「邦ロックから遠く離れて」とは一体?

「邦ロックから遠く離れて」という一体何をやっているのかよくわからないトークイベントを新宿のROCK CAFE LOFTで定期的に開催している。先日、年内最後となる第5回目を行った。口下手で人前で話すのが苦手で声を発するのも危ういというなんとも情けのない30過ぎの良い大人がトークイベントを半年も続けていることはまるで奇跡のようなことだが、これは120%一緒にやっている張江さん、田村さんのおかげである。本当にありがとうございます。もちろん根気よくお付き合いいただいているお客さんがいなければイベントは成立しないわけで、そのことには感謝しても感謝しきれない。いつも本当にありがとうございます。
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そもそもこのイベントは、「リズム・アナトミー」でお世話になっていたロフトの日野さんから張江さんに鳥居と二人でアメリカのヒット曲について話すイベントをやってくれないかという話があって始まったものだ。リズムアナトミーでもアメリカのヒット曲についてすこし取り上げることがあったから、それがキッカケとなったのだろう。そこに張江さんの高校時代の友人で映像作家の田村さんが参加することとなった。音楽のトレンドに造詣が深く、また音響機器や機材事情についても精通していて、毎度毎度話を聞きながら刺激を受けている。その知識量はイベント一回目の後にお客さんから「田村さんって何者ですか?なんであんなに音楽詳しいのですか?」と質問のメールをいただいたほど。張江さんの名司会者っぷりはもはや言うまでもないだろう。いつも助けてもらっていて頭が上がらないし、足を向けて寝ることができない。
第一回は6月25日に開催。かなりリキが入っており、事前にビルボード・ホット100の曲を一曲ずつ聴き、周辺情報をリサーチ。もうちょっと肩の力抜いても大丈夫だよと言ってあげたいところ。しかし、最初にしっかり体力をつけておいたから5回も続いているともいえる。口下手の人間が事前にしっかり準備していかないでどうするという話もある。
そんな入念な下準備をよそにイベント内容はMVを見てツッコミを入れてゲラゲラ笑うというようなものになった。実際自分もゲラゲラ笑った。リズム・アナトミーの流れを汲んだイベントだと思ってやって来たお客さんはやや拍子抜けしてしまったそうだ。ただし滅茶苦茶笑ったとのこと。鳥居はというと、張江さんと田村さんの同級生アンサンブルに上手く入っていくことができず、二人を遠くから眺めるに終始。例えば、スタジオでセッション的なことをする場合もバリバリ弾きまくってみんなを引っ張るタイプではなく、場に慣れるまで様子を見つつ目立たないようにちょろちょろ音を出すタイプ。それが鳥居。
大学の入学式が終わった後に行われた語学のクラス別オリエンテーションに、体をこわばらせて足を踏み入れると、内部進学の者が固まって後ろのほうの席を占拠し、ずいぶんとリラックスした様子で会話しており、上京したてのうぶな心は大いにかき乱された。中学校は小学校と同じメンバーがそのまま持ち上がるだけだったし、高校も市内の高校に入学したからずっと同じような顔ぶれに囲まれており、大学生になるまで自分がこんなに寡黙で人見知りだとは気づくことがなかった。あのオリエンテーションの雰囲気にたじろいで以来、ずっと腰がひけたまま気づけば三十路。しかしシャイだの口下手だのそんな甘っちょろいアティテュードでは世の中を渡っていけない。これはプロフェッショナルなビジネスの話だ。やはりイベント後に「鳥居喋らなすぎ。これってなんのイベントだっけ?トークでしょッ!トーク・トーク!ミュージック・マシーン!シーン・ボニエル!」といったご意見をいただくことになった。ギターの場合はあまり弾かないほうがかっこいいという価値観があるのだが・・・
このイベントにおいて「ドレイクはいじられキャラである」という認識が参加者全員に共有されたのは特筆に値することだろう。音楽に対して属人的な評価を与えることに関して常に疑問を呈しているのだが、アメリカのヒットチャートという場が属人性で動いているのだから仕方がない。仕方がないけれど、「キャラ消費」の是非については考えていく必要がある。
第二回は7月30日。チャートがあまり変動しないこともあって、アトランタを中心にサザン・ヒップホップの勃興からトラップ的なサウンドがヒットチャートで覇権を握るまでの歴史をさらうといった内容のコーナーを設けた。現在のヒットチャートを追ううえで絶対に必要な知識だと思ったからだ。ただし、悪い癖で調べていくうちにどんどんボリューミーになってしまい、当日は尺が足りず駆け足となり中途半端な内容になってしまった。準備のためのメモ自体は良い具合にまとまっているだけにもったいないことをしてしまったと今にして思う。MVをいじってゲラゲラ笑うパートが激減したために、イベント後にもっとMVを観ながらゲラゲラ笑いたかったというご意見をいただいた。第二回はわりとトラウマ回。怒号も飛んだ。
第三回は9月3日に開催。田村さんからアメリカは音楽制作に関するチュートリアル動画が充実していると聞いた。そういうことであれば、それらの動画を参考に自分でトラップ・ビートを作り、それをイベントのワンコーナーにしようと思い立った。一ヶ月取り組んでみてどれだけ成長できたか当日に披露した。ちなみにプロデューサー名は「Victorii」。鳥居のビートはインテリジェントでトラップっぽくないという話になったが、昨今のトラップは、サウンドのテクスチャーがかなり洗練されており、2000年代中頃にあったドン・キホーテ的なギラギラ感はもはや皆無だと思う。次回は誰かにラップしてもらおうという話になった。後半はMVを観てゲラゲラ笑うパートもありイベントとしてもバランスの良いものになった。スタイルが確立された記念すべき回。
第四回は10月10日に開催。張江一門、いわゆるハリエボーイズのラッパー、猫まみれ太郎さんにラップしてもらうことになった。トラックは第三回以降にシコシコ作っていたものから3パターン用意。猫まみれ太郎さんにその場でラップをのせてもらい、その後トラックに対する意見やダメ出しなどをいただいた。USヒップホップを全然聴かないという猫さんの視点もおもしろく、このイベントのテーマのひとつとなっている日米の比較という点でもとても参考となる意見を聞くことができた。
第五回は11月26日に開催された。張江さんの提案ですこし邦ロック的なものを取り上げることになった。なまじ自分も音楽業界の末端にいるものだからあまり下手なことは言えない。けれどもクローズドな空間だから危うい発言も出やすい。危ういことをたくさん言いたいし、どんどんかましていきたい。けれどもかましたところで翌日に後悔することは目に見えている。
今回は猫まみれ太郎さんに鳥居からラップに関するリクエストを出して、そのラップを録音してもらうことにした。ネットでバズったMigosの「カープール・カラオケ」からヒントを得てリクエストをした。この音源が良い感じで、トラックを作った者としてとっても満足している。
次回は来年2019年1月23日の開催。まだ何をやるか決まっていないけれど、何かしら仕込んでおきたい。いや、当然のごとく仕込む。別に連ドラではないので、初めての方も一度お越しいただけたら様子がわかるかと思います。是非お越しください!
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【Playlist】NEWTOWN’18の思い出

