後ともご愛顧のほど、何卒よろしくお願いいたいします。行きたかったけど行けなかった!という方はまたの機会に是非!
Instagram:senkanofficial
Twitter:senkanofficial

 

僕ってお祭り大好き人間なんです

近頃またお腹が出てきた。食後、鏡にお腹を映してみるとなんだかアフリカに生えている木のようだ。見ていてあまり気持ちの良いものでない。インターネットで検索した結果、そのアフリカに生えていそうな木はボトルツリーと呼ばれていることがわかった。
今回お腹が出てきた原因はおそらく夏の間に砂糖がふんだんに使われている炭酸飲料を飲み過ぎたせいだろう。甘い炭酸飲料はラーメンやスナック菓子などよりも太りやすい気がする。
大人になったら甘い飲み物は飲まないものだと思っていたけれど、三十近くなった現在も毎日のようにガブガブ飲んでしまう。子どもの頃に周囲の大人を見て大人は甘い飲み物を飲まないという印象を持っていたから、大人になれば自然と甘い飲み物を飲まなくなると思い込んでいたが、よくよく考えてみたら加齢がもたらす変化よりも生育環境が与える影響のほうが大きいような気もする。彼らは小さい頃に甘い飲み物をそれほど飲んでいなかったはずだ。一方我々は小さい頃から様々な甘い飲み物に慣れ親しんできた。それで大人になっても依然と砂糖を欲する体質になってしまったのではないだろうか。
机の上にライフガードなどの甘い炭酸飲料を置いているとやはりお子ちゃまという感じがして恥ずかしいけれど欲望には抗えない。私にとって砂糖はやはり「幸せの白い粉粒」で、いつでも味わっていたいもの。なぜならいつでも幸せでいたいから。そんなふうに砂糖のことを考えているとなんだか口さみしくてなって落ち着かない。イライラする。今すぐ通りに出て叫び出したい。居ても立ってもいられなくなり思わずお腹の贅肉を両手で力一杯に握りしめた。内出血を起こすほどの強さで。そうすると心なしか砂糖への欲求が去っていくような気がした。ただし痛みは残った。この痛みこそ生の実感。
でもそんなことはもうどうでもよい。金木犀香る今は秋。気の滅入る曇天。地元ではお祭りの季節。うちの地区では厄年の男達が山車を引っ張って町内を練り歩く。神社では櫓が組まれて餅投げが行われる。餅投げは厄年の男たちが櫓の上から餅を投げ、櫓を取り囲んだ人々がそれを拾うというだけの儀式ではなく、餅には賞品が付いているため、この餅投げという昔ながらの風習には賞品を巡る戦いという側面もある。餅はビニール袋に入っていて、そこに親指の爪ほどの大きさの色紙が同封されている。この色紙を後から賞品と交換するという仕組みになっており、たいがいの色紙はポケットティッシュや亀の子束子にしかならないが、金や銀の色紙は電動アシスト自転車や大型テレビといった豪華賞品に交換できる。また、こどもの部というのがあり、これの一等はたしかゲームボーイだったはず。他にも女性の部などもあったような気がする。
それは小学4年生のときのことだったかと思われるが、餅投げの日、少年野球をやっているような発育が良く大柄な同級生たちがこどもの部に飽きたらず一般の部つまり大人の部にも参加するというので、それならばと自分も参加することにした。
餅を入手する方法は、櫓から投げられた餅を空中でキャッチする方法と、地面に落ちた餅を拾う方法の二種類ある。前者は大人たちよりも身長の低い小学生には難しい。だから後者の方法で餅を集める以外に手立てはなかった。
そのような事情から屈んで地面に落ちた餅を集めていたところ不注意にも手を踏まれてしまった。タイミングから察するに、不慮の事故といったものではなく明らかに意志をもって踏んできたように感じられた。ただ、悪意をもって手を踏んできたわけではなく、餅に執心するあまり餅に覆いかぶさった子どもの手をそれと認識せずにただの障害物ぐらいに思って咄嗟に足が出てしまったのだろう。しかし毒を食らわば皿までと思ったのだろうか、そこからさらにぐりぐりと踏みにじって手を退けようとしてきてなかなか足をどけてくれなかった。
相手を見上げると六十がらみの爺様が恨めしそうな目つきでこちらを睨んでいた。表情から察するに「邪魔しやがってこのクソガキが」ぐらいのことは思っていたであろう。
子どもにとって餅投げの大人の部に参加することにはある種通過儀礼のような意味合いがあったかもしれない。櫓の下で繰り広げられるのは興奮状態の老若男女が泥塗れになりながら他人を蹴散らし、欲望をむき出した状態でひたすら餅を拾うという熾烈極まる世界だ。日常の生活に比べるとそれはとてもアナーキーな世界に感じられた。とは言っても、この歳になって改めて参加してみたらそれほど大げさものではなくてもっと可愛らしいものに感じられるとは思う。それでもやはり、ぬくぬくと育てられて、家と小学校の中の世界しか知らないような子どもが、そんな大人の世界にノコノコと出て行ったら面食らうに決まっている。