11/9
帰宅後、翌日にデジタルハリウッド大学八王子制作スタジオで開催されるNEWTOWN’18でDJすることになっているのでビールを飲みながら準備。かつて小学校の校舎だった建物の屋上で土曜のお昼間にDJするということで、「さわやか」をテーマに選曲することにして盤を探す。レコードの収納が滅茶苦茶なのでお目当てのものを探すのも一苦労だ。部屋が散らかっているとレコードを二度Digることになる。お店と自室で一度ずつ。一粒で二度美味しい。
「あ、こんなの持っていたんだ」「コレとコレ持っててアレがないのは寂しいな」「これジャケ買いして失敗したな」「ジャズ・ミュージシャンのトロピカルっぽいジャケってホント内容読めないな」「あれ?ない?どこに行った?もしかしてこの前のイベントで他の人のところに紛れちゃったのか?」「あ、あった」「これ一回もターンテーブルにのせてないな」「意外にさわやかな曲の入ったレコード持ってなかったな」「新宿からユニオンのソウル・ブルース館がなくなってしまったの辛いな」「中古センターも行きにくくなったな」「これ流して微妙な空気になったら嫌だな」「結局いつもと同じような選曲かよ」
準備している間に、さまざまな思いが去来してどっと疲れた。気怠い。
Netflixでドラマを観ながら寝る。自分からしてみたら早起きの部類に入る時間帯に起きなくてはいけないが起きられるだろうか。3時間でも寝られたら良いのだがスムーズに寝付けるだろうか。
11/10
時間通りに起きられた。準備を整えて家を出る。眠い。京王多摩センター駅に着いた時点で時間に余裕があったので朝ごはんを食べることにする。朝マックでもするかと思って入店するものの11時過ぎだからもう朝マックの時間ではなかった。自分なりに早起きしたつもりだったから・・・
ビートルズでも聴くか~と思って有線のビートルズ・チャンネルが流れていることでおなじみのカレーショップC&Cに入店。しかしビートルズは流れていなかった。流れていたのはメジャー・ハリスの”Love Won’t Let Me Wait”。元デルフォニックスのシンガーによるヒット曲で、女性の色っぽい声が挿入されることで有名。カレーを食べながら聴く音楽ではない。
会場入り。昨年はトリプルファイヤーのライブで出演したので慣れたもの。けれどもなかなか屋上にたどり着けず苦労した。
会場のターンテーブルを見た瞬間にヘッドホンを持ってくるのを忘れたことに気づき冷や汗をかく。PAの方に確認するとやはりないとのことで困った。誰かに借りられないか考えたが借りられそうにない。ええい、ままよ。腹をくくりヘッドホンなしで対応することにした。針およびカートリッジを持参するのがDJとしての当然のマナーであるというような空気があたり一帯を満たしていたがお借りすることにした。どうもすみません。
出番までディープファン君のライブを見学。楽しいライブ。好みの音楽。改めて音源を聴きたい。
準備ができたのでぬるりと開始。頭出しはミキサーのレベルメーターを見て確認。なんとかなりそうで安心。しかし気は抜けない。
料理上手は片付け上手という言葉を聞いたことがあるような気がする。DJ上手は片付け上手とも言えよう。次にかけるレコードの準備をしつつ既に流したレコードをジャケットに収めてカバンに戻していく。まあ誰もがしていることだろう。今回はレコードが置けるテーブルのようなものがなかったので、片付けるためには地面にしゃがみこまなくてはならなかった。そうするとDJブースに誰も立っていないように見えてしまう。なんとなく寂しいではないか。それはあまりよろしくないだろうと思い片付けは後でまとめてやることにした。
選曲は結局ここ一年ぐらいハマっているバレアリック、アフロ/コズミックな感じになった。本当はもっと土曜のランチタイム感を演出したかったのだが。
初対面のKASHIFさんにご挨拶。そしてギターDJを見学。曲を流してKASHIFさんがギターを弾く。それがギターDJということなのだが、最高だった。ギターのトーンが艶っぽくて素敵。音にハリと潤いがある。自分の弾くギターのトーンはパサパサで潤いもなければ音にハリもなく、さらにけみお風に言うのであれば治安が悪い。なんというか噛んだ瞬間にパラパラに崩れてしまう手作りクッキーのようなところがある。そんなことはどうでも良し。KASHIFさんのギターDJに合わせて女の子たちが思い思いに踊っていてそれがとても良い光景だった。
イベントをすこし見学して帰ることにした。カップルや家族連れが多い。地域のお祭のような雰囲気が漂っていて素敵だと思った。
スリップ・ノットを小さめの音量で聴きながら京王線に揺られて帰宅。眠たいときに聴くスリップ・ノットってどうしてあんなに気持ちが良いのだろう。


Nina Simone – Funkier Than a Mosquito’s Tweeter
Penguin Cafe Orchestra – The Ecstasy Of Dancing Fleas
Quarteto Em Cy – Tudo Que Voce Podia Ser
Antena – The Boy from Ipanema
Shuggie Otis – Island Letter
Steve Miller Band – Wild Mountain Honey
Daryl Hall & John Oates – One On One
John Martyn – Couldn’t Love You More
Laid Back – Fly Away / Walking in the Sunshine
Little River Band – Curiosity Killed The Cat
Fleetwood Mac – Keep Going On
Stevie Wonder – Boogie On Reggae Woman
Lee Oskar – Sunshine Keri
War – Smile Happy
トリプルファイヤーの音源が様々なストリーミングサービスで配信開始となりました。私はSpotifyユーザーなのでこちらをシェアいたします。

その他のサービスをご利用中の方は以下のリンクから探してみてください。
トリプルファイヤー/FIRE

 

最近観た映画(10/29付)

特に書きたいこともないし、発信したいこともないので、最近観た映画の感想でも書いていこうと思う。自分にとって映画というものは手に負えない感じがある。もはや好きかどうかもわからない。映画を観るのは好きだが、映画そのものが好きかどうかと問われたら自信をもって好きだと答えられない。そもそも好きかどうかが殊更重要な問題であると果たして言えるのだろうか。好きだから何だという問いは何事にも常につきまとう。例えば、自分が他の誰よりもクルアンビンのことを愛おしく感じているからといって先行予約の抽選に当選するというわけではない。そういう話なのか。
やはり映画の感想を考えるのは苦手だ。ストレス以外の何ものでもない。それでも書くか。書いていくのか。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』(デヴィッド・ロバート・ミッチェル)

『イット・フォローズ』の「イット」の描写はフレッシュさを感じたしそれなりに期待していたがあまり楽しめなかった。評判が良いのでなんだか居心地の悪さを感じる。例えば『ビッグ・リボウスキ』、『インヒアレント・ヴァイス』、『ロング・グッドバイ』といった、そんなものが存在するのか不明だが、「陽光を浴びたノワールもの」に連なる要素があり、それは好物ではある。けれどもこの映画には乗れなかった。ひとつも嫌いなところがないのにあまり面白くもない。全然嫌いではないのだが。本当に。若干『シェイプ・オブ・ウォーター』や『ラ・ラ・ランド』的な趣味の良いオタクっぽさがあり、それが気になった。自分がどうあがいたところで所詮趣味の良いオタク止まりだとしても、ウェス・アンダーソン的な洗練を是としたい。主演がアンドリュー・ガーフィールドということで、スパイダーマンいじりのギャグが何個か用意されていたが誰も笑っていなかった。笑おう!

『ザ・プレデター』(シェーン・ブラック)

傑作。名作『ローガン』での軽い演技が忘れがたいボイド・ホルブルックが主演。癖の強い荒くれ者達が行きがかりで主人公に協力。決死隊を組んでプレデターと対決するというストーリーに興奮。こんなにさわやかで良いの?と不安になるほどのさわやかさをまとったSFアクション映画が2018年に作られたことに感動した。オリヴィア・マンの役どころも良かったし、律儀にサービスシーンまで用意されていた。

『クレイジー・リッチ!』(ジョン・チュウ)

傑作。ロマコメかくあるべし。すべてが上手く機能している映画。音楽に例えるならThe Emotionsの”Best of My Love”。たくさん笑ってたくさん泣いた。原題は”Crazy Rich Asians”だが、映画の中での日本のプレゼンスのなさ加減が気になった。

『クワイエット・プレイス』(ジョン・クラシンスキー)

リンプ・ビズキットのギタリスト、ウェス・ボーランドのすっぴんの状態を彷彿させる俳優ジョン・クラシンスキーが監督と主演を務める。主演は他にクラシンスキーの実の奥さんであるエミリー・ブラント。ウェルメイドなホラーで本当にハラハラさせる。シャルロッテ・ブルース・クリステンセンによる撮影もオールドスクールなホラーを再現していて良かった。ラストはジョン・カーペンター的な爽やかさがあり思わず快哉を叫びたくなった。よりにもよってこの映画を鑑賞するにあたりスマホをマナーモードにしていない客がおり、自分も電源をちゃんと切ったかどうか不安になってきたが確認しようにもゴソゴソ動いて音を立てたら迷惑だしどうしようとハラハラした。これがなかなかに良い体験で映画館で映画を観る良さはこういうところにある。

『デス・ウィッシュ』(イーライ・ロス)

イーライ・ロスによる「狼よさらば」リメイク。オリジナルのほうは昔テレ東で放送していたので観たが内容は忘れてしまった。リメイクのほうは現代の風俗を取り入れたギャグが光る。前半のテンポの良さは特筆すべきで、家族円満のシーンなんか特に気が利いていた。『フレンチ・コネクション』におけるニューヨークに通ずる殺伐としたシカゴの描き方も良し。こちらもラストはジョン・カーペンター的な爽やかさがあり思わず快哉を叫びたくなった。AC/DCの”Back In Black”に高揚。イーライ・ロスのうまさをしっかりと味わえる映画。

『クリミナル・タウン』(サーシャ・ガヴァシ)

地味な映画だが推したい。面白かった。ひんやりしてるが湿度はある、みたいな空気感がフィルムに閉じ込められていてそれが心地よかった。枕の裏の冷たさに通ずる心地よさ。思春期特有の感情の機微や親心の描き方については、『レディ・バード』よりもさりげない上に繊細だったと思う。話の筋は『ブルー・ベルベット』のような世界の暗部に青年が触れてしまうといったもの。そしてクロエ・グレース・モレッツの可憐さ。

『search/サーチ』(アニーシュ・チャガンティ)

父一人娘一人の家族。娘が突然失踪し、その行方を父が必死になって探すというドラマだが、この映画が変わっているのはすべてがPCないしスマホの画面上でのできごとになっていることだ。Macのスクリーンセーバーが映画館のスクリーンに映し出されることの可笑しさ。アイディアの勝利といえよう。ソーシャルメディアなど現代において一般的となった技術やサービスが物語を進める乗り物となる。映画はナマモノであるということを意識せざるを得ない。父が娘を探すというと『ハードコアの夜』を連想してしまうが、もはや笑うしかない悲惨さはないので、安心して観に行ってください。

 

「マシュマロ」反省会 / ほんとうに衝撃を受け、今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムのジャケを10枚

やっほー!

久しぶり!みんな元気にしてた?久々にブログ書いてくね。

たくさんのマシュマロ、どうもありがとうございました

「マシュマロ」というネットのサービスがある。匿名の質問を受け付けて、それにTwitter上で答えるというものだ。ネガティブな質問、下品な質問、ただの悪口などを通さないフィルターが装備されているのが特徴といえよう。このマシュマロをフォローしている人が利用しているのを見ておもしろそうに感じつい魔が差して利用することにしたのが一月前。微妙なセンスの持ち主ほどこうした質問に答えるサービスを小馬鹿にしがちだから「では利用するのが正解だ」と短絡的に考えて開始したところもある。
質問が全然飛んでこなくて惨めな気持ちになるのではと不安に感じていたが、意外にもたくさんの質問が寄せられたのでほっとした。最終的にはフリスク二箱分の質問が未回答の状態になるほどであった。同じ人が複数質問している可能性もあるし、すべてが私の自作自演かもしれない。いや、自作自演なんて言ったらせっかく質問してくれた人に失礼だ。ごめんなさい。たくさんの質問、どうもありがとうございました。
質問ではなくエゴサーチの結果ではお目にかかれないような丁寧なメッセージを送ってくれる方もおり励みになった。こんなに水の澄んだインターネットがあって良いのかとやや不安になったが、本当に嬉しい限り。その距離の測り方は細野晴臣のベースのタイミングコントロールのように繊細でした。どうもありがとうございました。
「○○みたいな自意識をお持ちのように見えますが…」という枕から始まる質問をいただくことが度々あった。誰しも少なからず人からこう見られたいだとかこういう人間だとは思われたくないといった下心を持っているはず。けれども、他人からその下心がはっきりと見えるわけなどあるはずがない。たまに他人の自意識を見透かしてしまう人がいるが、見えないものを見てしまっているのでいわゆる「スピってる」状態と一緒だという自覚は持ったほうが良い。かつて「日本人の信条は察しと思いやり」と言った人物もいたが、「察し」と「下衆の勘繰り」は表裏一体であると心得よと言いたい。「親父の小言」風に言うならば。
一番感動したのは、質問に回答するのを止めますと宣言したところ質問がピタリと止んだところだ。これこそがファンクだと言いたい。JBの素早いジェスチャーとともにバンドが演奏をピタリと止めるがごときファンキーさ。これだけでもフォロワーからリムーブされながらも回答を続けた甲斐があったというものだ。
受付自体は締め切っていないので何かありましたらマシュマロを投げてみてください。ただし回答はしません。
鳥居真道にマシュマロを投げる | マシュマロ

「ほんとうに衝撃を受け、今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムのジャケを10枚」

先日、といってももう3ヶ月も前の話だが、Twitter上でカシマさんから「ほんとうに衝撃を受け、今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムのジャケを10枚」というバトンが回ってきたので取り組んだ。2000年頃からインターネットに慣れ親しんでいる人はご存知だと思うが、昔は「音楽好きへ100の質問」というようなバトンがあり、それが回ってきたら個人のテキストサイトで発表したりするという文化があった。そんなことを思い出してしみじみしてしまった。
「ほんとうに衝撃を受け~」はジャケの画像だけ投稿しても問題なさそうではあったが、TL上をさらっと流れていってしまいそうだったからコメントをつけることにした。音楽を聴いて「ほんとうに衝撃を受け」ることはもちろんあるにはある。けれども、それはやっぱり曲単位の話という感じがするし、アルバムという単位だとなかなか思いつかないので、最初の一枚を選ぶのに苦労した。そこで発想を変えて、「ほんとうに衝撃を受けた」という文言を「不可逆的な影響を自分に与えた」というふうに解釈して取り組むことにした。好きなアルバムならいくらでも挙げることができるが、その後の音楽観や趣味まで変えてしまうよう盤はそう出会えることはない。
律儀に10日間投稿し続けて先日、とはいってももう3ヶ月も前のことだが、ようやく終了した。もちろん密やかな趣味を他人に開陳することは自分にとっても恥ずかしいことだ。4日目ぐらいで「自分酔い」して気分が悪くなった。気恥ずかしさと気持ちの悪さから途中で放り出したくなりもしたが、「おれたちいくつになっても悪ガキ!」を合言葉に中高生的な感性に固執することで年々フレッシュさを失い淀みに嵌って腐りかけている2ちゃんねる的な態度を内面化したサブカルっぽい連中のようにホモソーシャル的な内輪ノリを支えている価値観をより強固にするために目配せしながらパフォーマンスとして他人を腐したり冷やかしたり貶したりするというような卑しい行いではなく、ポジティブなバイブスに溢れたことをせねばならない、自分の中の2ちゃんねる的感性を殺していかねばなるまいと感じたからきっちり10日間続けることにした。
選んだ10枚とコメントは以下の通り。











 

『邦ロックから遠く離れて』開催に寄せて

邦ロックから遠く離れて

タイトルについて

最初は「米ポップの現在 ― 邦ロックから遠く離れて」とするつもりだったが、シンプルに「邦ロックから遠く離れて」にしたほうが馬鹿馬鹿しさが強まるのではということで、このようなタイトルになった。
最初に、「邦ロック」って単語があるのなら「米ポップ」って単語があっても良いよなあ、そして俺が好きなのってまごうかたなき「米ポップ」だよなあ、と思い、「米ポップの現在」というタイトルにしようとしたが、結局「米ポップ」は消えてしまった。「邦ロックから遠く離れて」というタイトルでアメリカのヒットチャートを扱うとなると意味が通らないといえば通らないが、そんなことはいちいち気にしていられない。
イベントの内容とはやや離れるが、音楽産業の末端にいる身として念のため表明しておくと、「邦ロック」という名のコンペティション、いわゆる「ゲーム」に参加しているつもりはない(ロックやヒップホップなどと違って「俺こそがリアル邦ロックだ」と自ら申告する人もいないだろうが・・・)。そういう意味でいえば「邦ロックから遠く離れて」というタイトルはある種のステイトメントと言えるが、やはりこのイベントの内容とは関係ない。
いやいや、ちょっと待て、と。それなら『ジャパレゲから遠く離れて』でも良いじゃないか、という考えもあろう。しかし、バンドをやっていると自ずとロックにカテゴライズされるという現実がある。そういうことを踏まえて邦ロックを選んだ。というか邦ロックが最も近くて遠いジャンルだと思っている。本当は邦ロックなんて単語を口にするのもキーボードで入力するのも嫌だったのだけれど、一度解禁してしまうと段々と気にならなくなるので不思議。

狂騒と倦怠のフードコート

人と飲んでいて盛り上がり、2軒目に移動してからしばらく経って終電も近いとなった段に誰かがカラオケ行きたいと言い出してカラオケ店に移動し、そのまま始発を待つことがある。アルコールの作用による狂騒と倦怠が入り混じった状況で、狂騒よりも倦怠が強く現れるとモニターにDAMチャンネルが映される。ただ単に誰も歌の予約を入れてないとDAMチャンネルが自動的に流れるというだけの話だが。
このDAMチャンネルというプロモーションのためのコンテンツが放つ耐え難いまでの白々しさは、音楽産業というあり方そのものの白々しさを象徴しているかのように感じてしまう。飲み過ぎによる倦怠感も相まって、あれを見ているとなんだか惨めな気分になってくる。英語話者であれば思わず”DAMN”と言ってしまう場面だ。
ショッピングモールのフードコートにもDAMチャンネルと同種の白々しさを感じる。いつでも人で賑わっており活気はあるのだが、個々の要素を細かく見ていくと倦怠をまとっているように感じられる。その倦怠はある種の生活感といっても良い。商業施設の白々しい照明のせいで、そこに落とされる影も自ずと濃くなる。実際のところがどうあれ、そこにいる人がひどくくたびれているように見えてしまう。生きることのすべてが消費活動に結びついていることへの倦怠感と、経済それ自体の狂騒がないまぜになった空間がショッピングモールのフードコートである、と言い切ってしまうのはためらわれるが、とにかくあの場所にいると消費活動にまつわるシステムに対する無力感を強く覚える。大量の客を捌くために効率化された飲食チェーンの出店が並ぶフードコートで食事することは妥協以外の何ものでもない。資本主義のなかでなんとかやっていくしかないといううんざりする現実のひとつの象徴である。
狂騒と倦怠を分離することに例外的に成功している商業施設がある。浦安にある「夢と魔法の王国」だ。我々は帰路につくまでの間、倦怠をゲートの外に置いておくことになる。かの施設への厚い信頼は、やはりその非妥協的な姿勢に拠る。人を愉しませるために、ものごとを徹底することの重要さについて「夢と魔法の王国」から今一度学ぶ必要があるだろう。
物分りの良いリアリストを装う者たちがシニシズムから、それが少なからず不本意であろうと、ただひたすら現状を追認していくという状況はゆるやかな地獄でしかない。種々の文化が経済活動に組み込まれるときに現れるあの白々しさから逃避するために、我々は非妥協的でなくてはならない。