筋の良い子であれば「あ、世の中ってこういうものなのね」などと言って世の中の対する落とし所がすんなりと見つけられたはずだし、そこから身構えて対処することもできたのであろうが、悲しいかなとても筋の悪い子どもだったので爺様に手を踏まれた瞬間に「あ、ぼくもうこういうの絶対にやりたくないです」と思ってしまった。今思えばそれは生まれて初めて心が折れた瞬間だったのかもしれない。もちろんそれまでにも子どもなりに軽い挫折のようなものは味わってはいたが、どれもその場限りの感情に過ぎず、未来に暗い影を落とすというようなものではなかった。しかしこの一件は、心に暗雲が立ち込めて将来の見通しまで暗くしてしまったようなところがある。そのときに、そこまでして他人を出し抜きたいと思わないし、今後はこのような血生臭い争いごとに一切関わってたまるものかよと思ったことを覚えている。今にしてみれば単に負け癖がついてしまっただけのような気もする。
飲み会などで全く遠慮ということをせずにそれをまだ食べていない人がいようがいまいがお構いなしにパクパクパクパク食べて食べて食べつくす人など見るとどうしても引いてしまう。皆で話しているときに人の話題を奪ったうえで一人で延々と演説を打つ輩も許せない。コンビニでフォーク並びが理解できずに順番抜かしする輩がいるとむかっ腹が立って「このイモ野郎が!」と思わず心の中で毒を吐いてしまう。ビンゴをやっていて列が揃っていても最後までビンゴと言い出せない。それもこれも餅投げで手を踏んづけてきた爺様に対する嫌悪感が影響しているような気がしないでもない。情けないことに「世の中ってそういうものじゃない」なんてふうに未だ折り合いをつけられずにいる。
自分が受け取るはずであった利益が他人によって不当に侵されているというような被害者意識が心のどこかに常にあって、それが思考の根幹に強い影響を与えている気がする。精神科医の春日武彦曰く『人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎない』と。
被害者意識というものは視界を曇らせるから用心しなくてはならない。過度な被害者意識と正義が結びつけば人をとんでもないところまで連れていってしまいがちだ。この組み合わせはもう本当に碌なものではない。自己憐憫の心を煽りつつ水面下で利益を自分の方へと誘導させようと企てる言説全般に対して我々はそれを見つけ次第反吐を浴びせかけてやらねばなるまい。「自分が受け取るはずであった利益が常に他人によって不当に侵されている」と思うのであればその反対のことも必ず検討していく必要がある。つまり「他人が受け取るはずの利益を自分が不当に侵しているのではないか」ということを常に念頭に置いていなければ、エゴは肥大化する一方であろう。というよりそもそもの話、自分がその利益を受け取ることを自明とする心性自体に問題があるのかもしれない。
そういう視点を欠いたまま「東京育ちは心に余裕があって、上京組はガツガツしている」みたいなことを言ってしまったらそれはさすがに不味いのではないか。しかし「東京育ちは心に余裕があって云々」という発言の根幹にあるようなある種の屈託のなさは本来美点として挙げられるべきだろう。むしろそういうものを積極的に擁護していかなければいけないところまで来てしまっているように感じる。及び腰で謙虚なスノビズムなんて毒にも薬にもならないことは火を見るよりも明らかだ。ものすごく低姿勢且つ柔和な語り口で書かれたユーミンの著作「ルージュの伝言」を想像すると、果たしてそれは面白いのかと考えざるをえない。『仁義なき戦い』の名ゼリフに「吐いた唾飲まんどけよ」というのがあるが、後からしおらしくされたところで興ざめするだけだ。DV男じゃないんだから。(ところで、この記事の冒頭の文章で仰っていることはとても素晴らしい!ALL ABOUT CULTURE わたしたちの文化の秋 〜みんなで文化を共有しよう!〜)
ルサンチマンを滾らせて他人が馬脚を露わすのを今か今かと待ちわびている魑魅魍魎が跋扈するインターネット上において、スノビズムを全うするのであればやはり入り口を利休のにじり口みたいにして緊張感を持たせなきゃなかなか難しいように感じるのだがどうだろう。でもそれではたぶん商売にならないだろう。
スノビズムにはやはり愛嬌も必要だと思う。何年か前の早稲田祭で細野晴臣のライブを見たときに感じたことだ。細野晴臣からは禍々しいほどのスノッブさというかノーブルさが放たれていたが、それをあの特有の可愛らしさがかなり中和しているように思えた。
でももうそんなことには構っていられるものか。こんなことが書きたくてブログ(死語)をやっているわけじゃないっつうの。金木犀香る今は秋。気が滅入る曇天が続くけれど、食べ物は美味しい。それが秋というもの。そして、そんな季節に打ってつけのイベントがあるのです。

Music Voyage : DJ solo 鳥居真道 2016.10.18 tue. – トリプルファイヤー鳥居の選曲管理委員会 –


こちらを簡潔に説明すると、美味しい料理と美味しいお酒を楽しみながら最高の音で音楽を聴こうという内容のイベントとなっております。その選曲を仕るのが私鳥居というわけなのです。
DJ:鳥居真道(トリプルファイヤー)
2016年10月18日(火)
[DJ time]7:30pm – 9:30pm 
Admission Free(入場無料) ※ご飲食代のみ
ご予約はお電話で承ります。TEL : 03-3251-1045
Music Voyage : DJ solo 鳥居真道 2016.10.18 tue. | MUSIC | cafe 104.5
皆様是非是非お越しください。よろしくお願いいたします。