邦に開いて洋を閉ざす/洋に開いて邦を閉ざす

個人的にはオープンな姿勢で音楽に取り組みたいと常々思っている。閉じられたコミュニティに向けて何かをすることに価値があるとは思えない。内輪に向けてウインクなどしようものなら、いつ誰に目潰しを喰らうかわからない。そんな緊張感を持って物事に取り組むべきではないか。そう意識して活動していても周りからしてみたらマニアックで聴く人を選ぶ音楽を細々と追求しているように見えてしまう。なぜなら需要に見合ったものを提供していないから。悲しき矛盾。なんとかならないのか。
世界史分の日本史(日本史/世界史)を意識するという立場で活動に取りくんでいきたいと考えているが、やはり容易に世界史対日本史という構図の中に取り込まれてしまう。海外ドラマを褒めているつもりが、いつの間にか日本人の文化的成熟度の低さを嘆いていたというSNSで見られがちな事象は他山の石とし、<日本史/世界史>という立場から自分のやるべきことを見極めて実践していく他あるまい。

自意識の国

アメリカは強い自意識を持っているように感じる。どう考えても天然の国ではない。保守的だろうと進歩的だろうと、国家としてのプライドを国民が内面化しているように見える。「アメリカ合衆国かくあるべし」ということの最適解を常に考えており、加えて<アメリカ史/世界史>ないし<アメリカ史/人類史>という意識、むしろ<世界史/アメリカ史>ないし<人類史/アメリカ史>という意識すら持っているように見える。その尊大といえないこともない自意識をテコにして、アメリカという国のあり方それ自体を娯楽にし、商品として流通させ、そのチャームを世界中に振りまいている。
売れっ子脚本家であり、先日『モリーズ・ゲーム』で監督デビューを果たしたアーロン・ソーキンがクリエイター(海外ドラマの総監督的な意味合いの肩書か?)を務めたHBO制作のドラマ『ニュースルーム』の冒頭の場面が強く記憶に残っている。こちらを紹介したい。
主役のジェフ・ダニエルズ演じるニュース番組のアンカーパーソン、マカヴォイは大学で開催された討論会に参加している。参加者は他にリベラルと保守がそれぞれ一人ずつ。ちなみに主人公は共和党支持者。なんだか落ち着かない様子で二人の意見を聞いている主人公。なかなか口を開かないので司会が話を振るが核心に触れず、冗談を言ってただはぐらかすのみ。
討論会の終わり際、質疑応答のコーナーでマイクを握った女子大生がこんな質問をした。「アメリカが世界で一番偉大な国である理由はなんだと思いますか?」
リベラル側も保守側もアメリカが世界一偉大な国である理由をそれらしく答えてみせる。ジョークでかわそうとしたマカヴォイだったが、司会に煽られて火が付いてしまう。
「『アメリカが世界で一番偉大な国である理由はなんだと思いますか?』だあ?ぜんぜん偉大な国じゃねえから!」リベラル、保守双方をけちょんけちょんにこき下ろしつつ、呑気な質問をした女子大生に対して「アメリカが世界で最も偉大な国」ではない理由を列挙する。しまいにはFワードまで飛び出してしまう。立て板に水。ギャラリーはドン引き。携帯で撮影を始める者も現れる。マカヴォイはしばし沈黙し、トーンを落としてこう続けた。
「かつてはそうだった。正義のために戦い、法律の制定や廃止をモラルに基づいて行い、貧しい人とではなく貧困と戦った。己を犠牲にし、隣人を気にかけ、口先だけではなく行動し、常に理性的だった。巨大なものを作り上げ、飛躍的な技術の進歩をとげ、宇宙を探検し、病気を治して世界一の芸術と経済を育てた。より高みをめざし、人間味があり、知性を求めることは恥ずかしいことではなかった。選挙で誰に投票したかで自分を分類したりせず、たやすく動じなかった。それができたのは我々が情報を与えられていたからだ。尊敬できる者たちによって。問題解決の第一歩は問題を認識すること。アメリカはもはや世界一の国ではない。」
「これで答えになったかな」と言って締めくくる。結局この演説がネットにアップされて「マカヴォイご乱心。アメリカは偉大な国ではないと発言」という切り取られ方をして炎上してしまう。これが『ニュースルーム』が冒頭のシーンだ。
ここで突然話は変わるのだが、ランディ・ニューマンというとてもクレバーなシンガー・ソングライターがいる。”Political Science”と題された曲では、アメリカがセルフイメージの一つとして抱いているヒロイズムとその孤立について皮肉をたっぷり込めて歌っている。『ニュースルーム』の演説と併せてこちらも紹介したい。他所の国の歌ではあるが、自国の気の抜けた愛国歌よりもよっぽど胸に響く。人類はランディ・ニューマンという知性を持ち得たことを誇りに思うべきだ。

アメリカの民主的なあり方を過剰に美化しているきらいは否めない。いささかオプティミスティックな見方だし、部外者としてアメリカのサニーサイドを見ているに過ぎないだろう。隣の芝は青く見えるという話でしかない。創作物から感じた印象でしかないし、さらには、日本語に翻訳されているものには限りがある。群盲象を評すの喩えではないが、我々が見ているのはあくまで一面でしかない。そのことには常に留意する必要があるだろう。
しかし、アメリカのサニーサイドといえるピクサーの映画なんて観ていると本当に感動する。「馬鹿相手に商売やってまぁす!稼ぐが勝ちっしょ〜。ぶいぶい」という姿勢の対極にある。それこそ非妥協的な姿勢でものづくりに取りくんでいる。加えて誰が観ても感動するようなものを、一人の天才に寄りかかったりせず、制作に関わっている一人一人がきちんと自らの役割を果たして一つの作品を作りあげている。その仕事ぶりを実際に見たわけではないから想像でしかないが。さらに、きちんと利益を上げることへの姿勢がじめっとしてないように感じられる。どこぞZOの何某ではないが、金を稼ぐことへの後ろ暗さの反動でわざわざ露悪的な態度を取るなんてことは恥以外の何物でもない。
なんてことを言いつつ、アメリカがどうの日本がどうのといった俗に言う「でかい主語」の印象論は楽しいけれど与太話しかならないことは気に留めておこう。

今回の裏テーマ

ビルボードチャートにトップ10入りしているDrakeやChildish Gambinoの曲はそのMVの内容も含めて話題になっているものである。そこで念のため、100曲すべてYouTubeでチェックすることにした。一通りチェックして感じたことは、自分は何も知らないんだということ。知っているアーティストよりも知らないアーティストの数のほうが明らかに多いし、その曲のジャンルやスタイルをなんと呼べば良いのかわからないこともある。勉強不足だと改めて感じた。こういう結果になれば謙虚にならざるをえない。
加えて、前情報が乏しいまま100曲と直に向き合えば、SNSなどで話題になっている曲をつまみ食いしている状態に比べて、インプットされたものは自分の中で混沌としてくる。新宿駅で電車を降りて、紀伊国屋に行き、本を買ってまた新宿駅へ戻るが如くシンプルにはいかない。歌舞伎町、三丁目、二丁目、御苑前、西新宿などを含む新宿という街をいっぺんに相手にするようなものだから新参者は途方に暮れてしまうだろう。さらにネイティブでもなければTOEICすら受験したこともない日本在住モノリンガルが「洋楽」を聴くことの難しさたるや。(しかし、そもそも日本語だってきちんと使いこなせているとは決して言えないのだから、外国語を殊更わからないわからないといって騒ぎ立てる必要もなかろう。単語がひとつでもわかれば万々歳。という開き直りもありつつ)
バズっていること・ものに対し、特に調べることもせず、また予備知識があるわけでもないのに、アイロニーを込めて揶揄したり腐したり気の利いた風なことを言ったりして身内からのプロップスの種にするといった行いを頭ごなしに否定する気など毛頭ないけれど(何かが議論を呼ぶ度に「文句を言いたいだけの一部の人が騒いでいるだけ」とつぶやく人がいる。おそらく今後50年、同じ言葉を繰り返し言い続け、最後は「文句を言いたいだけの一部の人が騒いでいるだけ」という辞世の句を残して息を引き取ることになるだろう。そうならないためにも三十を過ぎたら性根の腐った相田みつをみたいな安っぽい芸風は捨てて、たくさん本を読んできちんと勉強し、的確な言葉でものごとを語っていかなくてはならないというのが最近の持論だ。やはり勉強の量が圧倒的に足りていないからこのような非ロジカルで危なっかしいことを書いてしまうのだろう。「もう少しうまくなってから練習したほうが」というのび太の言葉は蓋し名言である。)、個人的にはそうした気の利いた風の消費とは別のことがしたい。
言葉の効能によって、物事が収まるところに収まることで得られる安堵もあるが、馴染みのない音楽を浴びるように聞き、現在の語彙では対応しきれずにもはや言葉を失うしかない状況をむしろ幸福だと感じたい。
何もわかっていないのに、このように人様を捕まえて何かを講釈することなど不可能。知ったような口をきくことは自粛しなくてはないならい。どこぞZOの某ではないが「お顔の皮のほうがちょっと厚め・・・なんですかね?」と思われる言動が、良識ある人たちから一方的に叩かれているわけではなく、意外なことにプロップスを得ているような場面に出くわすことも少なくないが、そういう潮流に飲み込まれないよう、謙虚な姿勢で何かに取り組むことは決しては悪くはないだろう。今回のイベントの裏テーマは”Be Humble”としたい。

『邦ロックから遠く離れて』

ROCK CAFE LOFT
2018年6月25日(月)
OPEN 19:00 / START 19:30
前売(web予約)¥2,000 / 当日¥2,500 (+要1オーダー以上)
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/rockcafe/90070

 

お気に入りの気に入らないもの

一週間後に31歳になる。おそらくおじさんからみたらガキンチョだが、中高生からしたらもうおじさんに映るだろう。もう決して若くはない。その事実は受け入れるべきだ。「いくつになっても中学生のときの気持ちは忘れないんだぜ」なんて言おうものなら、過去からタイムスリップしてきた14歳の自分に「オマエみたいなオッサンと一緒にすんな」と吐き捨てられ、駅のホームから突き飛ばされても文句は言えない。14歳のときの自分を裏切らないためにも我々は歳を重ねることと向き合っていかねばなるまい。
Zoffで眼鏡を作ろうと思って10年ぶりぐらいにルミネエストに入ったのだが、ここは自分が来る場所ではないと感じた。客層が明らかに若い。自分の周囲だけ色がくすんで見える。店内の明るい照明を弾き返すことができず、その輝きをただ吸い込んでしまっているように感じられた。自分はもう二十代前半ではないのだと改めて思い知らされ、とてもショックを受けた。そして、未だに二十代前半ぐらいの気分でいた自分にも驚かされた。なんとも情けない話だが。
小学生も高学年になってくるとブリーフではなくトランクスを履く者が出てくる。水泳の授業の前など、皆で着替えているときにトランクスを履いているものを発見すると、ああ大人っぽいなと感じたものだ。あるとき、チキンラーメンだったか出前一丁のキャラクターがプリントされたトランクスを履いている者がおり、なんて楽しい下着を履いているのだと思って羨ましくなった。
後日、母がスーパーに行くというのでついていった。2階の衣類コーナーで出前一丁のキャラクターがプリントされたトランクスを発見したので、ねだってみると「こういう代物はいただけない」と退けられた。トランクスが欲しいのなら、ちゃんとしたトランクスを買ってくるから待ってろとのことだった。ちゃんとしたトランクスとはなんなんだ。チェックのトランクスのことか。あんなつまらない下着を履いてたまるかよ。
当時はそう感じたのだが、思春期に差し掛かり、色気づいてくると徐々に「こういう代物はいただけない」という価値観が飲み込めるようになってきた。ブランドのロゴは小さければ小さいほど良い、むしろないのがベター、なんて価値観は当時覚えたもので、未だにそう思うのだが、今は「インスタ映え」という観点からロゴがどんどん大きくなっているなんて話も聞く。
幼い頃、高速道路を走行中に、リアウィンドウにぬいぐるみをたくさん並べている車を見かけ、「なんだあの楽しそうな車は!」と思い、「うちもあの車みたいにしようよ」と提案したら「恥ずかしいからやらないよ」と却下されたこともあった。
「キャラクターグッズは絶対に使わない」と宣言する人の話を聞いていてそんなことを思い出した。年頃の少年少女が言うのならまだしも、大の大人が敢えて「キャラクターグッズは絶対に使わない」と宣言しなければいけないほど、キャラクターグッズは世の中に氾濫しており、また大人がそれを使用したり身につけたりすることがそこまでおかしなことではないとされている、ということなのだろうか。ダンディズムなんて夢のまた夢、真っ当に年を取ることすら困難な状況において、なんとかしてその道を見つけようと模索する我々としては、加齢とキャラクターグッズの問題について改めて考えていく必要がある。
おそらく30年後、例えばサトシとピカチュウのイラストがプリントされたTシャツを着ている爺様なんて存在は特に珍しいものでもなくなっているだろう。けれども現時点においては、年齢に見合わないキャラグッズを身に着けている人を見ると、どうしても大友克洋の「童夢」に出てくるアラレちゃんの帽子をかぶった老人を思い出してしまい、やや恐怖を感じる。
楽器を試奏する際に、有名な曲のリフを演奏するのは恥ずかしいことだとされている。たしかに楽器屋で誰もが聴いたことのあるようなお馴染みのリフが聴こえてくるとこそばゆい気持ちになる。楽器屋に限らずライブハウスでもサウンドチェックの場面などでそれなりに知名度のある曲のリフやリズムパターンを演奏することは恥ずかしいことだといえよう。他人のライブを聴きに行って、サウンドチェックのときにベースの人が”Tighten Up”など弾き始めたら、いくら”Tighten Up”が名曲といえどもやはりどこか落ち着かない気分にさせられるはずだ。そうは言うものの自分もたまにやってしまう。
これはどういうタイプの恥ずかしさなのか。すこし考えてみたい。
あなたがまだ中学生で誰かに恋をしたとする。それは初恋と呼べるものかもしれない。ある日、あなたは片思いした相手が椎名林檎のファンだという情報を得る。そのことを意識し、いかにも自然な感じを装い、それらしいタイミングで「ああ~やられたり~やられたり~♪」とその相手に聴こえるように口ずさんだとする。
そんなことをする自分が許せるか。こういうタイプの微妙な厭らしさないし恥ずかしさに近いものを感じるのだがどうだろう。メッセージの発し方の思い切りの悪さ。いじましさ。
大して馴染みはないが、知らないこともない曲がある場所で流れており、その空間においてはその曲に慣れ親しんでいることがヒップであると予想できるといった状況で、その曲を知っていることを暗に示すためのパフォーマンスとして、その曲に合わせて鼻歌を歌う人がいる。そのときに、頻繁にメロディやリズムから外れたりして、明らかにうろ覚えだとわかる場合、その場に居合わせた者は気まずい思いをするだろう。「あ!この曲知っている!いいよね!」と言うのはいささか直接的すぎるし、あまりスマートではないという理由でこうした行動を取ってしまうのだろうが完全に逆効果で、全然スマートではないしその姿はむしろ滑稽に映る。
出囃子が鳴り響く中、ステージに登場するという演出も耐え難い。本当に。他人がレディへのクリープをバックに肩で風を切ってステージに登場しようが別にどうでも良いが、自分がやるのは絶対に無理。ミッシェルが「ゴッド・ファーザー 愛のテーマ」で登場するのは見事だとしか言いようがない。「やったー!」という気持ちになる。あれこそが演出だ。微妙に外した選曲が一番恥ずかしい。見ているこちらが恥ずかしくなる。2、3人の身内を対象としたユーモアにただ鼻白むのみ。
ファンキー仕立てのジャムセッションほど我々のバイブスを殺すものはない。BPMが125ぐらいでキーはEm。ファンキー風のドラムパターンとファンキー風のベースライン。ニュー・マスターサウンズなどイギリスのジャズ・ファンク・バンドのようなリフをバンドブーム期のバンドのようなタイム感で演奏した感じといえば伝わるか。本当に嫌だ。その嫌さは、このようなファンキー仕立てのジャムセッションを撲滅するのが自分に課せられたミッションなのではないかと思うほどである。似非ファンキージャムセッションはSNSでよく見られる自分が何かすればそれがそのままコンテンツになるといった思い上がりに似ている。誰もが生来的に持っているダサさに対し、我々は蹴りを入れて誰がボスなのか教えてやる必要がある。
幸せって一体何なんだろう。

 

元気なワンちゃん、Don’t Kill My Vibe

あるとき知人と飲んでいて、「鳥居くんのモチベーションはどこにあるの?」と聞かれた。音楽活動に関する質問だ。なんと答えたのか忘れたけど、改めてその質問について考えると、モチベーションなどどこにもないという答えが浮かんでくる。果たして他の人にはモチベーションを維持すための何かがあるのだろうか。何が楽しくてやっているのか。聞いて回りたい。
小室哲哉が引退会見で「僕は芸能人になりたかったわけではなく、音楽家になりたかった。ヒット曲を作りたかったのではなく、好きな音楽を作りたいと思っていた」と言っていて、ほろりときてしまった。小室哲哉にこんなことを言われたら敵わない。音楽がやりたいという理由で音楽をやったって良いよね別に、と改めて思った。
ただし、音楽がやりたいという理由で音楽をやることにはネックもある。自分がやっていることが音楽であると確信を持てなくなる度に巨大な虚無に包まれてしまうという点だ。こうしている間も暗雲はじわりじわりと迫って来ている。決して視界から消えてなくなることはない。
音楽がやりたいから音楽をやっていると宣言したところで下衆な心の持ち主はなかなか納得してくれないだろう。しかし、色んな女性と関係を持ったり、お金持ちになったり、セレブになったり、他のセレブとお近づきになったりしたいという理由で音楽活動に取り組むという発想は持ち合わせていない。そういう欲求がないのかと尋ねられたら、もちろんそんなことはないのだが、そうした欲求が音楽活動と有機的に結びつくことはない。まずそのようなリアリティが持てない。他人からしてみればわかりやすく俗っぽいほうが経済的で扱いやすいのだろうが、周囲のプロップスを得るために目配せしながら敢えて俗っぽく振る舞うことほど寒々しいことはない。俗っぽくあれという誰かの要求に応える必要などまるでなし。そうしたことを要求してくるコミュニケーションへの帰属意識など害悪でしかないから捨ててしまったほうが良い。捨てられるのであれば。
こういうことを言っていると「鳥居の野郎ときたら、随分と気取ってるネエッ!」と感じる人がいるかもしれない。けれども、気取ることの何が問題なのか。むしろ気取りは良いことだし、居直りのほうが気取りの何倍も情けない。例えば、お洒落なんてどうでも良い、いや、むしろそんなものは気に食わないと嘯いて、ユーモアに溢れたTシャツを着たりするのはあまりにも安直な露悪趣味でしかないし、質の悪い居直りだ。スタバでMacBookを開いて作業をしている人物なんかよりもよっぽど他人の視線を意識して生きている。自意識だの承認欲求だの他人の内面には煩い一方で、自身の内面からは目をそらし続ける。下心など持っていないピュアな心の持ち主のように振る舞う。姿見に自らを映すことは決してしない。そんないい加減でいいのか。
けれども、もうすべてがどうでも良い。面倒臭い。人生得しようが損しようが知ったこっちゃない。結局何をしたって茶番でしかない。茶番を前にすれば、求道的だとか禁欲的だとかいった態度は何も意味しない。そもそもそんなもの有り難いと思っていないし、自らわかりやすい特徴付けをしたり、ヒロイズムに浸ることなど恥以外の何物でもないからしたくない。そこまで面の皮は厚くないと思いたい。
このご時世に真面目な態度で暮らして良いことなど何ひとつとしてなさそうだが、あまりの馬鹿馬鹿しさに悠長に笑っていられなくなれば、自ずと真面目にならざるをえない。すべてが茶番だからといって居直りたくないし、安っぽいシニシズムから現状追認することだけは避けたい。いかにもサブカルっぽい露悪的なユーモアでなんとなくいけすかないものを腐すなんてのはもってのほかだ。「なんとなく腐してる」とでもいうような。ああいうしょうもないルサンチマンを裏返しただけの引きつり笑いは人を無力にする。この先の未来に持っていく必要は全くない。そうした悪貨のようなユーモアに対し、我々は砂漠を湖に変えてしまうほどの唾を吐きかけてやらねばなるまい。さらに言うまでもないが、実情がどうであれ、世の中が悪い、時代が悪いなどといって自己批判の機会を放棄することはかき氷に熱湯をかけて召し上がること以上に間抜けである。この種のくだらないことは平成とともに終わらせてしまうのが吉。
茶番茶番と言いながらも、今取り組んでいることが、ひょっとすると茶番じゃないかもしれないという微かな希望は捨てずにいたいと思う。情熱を掠め取る罠がそこら中に仕組まれていて、意志を貫き通すことはとても困難だ。水は低きに流れるというが、ときに流れに逆らう必要がある。その姿は傍から見れば随分と滑稽に映るだろうが、もうそんなことにかまっていられない。不本意なことを梃子にし、状況を変えるためにただひたすら行動するほかない。例えその取り組みが徒労に終わろうとも。
なんていうことを書き散らして自らを鼓舞しなければやっていけないほどに、モチベーションを高める何かを長いこと見つけることができないまま、無為な毎日を過ごしてしまっている。果たして他の人にはモチベーションを維持すための何かがあるのだろうか。何が楽しくてやっているのか。聞いて回りたい。
日頃からどんなに些細なことでも「わあい!」とか「やったあ!」とか「嬉しいなあ!」とか「本当にありがとう!」と口に出して反応したほうが良いのかもしれない。表情は感情に先立つなんて話もあるが、言葉も感情に先立つものだといえよう。こうなってくるともはや自己啓発だが。スマイル!ハッピー!サンシャイン!地球に感謝!野心を持とう!ランボルギーニ!モエ・エ・シャンドン!タワマン最上階!ワオ!

 

最近観た映画2

もはやせっせとブログなんてものを書いている人などこの世に存在しないのではないか。そんなことをたまに考えたりする。この健気さは傍から見ても随分と滑稽に映るだろう。
「お腹減った」と呟いただけでいいねが1万以上つくようなセレブでない限りインターネットにおいて何かを発信して誰かに届けることなどもはや不可能!こんなことを言うと、中には「いやいやいや、そんなことないっしょ~」と仰る方もいるだろう。そんな人にはこう言いたい。そうだね。

『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』

クレイグ・ガレスピー監督の作品。この監督の他の作品は未見。と思ったが『ザ・ブリザード』はDVDで鑑賞していた。クリス・パインはシャイな役柄のほうが良いと思ったことしか記憶にない。いや本当にシャイだったっけ?
ここ数年(10年、いや20年ぐらい?)、本当に実話ものハリウッド映画が多い。『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』も皆さんご存知の通り実話もので、実在の人物が主人公だ。主人公のトーニャ・ハーディングについて、ライバル選手に怪我を負わせたフィギュアスケート選手であることをぼんやりと知るのみだった。当時その事件についてニュースで見ていた可能性はあるが全く記憶にない。ついでにいうと映画の中でほんのすこし言及されるOJシンプソンが何者なのかいまだによく知らない。ハーディングがトリプルアクセルを成功させた最初のアメリカ人女性であるといったスポーツ選手としての実績について、この映画を観るまで知らなかった。
映画は登場人物たちのインタビューから始まる。もちろん本人へのインタビューではなく出演俳優による模擬インタビューだ。本人に似せて老けメイクを施したマーゴット・ロビー、セバスチャン・スタン、アリソン・ジャニー、ジュリアンヌ・ニコルソン、ポール・ウォルター・ハウザー、ボビー・カナヴェイルらが演じる主要な登場人物たちがインタビューに答えるところをいささか滑稽に演じている。ある種の出落ちといえよう。
キャプテン・アメリカシリーズのバッキー役でお馴染みセバスチャン・スタンはカツラをかぶり禿かかった頭を再現している。二枚目俳優が似合っていない滑稽なカツラをつけるということで思い出されるのはアダム・マッケイの『マネー・ショート 華麗なる大逆転』だ。これも実話ものの映画で、ライアン・ゴズリングがおかしなカツラをつけて登場する。これも出落ちといって良いだろう。さらにゴズリングはいわゆる第四の壁を破りカメラに向かって話かけるが、その手法は『アイ、トーニャ』においても採用されている。第四の壁という単語は『デッドプール』のプロモーションでよく目にしたが、おそらく『アイ、トーニャ』も『デッドプール』ないし『マネー・ショート』のような軽妙なユーモアでもってその悲喜劇を活写したかったのだろうと思われる。
ちなみに『マネー・ショート』にはマーゴット・ロビーが本人役で出演しており、ゴージャスでセクシーなブロンドの美女という鮮烈なイメージを身に纏い、泡風呂に浸りシャンパンを片手にサブプライムローンがいかにいい加減なものか解説するという洒落を披露している。そんなセクシーでゴージャズなマーゴット・ロビーが『アイ、トーニャ』においては芋っぽい田舎娘を演じるというのだからこれも出落ちといえよう。
第四の壁を破るという手法は歴史があるものだし、この世に存在するすべての映画を観たわけではないから、それらを羅列するわけにはいかない。最近の例を挙げると、こちらはドラマだが『ハウス・オブ・カード』も主人公を演じるケヴィン・スペイシーが視聴者に語りかけること度々。『ハウス・オブ・カード』のショーランナーであるフィンチャーの『ファイト・クラブ』もまたエドワート・ノートンやブラッド・ピットが観客に語りかけるシーンが挿入される映画だ。JBの伝記映画『ジェームス・ブラウン〜最高の魂を持つ男〜』でもJB役のチャドウィック・ボーズマンが観客に向かって語りかけていた。これもまた実在の犯罪者の話を元にした映画だが『バリー・シール アメリカをはめた男』ではビデオテープに収めた映像という体ではあったがトム・クルーズがカメラに向かって過去の出来事を語っていた。
マーゴット・ロビーの出世作となったのは、スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』だ。ディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートのゴージャスな妻役を演じている。この映画もまた主役のディカプリオが観客に向かって語りかける。『グッド・フェローズ』、『カジノ』など、ノンフィクションを扱った作品で回想形式のナレーションをつけるというのがスコセッシの得意技だ。
トーニャ・ハーディングはいわゆるプア・ホワイトで、アリソン・ジャニー演じる口がとても悪くときには手も出る母親に育てられる。またセバスチャン・スタン演じる無知蒙昧で暴力を振るう男と結婚し、顔に痣を作ったり銃を向けられたりもする。主人公が近親者に振り回されるスポーツ映画といえばデヴィッド・O・ラッセル監督の『ザ・ファイター』で、この映画もまた実話ものだ。『ザ・ファイター』の導入部分は『アイ、トーニャ』と同様、クリスチャン・ベールとマーク・ウォールバーグのインタビューから始まる。HBOがクリスチャン・ベール演じるディッキー・エクランドの映画を撮影しているという設定だ。
また『アイ、トーニャ』にはデヴィッド・O・ラッセル監督の『アメリカン・ハッスル』に通ずるところがある。例えば出演者たちの当時の風俗に基づいた今から観ると滑稽に見える衣装やメイク、髪型といった点だ。
『アイ、トーニャ』に登場する曲者たちの中で一番間抜けなのはポール・ウォルター・ハウザー演ずるショーン・エッカートという人物だろう。肩書はハーディングのボディガードとのことだが、とんでもないボンクラ野郎で、あまりのお粗末さに笑いを誘う。
オーストラリア人の監督によるいかにもアメリカ的な「気の利いた実話もののコメディ映画」の技術の粋を集めた『アイ、トーニャ』であったが、映画館ではあまり笑いが起きていなかった。笑いととも迎え入れるべき作品だろう。この映画は絶えずどうぞ笑ってくださいと我々に語りかけていたはずだ。

 

最近観た映画

Filmarksという観た映画を記録するアプリをご存知だろうか。2015年からこのアプリを使用して劇場で観た映画の鑑賞記録をつけている。DVDやストリーミングで観た映画は鑑賞メーターというサイトで記録をつけているが、サイトの調子が悪くなることがたまにあり、こちらの記録はおざなりなっている。
Filmarksは5点満点で採点ができるようになっており、さらにレビューを添えることもできる。本来の使い方としては食べログのように個人の感想をシェアするものなのだろうが、そういう使い方はしていない。採点もせずレビューもせずにFilmarks上で「観た」ことだけをシェアしている。
食べ物を食べていて心から美味しいと思うことは稀である。一方で、あまり美味しくない、というか端的に不味いと感じることは多々ある。例えば自分が作った料理などはあまり美味しくないと感じる。
正直に言って美味しいということがよくわからない。わからないが、辛うじて美味しくない、すなわち不味いと感じることはできる。であれば、何かを食べてこれは決して不味くはないと感じたら美味しいと思ってしまえば良いとも思うが、それはそれでなんだか寂しい気もする。
食べ物に関して強く喚起されるのは「また食べたい」という欲求だ。食べたいという欲求を持ち、実際に食べてそれを満たすだけというサイクルの中にいるといって良いだろう。また食べたいと感じた料理のことを美味しいと言えば良いとも思う。けれども、また食べたいという感情は事後的に発生するものだ。我々が「美味しい」という言葉を聞くのは料理を食べている最中ではなかったか。
話を映画にうつすと、映画の場合はさらに進んで、観ていてもおもしろいとかつかまらないとか良いとか悪いといったことがよくわからない。皆がどういう基準で判断を下しているのか不明である。物語を咀嚼する力が乏しく、話の筋を追うのにも一苦労で、隠喩に気づくことなどほぼないといって過言ではない。撮影や編集といった技術的なことにも明るくない。人と話していて映画の話題になることがあるが、よほど趣味の近い人でない限り、言っていることにピンと来ないことが多い。そんなことを改めて考えてみると自分がなぜ映画を観ているのかわからないが、観たいという気持ちだけは現実的な手触りがある。なぜ映画を観るのかという問いに対しては、観たいからとしか答えようがない。でも娯楽と接するときの心なんて基本的にはそんなもんだよなあと改めて感じたりもする。
そんなことを言いつつ、Filmarksのレビューを書いてくださいと人から言われたので、軽い気持ちで「じゃあ書いてみよう」と思ったが、Filmarksに寸評を書きはじめると、作品ごとに文章の量が違ったり、レビューを書かない作品が出てきたりすると体裁が悪くなりそうだから、このブログ上で気ままに書いていくことにした。自分が映画について何か書けることなんてあるのだろうかという虚無と付き合っていくための訓練の場にしたい。なけりゃないで良い。というかたぶんない。そもそも対象がなんであれ書けることなんて何一つない。

『レッド・スパロー』

主演のジェニファー・ローレンスは『世界にひとつのプレイブック』を観て以来ファン。といっても全ての出演作をフォローしているわけではないが。あの不機嫌そうな表情に惹かれる。
ジェニファー・ローレンスはロシアの女スパイ。女スパイといっても、ジェームス・ボンドやイーサン・ハント、ジェイソン・ボーンのように華麗なアクションを繰り広げるわけではなく、色気を駆使しベッドの上で要人や敵国の諜報部員から情報を聞き出すというのが彼女の仕事である。
主人公は元々バレリーナだったが怪我を負いバレリーナ人生を諦めることになる。同居する病気の母を世話しなくてはならないのだが、国からの支援を打ち切られることになり危機的状況に。そんな中、諜報機関で働く叔父の手配により、母を半ば人質に取られる形でスパイ養成所に入所することになる。この養成所というのがハニートラップ関する技を習得する場となっており、他の候補生と机を並べてハードな内容のポルノを見たり、人前で裸にさせられたり、さらには性交させられそうになったり、隠しカメラで撮影された自分の性交の様子を品評されたり、人としての尊厳を捨てるための訓練を徹底的に受けることになる。
とまあ、読んでおわかりの通り、漫画でいうところの大人向けの劇画的な内容なのだが、これを監督のフランシス・ローレンスが重厚に撮るものだから、かえってその荒唐無稽さが悪目立ちしてしまっているように感じた。脇を固める俳優たちも、ジェレミー・アイアンズ、シャーロット・ランプリング、キーラン・ハインズなど渋いところを揃えているから、シリアスな場面はよりシリアスにならざるをえない。しかし、それがかえって冗談のように見えてしまう。それは彼が数本監督を務めた『ハンガー・ゲーム』シリーズとも共通するところである。
暴力描写が度々挿入されるが、痛そうなシーンが苦手だから観ていて卒倒しそうになった。例えばスパイ映画で、敵に囚われたスパイが体を縛られ拷問を受けることになる場面で、物々しい拷問器具のコレクションがいかにもサイコパスでございという感じのニヤつきとともにスクリーンに映されることがよくある。この後の展開でありがちなのは、拷問シーンを直接見せることをせず、重たそうなドアをカメラが映し、叫び声だけを聞かせるというパターンだ。それが映画的な表現の基本といって良いだろうが、『レッド・スパロー』では拷問シーンをしつこく映す。本当にしつこい。クローネンバーグやレフンの暴力描写に触れたときのように「あなたお好きですねえ。いいですねえ。」と思うことも特にない。思うに監督は性描写や暴力描写が苦手なのではないか。苦手だからこそ逃げてはいけないと息巻いて取り組むから、いささか露悪的な表現になってしまうのではなかろうか。なんて指摘したところで下衆の勘繰りでしかない。クローネンバーグなんかは、そういう描写の取り扱いがものすごく冷淡で、それがむしろエロかったりもする。
しかし、ジェニファー・ローレンスが下衆な男どもに鉄槌を食らわしていく様は快感ではあった。欲を言えばもっと即物的なかかと落としでもくれてやればこちらの溜飲も下がったものだが。
映画は後半より、ジェニファー・ローレンスが一体何がしたいのかわからなくなる。それがサスペンスになっている。しかし情けないことに途中で寝てしまい終盤何が起こっているのかよくわからなかった。種明かしのために回想シーンが挿入されるが、これがどうも鈍臭く感じてしまった。
ジェニファー・ローレンスはいつも通り全力で仕事をしていたが、『パッセンジャー』と同様に、空回りしているようにも見えた。もちろん彼女にその責任はない。
スパイ残酷物語という点で、ジョン・マッデンの『ペイド・バック』が思い出された。これがなかなかに陰惨な話だった。暗くてジメジメしたスパイ映画だ。あの虫も登場する。同監督の最新作『女神の見えざる手』にも同じ虫が出てきたからよほど好きなのだろう。ひとたびあの虫が登場すると、オセロの白と黒が一気に入れ替わるかのように、その映画は虫の映画になってしまう。自分の中で。
また地味なスパイ映画という点から『誰よりも狙われた男』を思い出した。この作品の監督のアントン・コービンは過去にニルヴァーナの”Heart Shaped Box”のMVを撮影したこともあるMV畑の人なのだが、そんな出自を感じさせないようなひたすら地味で渋い映画を撮っていて好感が持てる。
寸評のつもりが長くなってしまったからこの一本にとどめておきたい。今後続けるかは不明。続けない気配が濃厚。でも文章にすることで映画が自分の手に負えるものではないと逆説的に顕在化するこの感じはハマりそうといえばハマりそう。

 

爆笑!おもしろ帝国

皆さんこんにちは!相変わらず絶望とともに目覚め、諦念とともに眠りにつく毎日を過ごしております。すべてが茶番ですけど、「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」なんて金言のとおり、機を見て燃えれば良いんです。馬鹿野郎!明日やろう!
先日、とんねるずの「みなさんのおかげでした」が最終回を迎えたそうだ。久しぶりに野猿という単語を聞いて小学生の頃にテレビで観た野猿のドッキリで大人が泣かされる姿を見て今で言うところのパワハラの恐怖みたいなものを植え付けられたことを思い出した。パワハラということでいえば、ダウンタウンも同様にして恐怖しか感じなかったし、況やたけし軍団をや。無意識にそうした集団のあり方を避けて生きてきた結果が今の自分であるように感じる。先輩から肩パンされて痛がりながらもまんざらでもない表情を浮かべる同級生もいたが、自分は絶対に肩パンなんかされたくなかった。なぜなら屈辱的だし痛そうだから。権力の行使がそのまま笑いと結びついていることに改めて恐怖を感じる春先でございます。
2010年ぐらいまではテレビのバラエティ番組が大好きでゲラゲラ笑いながら見ていたのだが最近は素直に笑えなくなってきた。単純につまらないとも言えるし、コミュニケーションの土台になっている価値観があまりにも醜悪なことも気になるし、バラエティ番組的なユーモアのあり方と今自分が身を置く環境というか日々の暮らしにおけるそれとの距離があまりにも近すぎることに違和感を覚える。
高校生になって男子のノリが突如として吉本の芸人っぽくなったときに抱く違和感に近いようなものだが、それとも少し違う気がする。テレビの「お笑い」的な価値観の影響力というか浸透力の強さに酔って気分が優れなくなった状態、なのだろうか。むしろ、バラエティ番組のほうが現実社会での我々の振る舞いを反映していると見ることもできるが、どちらにせよ問題は、そこにカメラなどないにも関わらずバラエティ番組的に振る舞ってしまう我々にあるといえる。
バラエティ番組的な振る舞いというのは、なんでもオチをつけたがったり、ツッコまずにはいられなかったり、すべらない話を披露するといったものだ。そんなことは生きていれば誰でも行う可能性を持っているし、それは我々の営みとして決して安易に否定すべきでないとは思うものの(日常生活においてツッコミほど邪魔くさいものはないと感じているが…)、バラエティ番組をデフォルメしたような形でそうした「芸」を披露されると身構えてしまう。バラエティ番組内でのみ通用するはずのルールに知らぬうちに絡め取られているような心持ちになる。そういったある種のゲームのようなものに参加したつもりなど一切ないはずなのに、気がつけば「お笑い」的な尺度に合致した形で面白く振る舞わねばならないと心のどこかで考え、実際にそのように行動してしまう。(多数の女性と関係を持つことで男性としての価値がより高まるといった言説を気づかぬうちに自明のものとしてしまうことと同様に。)我々は本当に皆が皆、過去のある時期に芸人になりうる可能性を秘めていた芸人予備軍だったのだろうか。そして、「笑い」というものは各人がそれほどまでに追求しなくてはいけない道のようなものなのだろうか。
例えば太っているとか痩せているとか頭が禿ているとか顔がブサイクであるだとか肌が汚いだとか足が短いだとか当人がネガティブに捉えている要素はユーモアにして笑い飛ばせという考えがある。そのコンセプトはわからないわけではない。けれども、それはあくまでコンプレックスとされるものをそのままコンプレックスとして抱えている側の選択肢のひとつでしかない。他人のコンプレックスに対してツッコミを入れたり、それをイジったりするなどして「笑い」へと「昇華」することに積極的に協力する側が、コンプレックスを抱えた人にそうした振る舞いを強いることに対して強烈な違和感を覚える。そういうサジェスチョンをする人物が自ら率先してそれを実践しているのかといえば相当に疑わしい。
我々はいじる・いじられるという関係が非対称であることについてあまりにも鈍感すぎないか。さらに、積極的であれ消極的であれ、鈍感でいたとしてもさしたる違和感も覚えずにすんでいる場を作りあげ、それを維持してきたことや、誰かをイジったりして笑う側に立つ際にその根拠となる足場、すなわち「我々は至って普通の人々であり、逸脱した人物を笑っても良い立場にある」といった認識を既得権として手放さずにいることにこれほどまで何も感じなくてもよいのだろうか。端的にいえば、果たして「相手の立場になって考えてみる」および「そういう自分はどうなんだろうと自己を検証してみる」という手続きを経る必要などありはしないとたやすく言い切ってしまって良いのかということだ。
以前、音楽活動に従事する人から「音楽よりお笑いのほうが偉い。なぜなら笑いのほうが人間の本質に近いから」というようなことを言われてがっくし来たし、未だに聞き捨てならないと思っているのだが、この言葉がもたらす途方もない違和感について考えを巡らせた結果、お笑いが人間の本質ではなく日本語あるいは文化、または常識といったものに軸足を置いていることに気がつくことができた。さらに音楽が好きなのは、それが日本語ではないからという理由があるからだと確信した。
ハリウッド映画を観ているときに英語を理解する人が皆と違うタイミングで笑ったりすることがある。これに対しイラっと来た人物が、そのイライラを対象に向けて「英語わかる俺カッコイイ」アピールに過ぎないと揶揄するなどして鬱憤を晴らし溜飲を下げるところを度々目にする。そんな揶揄をしたところで英語がわからないことをコンプレックスに思っていることとその人の抱えるルサンチマンを露呈することにしかならないのだが、裏を返せば、笑いというのは自分が属する、または属したいと願う文化圏を明らかにするものであるということがわかる。だから、笑いを通じて特定の文化に抱かれていることを実感し、時に安らぎを覚えることもある。一方で、このコミュニティには属していたくないという思いから誰かが冗談を言っても絶対に笑うものかと強く心に決め、そのように振る舞うこともある。人は単純におもしろいから笑い、おもしろくないから笑わないというわけではない。笑いは100%ピュアな感情の発露でも、合理的判断に基づく行為でもない。笑いは多分に政治的な側面を持っている。「笑ったら負け」という言葉にはそのような考えが反映されているように感じる。
「笑いには笑えるか笑えないかというシンプル且つ確固たる価値判断基準がある。音楽にはそこまでシビアな基準はない。ゆえに趣味や好き嫌いといった逃げ道を残している音楽はぬるい。当然、それに従事するミュージシャンもぬるい」というようなことを音楽に従事する者から言われてがっくし来たことがあった。なるほど、たしかに笑いというのはそのような価値判断基準に支えられているものかもしれない。売れているものとおもしろいものが合致した稀有なジャンルのようにも思える。しかし、よく考えてみるまでもなく決してそんなことはない。親と一緒にテレビを見ていて、自分は腹を抱えて笑っているのに、親は冷たい眼差しをブラウン管に向けているという経験はなかったか。確固たる価値判断基準とやらも影響力を及ぼす範囲には限りがある。決してそれがあらゆる文化圏を支配するほどの効力は持たない。しかし、その文化を自明のものとし、自分の立っている足場がどのように成り立っているのかを意識しなければ、それほどの効力を決して持ってはいないということに気づかないかもしれない。笑いという行為が感情の発露であることから、それが人類にとっての何か根源的なものに支えられているように感じてしまうことは至極当然のことといえる。
「理解できる人が多いから日本語よりも英語のほうが経済的に優れている」ということと同様、そのユーモアを支えている価値観が通じる範囲が広ければ広いほど経済的であるとはいえる。我々がイロモネアで仏頂面をしている人を、立ち退き反対のノボリを掲げた住宅を見つめるときと同じ眼差しで見つめてしまうのはおもに経済的な理由からである。彼らは潤滑な流通やコミュニケーションを妨げる人物として邪険に扱われがちである。
ホリエモンがかつて「稼ぐが勝ち」という本を書いていた。「笑わせるが勝ち」と考える人も多いのではなかろうか。稼ぐことも人を笑わせることも(そして、多数の女性と一夜限りの関係を持ち、その内容を男友達に吹聴して回ることも)、それを追求していく上で、ときとして倫理というものにぶち当たる。その度に我々はなぜ稼ぐのか、なぜ笑わせるのかということの根源を問う必要があるはずだが、「笑い」という営為にはどこかアンタッチャブルな雰囲気もある。「笑い」そのものが善であることが自明となっており、それについて検討することはもはや不要だと考えられている節がある。けれども、テレビを観ればわかるとおり醜悪な笑いというのは存在する。
なんでもかんでも笑いにすることが善い行いだと思えないのは、笑いというものがなかなかに狡猾で戦略的でありながらも、いかにもピュアな感情の発露であるという様子で八方に笑顔を振りまいていることに不信感を持っているからだ。ユーモアは、そのユーモアが通じる枠をさらに拡大し、その枠をより強固にするために、敵味方を峻別し、敵を殲滅せしめ、あらゆる空間を管理下に置き、その土地固有の文化を略奪せんとするシステムである、なんてことを言うつもりはさすがにないけれど、少なくとも感動が押し売りされているというのであれば、それと同じ程度、あるいはそれ以上に、笑いも押し売りされているといえはしないだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=8CJZcVi5BA4